第20話 穴守温泉(2)


 穴守あなもり温泉は小さいながら風格のある宿だった。どう見てもお湯だけの利用が可能とは思えなかったが、フロントに尋ねると濃紫こいむらさき色の法被はっぴを着た感じの良い男性が、歓迎でございますと品よく微笑み、二人に木の湯札を渡してくれた。


「この宿は菖蒲あやめがモチーフなんですね」

 生吹が旅館の内装を見渡して言うと、

「ああ、いえ、こちらは菖蒲しょうぶでございまして。当宿はかねてから菖蒲湯を売りにしております」と言う。

 生吹はうそだろう? とつい目を見開いて手中の湯札を凝視した。

 菖蒲しょうぶなら花の付け根に黄色い筋が入るはず。筋でなく網目模様が入れば菖蒲あやめだと生吹は思うが、どちらであっても、自分にとって困ることでもない、と気にするのを止めた。


 時刻は七時を回っていた。この時間、泊り客は夕飯時で、仕事帰りのビジターも一旦掃ける時間らしい。生吹は女湯でひとり、透き通った翡翠色の温泉を、滑るような肩に流し掛け少し反省していた。男湯女湯に分かれる前、少々馬田をからかい過ぎてしまったのだ。


「流石にちょっと言い過ぎたかな」と、美しい色の湯に向かって独り言ちる。


 同じ時、馬田は男湯の洗い場でゴシゴシと持参したタオルを体にこすりつけ、汗と鬱憤を洗い流していた。さっき生吹にからかわれたことに少し怒っていたのだ。


 男湯の格子ドアを開ける前、「あの子を待たないのか」と生吹に聞かれ、そんなことしない、自分は草食系男子で、好きになってくれたからと言って手当たり次第に手を出したりしないと言ったら、

『草食系男子なんてものがこの世に存在するのなら、是非博物館に展示したい』と言われてしまった。


 ゴシゴシ

     ゴシゴシ

 ゴシゴシ

     ゴシゴシ


 薄っすらと赤みを帯びた健康的な体を室内の菖蒲湯で温め、露天風呂へと移動する。露天風呂は石造りで趣があるが、こじんまりとしていて、入れて五人くらいだろう。


 寒空の下、今、露天風呂は一人の男が独占していた。馬田が失礼します、と言って湯船に足を入れると、男は当たり前のように話しかけてきた。


「ここはいい~湯だろォ?」


 酒とたばこで潰れた声だった。


「は、はあ……」


 とりあえず返事をしながら、馬田はそれとなく距離を取った。胡麻塩頭、頬の皺と皮膚の垂れ具合、落ち窪んだ目のまわりからして七十を過ぎたあたりだろうか。


「ああ、悪いねぇ、知らない年寄りにいきなり声かけられてもそら困るわなあ」

 男はガハハと呵々大笑する。

「この年になっと若者は誰っちゅーんでもなく若者扱いしちまってよォ、初対面なんてこと構わず話しかけっちまうのよ、悪いねえ迷惑かけて」


「いえ、僕は別に大丈夫です」と言いながら、本当は少し疲れていた。

 今日は遠出で、刺激の強い出来事も重なった。正直ゆっくり一人で浸かりたいという気持ちが強い。しかし、入ったばかりで出て行くような真似もできない。


「兄ちゃんは観光で?」

「観光っていうか、半分は仕事で」

「ふぅん、何してる人?」

 聞かれて答えに詰まる。長瀞遺跡の話題は避けるようにとタクシーの運転手に忠告されたばかりだ。半分観光、半分仕事で長瀞に来ている人の職業を、馬田は足りない頭をしぼって考え、一つ名案が浮かんだ。

「ラ、ライターです。次の企画の取材で」

 ギリギリ嘘じゃない、と馬田は自分に言い聞かせた。生吹が作った原稿を元に、イラスト付きの手書きパネルを作成するのは、馬田の仕事だ。文字を書く限りはライターだ。

「ほぉ~っ 大したもんだ。じゃあ、長瀞遺跡のことでも書くのかなァ?」

 機転を効かせたつもりが、唯一避けようとしていた話題に一直線に突っ込み、馬田の努力は無に帰した。

 しかし、この男が長瀞遺跡の話題で愚痴り出す人物でなかったのは幸運だった。


「ライターさんなら、地元民のこんな話、聞いてみるかい?」


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