第25話 穴守温泉(7)
なんて不甲斐ない。
部下に迷惑をかけて。
上司、失格だ……。
生吹は朦朧とする頭でかろうじてそんなことを考えた。
今はとにかく水……。冷たい水を飲んで、この体をどうにかしたい。ああ、氷がなくても、水だけでも飲めば違ったかもしれない。水なら洗面台の蛇口をひねるだけでよかったのに、氷なんて言ったものだから、わざわざ彼に取りに行かせることになってしまった。部下への指示を誤った。上司、失格だ……。
パチン――
ふと、部屋の電気が落とされた。
生吹はそれを耳と瞼の裏で感じる。
何事だろう。停電か?
そんなわけがない。
停電でスイッチの音が聞こえるはずがないのだ。
ドアの開く音がしなかったのに、誰かがこの部屋の中にいる。
馬田……いや、彼が音を殺して入って来る理由はない。
じゃあ、いったい誰が……。
すぅ――っと障子戸の開く音。続いて畳を踏みしめる一歩。
生吹は危険を感じて身を硬くしたが、起き上がろうにも体が言うことを効かない。
「まだく……!」
ここにはいない、けれども唯一頼れる人の名前を呼ぼうとする。しかし、侵入者の方が迅速だった。
「~~~~っ ~~っ ~~~~っ!」
苦しい……!
息がっ 息が出来ない……!
首を振ると余計に意識がもっていかれそうになる。抵抗は空しい。次第に酸欠になり、意識が薄れて行き、抵抗はそのうちにやんだ。
ガシャッ ガシャッ ガシャッ ガシャッ
廊下の離れたところから妙な音が近付いて来る。
侵入者がそれに気付いて手を放す。
生吹はすっと体が軽くなるのを感じ、辛うじてつないだ意識をグイと引き寄せる。これまで取り込めなかった酸素を一気に肺に取り込み、激しく咳込んだ。
ワインクーラーに入れた氷の音が廊下に響く。
ガシャッ ガシャッ ガシャッ ガシャッ
ガシャッ ガシャッ ガシャッ ガシャッ
ドアを開けて入り、驚いた。
「うぉ暗! なんで暗いの?」
電気を消した覚えはないのに、生吹が起きて、わざわざ電気を消したのかと疑問に思いながら、電気をつける。
「すみません、生吹先生。暗いと見えないんで電気つけさせてもらいました。起きられました? 生吹先生?」
障子戸は開いていて、部屋の中を覗くと、生吹が馬田に背を向け布団の上に座っている。馬田は安堵して言う。
「生吹先生、もう起きて大丈夫なんですか? 無理しないでくださいね。でもよかった、思ったよりも回復が早くて」
へらへらと話し続けるも、何も答えない生吹のことが心配になり、まずは氷の入ったワインクーラーと水のボトルを差し入れようと部屋に入った。馬田が布団の傍まで行って膝をついた瞬間、生吹がふいに飛び込むように抱きついて、馬田の首に腕を回す。
カラリ――と、ワインクーラの氷が音を立てて崩れた。
「あ、え?」
状況が呑み込めない馬田。ただひたすら困惑する。
それも無理はない。上司が突然抱きついてきただけでもビックリなのに、耳元で啜り泣きが聞こえる。長年泣いたことなどなさそうな、既に涙腺が退化していてもおかしくない程クールな上司が、今、自分に抱きついて泣いているのだ。
「どうしたんですか? 生吹先生……」
馬田は戸惑いながらも背中をとんとんと軽く叩いてなだめる。
どれくらいそうしていただろう。
啜り泣きが落ち着き、呼吸も整ってきた。しかし生吹の腕は解けない。背中をなだめていた手を止めて聞く。
「僕がいない間に、何かありました?」
馬田の声が優しく響く。
「迷惑をかけてごめん……」
生吹はそう言って首に回した腕を緩め、馬田は口を効いてくれた上司にほっとする。
「僕、別に迷惑だなんて思ってないですよ?」
生吹はこれが最後というように洟をすすり、馬田を完全に解放した。
「……ありがとう」
生吹は言って、はだけた足元と胸元に浴衣を手繰り寄せて整える。
「何が、あったんですか?」
「さっき、この部屋に誰かが入ってきて」
「え」
「口を塞がれて」
「はい……」
「殺されかけたんだ」
「うぇえええええっ!? それって、さぁ、さつじん、殺人未遂じゃないですか!!!!」
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