第18話 黒岩菖蒲(3)


「穴守花咲。名前には花に関する言葉を入れるのが決まりなのかもしれないな。穴守藤吾も、藤って字が入っている。花咲と書いて花咲さき。宿も菖蒲しょうぶをコンセプトに統一しているらしい」

 そう聞いて馬田は眉を上げる。一ノ瀬が温泉を直接訪ねたという話は聞いたことがない。

「一ノ瀬さん、穴守温泉に行ったことあるんですか?」

「いや、ホームページを見た」

「ホームページ……」

 警察でなくても手に入る情報だった。

「菖蒲湯が売りなんだと。生吹先生から送られてきた復顔のメールに、宿で撮った塩野の写真も添付されていたんだが、それにもしっかり写ってるぞ。見るか?」

 一ノ瀬はマウスをクリックして、メールの画面を下へスクロールした。

「ほんとですね。浴衣の模様にも、カーペットにも」

「印刷して渡そうか? 黒岩の取り調べに使うだろ」

「助かります」

 一ノ瀬がプリントアウトした写真を馬田に渡すと、向かいのデスクから部下に呼ばれた。

「一ノ瀬さん、穴守花咲と連絡が付きました。五時半までなら長瀞遺跡、六時以降は穴守温泉だそうです」

「今からだと六時以降の方が確実だな。宿の方へ行くと伝えてくれ」

「了解です」

 一ノ瀬はノートを鞄に突っ込み、薄手のコートを腕に引っ掛けて席を立つと、「それじゃ、俺はこれから聴取に行ってくる」と言って、馬田の肩をパンパンと叩いた。

「お前も黒岩の拘留期限が迫ってるだろう? 頑張れよ、一課の光源氏」

 馬田は一ノ瀬の一言に苦笑した。

「縁起でもないですよ。なんたって、今回の相手はですから」


 落とそうと思えば誰でも落とせる調べ官――


 馬田は一課でそう呼ばれている。そんなことが可能なのは、相手によって取調べのアプローチを変えられるからだった。時には、人好きのする顔貌と物腰の柔らかさで、相手の心に寄り添い心を開かせて落とすこともあれば、鋭い推理で崖っぷちまで追い詰めて自白を余儀なくさせることもある。


 臨機応変に、相手にとって一番効果的な方法を自然に選べるのだから、それはもう天賦の才というしかない。逮捕以来、完全黙秘を貫く黒岩菖蒲の攻略を任されるのも頷ける。


 落とそうと思えば落とせる。が、だからといって、真実を曲げたりはしない。だからこそ、今回ばかりはやりにくい。単に相手が完全黙秘を貫いているからというのではない。己の勘が言っている。黒岩はシロ。


 なぜなら、あの日、見たからだ。黒岩緊急逮捕の現場で、手錠をかけられ、警察に連行される彼女の表情を。彼女の口角に現れた僅かな微笑みを。緊張から解かれたような笑み。自分が逮捕されることで、何かを守れたかのような、自分が犠牲になることに喜びを得るような、そんな類の微笑みだった。


 警察は黒岩の起訴を望んでいる。当然だ。自宅に首を所持していた。明らかに犯人で間違いない。それが起訴できないとなれば、警察の威信に関わる。しかし馬田の勘はそうではないと警鐘を鳴らす。


 彼女は誰かを庇っている。


 繰り返す取り調べの中で、勘は徐々に輪郭を濃くした。真実はもっと深いところに埋まっている。馬田は、組織の方針に従って取り調べを進めながら、あくまで自らは真実を追い求めている。殺人に関して黒岩菖蒲の無罪を証明し、背後で暗躍する真犯人に手錠をかける。それが馬田の最終的な狙いだ。


 だが、拘留期限は三日後。


 落とせないからといって、ここで取調官を干されるわけにはいかない。証拠不十分で黒岩を処分保留釈放にさせるわけにもいかない。両方を避ける方法は、馬田の思いつく限りたった一つしかなかった。この方法を取れば、きっと上は混乱するだろうが、真実に近づくためには避けられない。


 もうすぐ午後二時になる。


 ――さあて。そろそろ、取り調べの時間だ。


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