第12話 罪と慈悲

 ゴールデンウィークも終わり、学園生活が始まった。デビルスターの我聞は、誘拐犯の逮捕以降、その姿や密売人の石倉への連絡もしていないようである。同じデビルスターの嶺屋の自害によって警戒でもしているのだろうか。警戒は、帝都連合でも同じであった。各分隊や統括グループからのデビルスターの目撃情報やセブンシールのこれといった情報など、全く手掛かりが掴めないままの状況が続いた。

 黒川一狼も学園生活が始まってからは、それまでのように毎夜、愛車のバイパーに乗って走ることは控えていた。学園内では、これまで通りの生活だったが、葵 沙耶、五十棲香織、望月 薊の三人とは、食堂で話をした当初より、会話する機会も増え、親しくなっていた。葵、五十棲、望月の三人組もいつしか名前の下のちゃん付けもなくなり、お互いに名前で呼び合うほど気の知れた仲になっていた。だが五十棲香織に関しては、ゴールデンウィークが明けてから、日に日に元気をなくすように、授業の合間の放課時間も机に塞いでいる所を多く見かけるようになっていた。


「香織、お昼だよ」


「………うん」


 沙耶は、そんな机に塞ぐ香織の姿をよく見かけることに気づき始めていた。


「香織、どうしたの? 最近様子が少し変だよ。身体、何か調子悪い?」


 今日は、いつにも増して香織の様子が変だった。


「大丈夫。だけどお昼やめとく……」


 香織が元気がないのも、木原達、進級入寮組の嫌がらせによる虐めが、日毎に激しくなって行ったからである。これ迄は体に何かしら危害を加えるようなことは無かったが、すれ違いざまに転ばされたり、木原がちょっとしたことでヒステリーを起こし、体を拳で殴られたりしたこともあった。



 今日は、その内の男子生徒の一人から授業の合間の放課時間に階段の踊場へ呼び出され、以前のようにスマホ画面に写る香織の写真を見せられていた。以前にも香織の寝顔に落書きされたスマホの画像をわざと見せてきた男子生徒と同じ生徒であった。


「あの、香織ちゃんさぁ、この画像、クラスの皆んなに回ってるみたいだけど…」


「………えっ!………くっ…」


 男子生徒は、「クラスの皆んな」と言っているが、進級入寮組の四、五人程度であった。それは相手を精神的に追い詰めるために強迫観念を「皆んな」という言葉で同調圧力を感じさせるためのものであった。それを無意識に行なっている彼等は卑怯で狡賢い。

 精神的に追い詰められた香織が、そこに目にしたものは、香織がベッド寝ているところを、パジャマの前ボタンを外され、下着が捲り上げられ、胸がはだけている写真であった。香織はその衝撃に声を失った。思わずその生徒のスマホを取り上げようとするが、素早く引っ込められた。


「このままだとさぁ、学年中、いや学園中に広まっちゃうよ…」


 男子生徒は、その言葉による香織の反応を伺った。


「………………」


 香織の顔が僅かに震えているのが分かった。


「こんなの酷いよなぁ…。俺がなんとかして止めてやるから………、俺にだけ実物見せてよ」


 香織はその言葉に返す言葉もなく、その男子生徒の顔を見ながら震えていた。今ここで倒れ込むことが出来たら、どれ程楽だろう。この男子生徒の言葉に自分の恥ずかしさと恐怖を感じ、それら言い知れない思いが込み上げ、目から涙が溢れた。


「ダメだよ。こんなところで泣いちゃ。俺が虐めてるみたいに見えるじゃないかぁ。まだ時間あるからトイレで涙拭いておいで。…あ、それから今日の放課後、屋上で待ってるから。必ず来てね」


 そういうと男子生徒は、教室に戻って行った。


 香織は、他の生徒に泣いてるところを見られないように、目や顔に手を当てることなく、廊下の床を見るようにして小走りでトイレに走った。床には涙の跡が残っていた。



「香織、具合が悪ければ、保健室行って早退した方が良いよ。私が側に付いてくから……」


「うんうん、大丈夫。こうしてれば良くなるから…」


 香織は、学園中に写真がばら撒かれ、学園に居られなくなってしまう。放課後に屋上へ行かなければ。沙耶にいっそのこと打ち明けようかと思いもしたが、恥ずかしくて言い出せない。

 香織は、そのまま机に塞ぎ込み涙を見せないようにした。



 やむを得ず、沙耶と薊は二人で食堂に行くことにした。

 木原は、ゴールデンウィークが明けてからは、沙耶を昼に誘うことはなかった。


「薊、最近、香織の様子が変だとは、思わない?」


「うん。なんだか元気ないね。そうだまた今度、三人で遊びに行こうよ」


「そうだね。それが良いわ。香織も元気が出そうな…、何処が良いかなぁ」


「あれ? 今日は香織ちゃんは、一緒じゃないんだ」


 食堂の厨房窓口のカウンターで声を掛けてきたのは、一狼だった。


「うん、今日は気分が悪いからお昼行かないって」


「そうか。お大事にって伝えといてよ」


「ありがとう。香織も喜ぶわ」


 薊は、まだ黒川一狼との会話は何処となくぎこちなかったが、沙耶は先輩である一狼に対して、親しい友人のように話せるようになっていた。それは一狼が沙耶達、三人が気軽に話せるように気遣ったことにもよるのであった。

 このようなことは一狼のこれまでには決して見られなかったことでもある。そしてそれは沙耶達のとって、周りの僻みや妬みを受けることでもあったが、一狼からは、それらを許さないオーラのようなものが感じられていた。これも一狼のマニピュレーターの力の一種なのだろうか。



「香織、薊、帰ろう!」


 沙耶はいつものように、香織や薊達と途中まで一緒に帰るように誘った。


「あ、私これから職員室へ行かなければならないの」


 そう言って香織は、嘘をついた。


「何で? なんかしたの?」


 香織は、適当なことを言って誤魔化して、沙耶と薊に先に帰ってもらうように伝えた。沙耶と薊が教室から出て行くと、放課中に香織に画像を見せた男子が香織の机の側を通り、メモを置いて教室から出て行った。


『屋上で待ってるから。先生や誰かにチクったら、大変なことになるよ』


 香織の顔から一気に血の気が引いた。



中等科校舎一階玄関


「沙耶、私、教室にノート忘れちゃった。先に帰ってて」


「良いよ、ここで待ってるから」


 薊は、沙耶の返事も碌に聞かず、慌てて校舎に戻って行った。

 暫くすると玄関に一狼が現れ、下駄箱で上履きを履き替えていた。


「先輩、今お帰りですか?」


 沙耶は一狼の側に近づき声を掛けた。


「やあ、沙耶ちゃんも今帰るところ?」


「そうです。薊がノート忘れて教室に取りに帰っているところなの」


「あれ? おかしいなぁ。薊ちゃんなら四階の階段を登って行くのを見たよ」


 四階の上は、屋上であった。薊達一学年は二階、順に三階、四階と学年ごとに階が別れていた。一狼の三学年は、四階だった。


「えっ、何でだろう? 屋上に何しに行ったのかしら?」


 一狼は、何か嫌な予感がした。日頃、沙耶達が他の生徒から僻みや妬みを受けているのではないか、と感じていた。また前のように誰かに呼び出されて屋上に上がったのではないか。という思いが頭をよぎったのであった。



 薊は、忘れ物をとりに教室へ戻ろうとしていたが、二階の階段を上がった所で、香織が階段を登って行くところを見たのだった。確か職員室へ行く用事があった筈。

 各学年の教室が各階で別けられているように教師の職員室も各学年で階ごとに別けられていた。一学年の職員室は、同じ二階にあった。


 薊は、香織に声を掛けようと思ったが、何か様子が変であることに気づいた。それは香織がゴルゴダの丘を登るように背中には何か重たい物が背負わされているようだった。薊は一旦は、教室に忘れ物を取りに戻ったが、香織のその様子を不審に思い香織の後を追って階段を上がった。



 香織は、男子生徒の指示通りに屋上へ上がった。

 男子生徒は屋上の校舎の裏側の方角を望む手摺の前に立っていた。

 香織は、男子生徒の五メートルほど手前で立ち止まった。


「ヤァ、来たね。さあ、早くもっと近くへ寄って実物を拝ませてくれよ」


 男子生徒は、薄気味悪い笑を浮かべながら、香織に服を脱げと言わんばかりに強制し、香織の方へとゆっくりと歩き出した。


「……そ、そんなこと、出来ません」


 香織は、詰まりながらも、きっぱりと拒絶した。男子生徒は、また一歩、また一歩と香織へ近づいた。


「そんなこと言っても良いのかなぁ…」


「………」


 男子生徒は、香織の前に来ると、香織の胸ぐらあたりを掴み強く引き寄せた。


「や、め、て、く……」


 男子生徒は、次第に力を強めて香織の制服の首元のリボンを引きちぎり、シャツの前立ての中へ無理矢理手を入れてきた。

 その乱暴に激しく抵抗する香織のメガネは、屋上の地面に転がった。香織は恐怖で声が出せなかった。


「あー、もう! イライラするなぁー! さっさと脱がせろや!」


 木原と男女生徒の四人が、塔屋の影から姿を現した。

 そして香織の側に近づいたその内の男子生徒が香織の腹をいきなり蹴った。


「うっ……ぐ」


 香織は、その場に蹲ってしまった。興奮した木原も蹲った香織に体の横から蹴りを入れた。香織は更に地べたに倒れ込んだ。他の生徒もそれを見て興奮したのか、倒れて丸く縮こまった香織を順に蹴るや殴るの暴行を加え始めた。それでも生徒達は顔を殴ったり蹴ったりはしなかった。


「や、め、て……ぐっ! ごめんなさい」


 香織は、その痛みを堪えて、絞った声で泣きながら許しを請うた。


 その時だった。


「ぐっゔぁ、ぁぁぁぁあああああー!」


 塔屋の扉が勢いよく開き、そこから望月 薊が押し殺すような声で叫んだ。薊は、過去に自分が虐めを受けていた時の話を香織にした時、涙を流しながら話を聞いてくれた香織の顔を思い浮かべた。そしてその時の涙の理由が今明らかになったのである。


 薊は、両手に力拳を握りながら、木原達生徒に向かって、一歩づつ歩いた。


「何だ? コイツ? 一緒に脱がされたいのか」


 薊は一歩、そしてまた一歩と近づきながら、薊のその長い腰まである黒髪は、見見みるみるうちに煌く銀髪に変わって行った。そして顔を残した全身が、その制服姿から黒尽くめへと変身して行ったのだった。そう、薊こそ黒尽くめのシスルだったのである。


「?……ば、化け物!」


 薊は、香織や木原達の四、五メートル手前で立ち止まり、木原達に理由を問うた。


「貴様ら、何故、香織を殴る? 香織が何をしたって言うんだ! ……あー、もういい、お前らそこで黙って立ってろ!」


 木原や他の生徒は、薊の変身した姿に驚き、言葉が出てこなかった。というのもあるが、その場から逃げ出したくても逃げられない。薊の命令に逆らえずに、金縛りにあったように身動きできなかった。


「香織、大丈夫か?」


 薊は、地べたに横たわった香織の側に寄り、しゃがんで香織を労りながら乱れた服装を優しく整えてあげた。


「……あ、薊ちゃんなの?」


 香織は、薊にしがみついた。


「香織、もう大丈夫だ。安心して。後は任せて」


「薊! 薊なの?」


 その声は沙耶だった。薊が振り返ると塔屋の戸口の所に葵 沙耶と黒川一狼が立っていた。沙耶は、しゃがんで香織を抱き抱える薊の姿を見て目を疑った。

 薊は、葵 沙耶より、黒川一狼がそこにいることに驚いていた。

 沙耶も事態の深刻さを感じとって、薊と香織のいる所へ走って近寄った。


「香織、どうしたの。何があったの?」


「……沙耶ちゃん…………」


 香織は、薊に抱き抱えながら、沙耶の顔を見て、ただ泣くことしか出来なかった。


「香織、何があった? 全て話せ」


 薊が香織に命じると香織は、入学、入寮してからのこれまでの陰険な嫌がらせや暴力に近いそれら虐めの数々、そして今日のスマホの画像と屋上での出来事を全て薊に話した。

 薊は、抱える香織を沙耶に託して立ち上がり、驚きと薊の命令で身動きできない木原達の元へ歩いた。


「お前ら、よく聞け! 今からスマホの画像を全て消せ!」


 薊がそう言うと木原達は、一斉にスマホを取り出し画像の消去をし始めた。しかし薊は、木原達のモタモタしているところを「かせ!」と言って全てのスマホを取り上げた。そしてそのスマホを全てジャケットの懐に入れ、再び取り出しそれぞれにスマホを返した。これでスマホやネット上の五十棲香織への虐めの痕跡は全て消し去られていた。


「いいか、お前ら! 今後、香織や他の生徒を虐めるようなことは、絶対にするな! それとこれまでの香織への虐めのこと、今日のここでのことは全て忘れろ! そして今からお前ら全員で殴り合え!」


 薊が木原達生徒にそう言うと一斉に殴り合いの喧嘩を始めた。後日、この喧嘩騒ぎが教師に知れ、木原達は訳も分からないまま一週間の停学処分を受けた。


「香織、立てるか?」


「うん」


 香織は、沙耶に肩を借りながら立ち上がった。


「香織、沙耶、今日のことや香織も自分が受けた虐めのことは全て忘れろ。そんな嫌な記憶はない方が良い。さあ、もう行こう」


 薊はそう言いながら、地べたに落ちた香織のリボンとメガネを拾い、そのメガネを香織にかけた。そして薊と香織と沙耶の三人は塔屋の戸口に立つ一狼の方へと歩き出した。


 薊は一狼の顔を見ると、薊の髪は徐々に元の黒色に変わり始め、服装も黒尽くめから普段の制服姿に戻っていった。

 一狼は黙って香織に肩を貸し、四人は階段をゆっくりと降りて行った。



 一狼と薊、沙耶の三人は、香織を寮まで送り届けると通学門へと向かった。

 通学門では、沙耶の家の迎えの車と白城がリムジンで迎えにきていた。一狼は、白城に少し車で待つように伝え、沙耶の帰りを薊と見送った。


「君がシスルだったのか」


「そうです。言おうと思っていたのですが、言いそびれていました」


「いや、別に構わないんだ。余りにもシスルと普段の君が違い過ぎたので、少し驚いたんだ」


「白城さんや他の人には黙っててください」


「ああ。沙耶ちゃんや香織ちゃんは、薊がシスルだと言う記憶も消えているんだよな」


「消えています」


「まぁ、ここでいつまでも立ち話をしていると白城に勘ぐられてしまうから、後でシスルになって、俺の家に来てくれないか?」


「そうします。それではここで一旦、失礼します」


「じゃあ、また後で」


 そう言って一狼は白城の待つ車に乗った。



「どうかされたんですか? 坊ちゃん」


「いや、特に何でもない」




黒川タワー最上階 一狼宅


 一狼が帰宅すると直ぐにシスルが現れた。一狼は、リビングの監視を避けてシスルとバルコニーへ出た。

 しかしバルコニー内でも監視の目は同じであった。一狼は、シスルに頼んでアブソーブ・ポッドに乗せてもらい、そのまま上空五万メートルまで上昇し、ポッドを静止させた。ポッドの内には、以前のような周囲が見えるスクリーンはなく、全方向が白い灯に包まれていた。そしてソファとテーブルが置かれ、その上に紅茶が出された。

 シスルは、五十棲香織にこれまで何があったのかを詳細に説明した。


「……と言うことがこれ迄にあり、今日は、男子から香織の寝ているところを服を脱がし、そこを写真に撮って香織に実物を見せろと脅迫していた。それを香織が断ると木原と他の生徒が現れて香織に暴行を始めた。と言うことだ。その写真は、香織が就寝前に木原から渡された睡眠薬入りのシェイクを飲んだ後に撮ったものだった。それは奴らの携帯のグーループチャットで計画がやり取りされていた」


「何て卑怯な奴らなんだ! 俺は弱い者虐めが一番嫌いなんだ。シスルはそれだけのことを知ってながら、あれだけでアイツらを許していいのか!」


「黒狼には、私が以前に話したこの地球では、『謂れのない理由で多くの命が奪われている』と言ったことを覚えているだろう」


「ああ、まあ、命まで奪われる結果にはなっていないが、一歩間違えれば、そう言う結果もあった筈だ! それ相応の罰が与えられても、奴らも文句は言えんだろう」


「私の言う『謂れのない理由』とは、それ相応の罰を下すための罪の判定のことを言っているのではないんだ。本来なら人生を全う出来た筈、本来なら学園生活を楽しく過ごせた筈、これらは一般的に客観視した立場の見解なのか、それとも理由は何であれ、命を奪われるなど何らかの苦しみや痛みを与えられた者の主観なのか、それともその両方なのか? 黒狼は、どう考える?」


「それは、公平公正に見れば、その両方じゃないのか」


「では公平公正とは、誰が決めるのだ?」


「それは社会のルールとか、法で基準が定められているのではないか」


「社会とは? 法とは? この地球には様々な思想や社会があり、国によっては、全くそれらが異なる国も多く存在する。結局のところ公平公正とは、国家の形態や民族の習慣によってもその倫理観に違いがある場合がある。例えば国家間の争いは、其々がその基準で公平公正を決め、それを正義として、それに反する者へ命を奪うと言う罰を与える。果たしてそんな権利がどちらの立場であったとしてもあるのだろうか。正義とは誰の正義なんだ。だからと言って私は、子供同士の喧嘩の仲裁に入る気もなければ、私が神にでもなったかのように、公平公正を判断しようなどとは、烏滸がましいことだ。しかし、しかしだ。まあ、これを見るがいい」


 そう言うとポッドの中にスクリーンが現れ、幾つもの動画が映し出され始めた。

 その中の動画の一つは、一人の女の子を複数の男女の子供達が笑いながら寄ってたかって殴ったり蹴ったりする動画だった。その動画から見て明らかに肌の色の違いによる集団暴行だった。標的とされた少女の顔は、見る間に赤く腫れ上がり、口から出血していた。たまたまその少女一人が他の多数と肌の色が違っていただけかも知れないが、それはお互いにその逆の立場でも、そういう動画は存在していた。つまりどちらの色が被害者と加害者ということではなく、お互いに肌の色の違いで争っていると言うことだった。

 中には人間だけでなく、何もしていない自分より弱い動物を無慈悲に痛めつけたり、残酷に殺す動画まであった。

 そのような動画は、幾つも幾つも再生され続けた。


「な、何なんだ! これは!」


 一狼は、動画を観て、やり場のない憤りを堪えきれずにいた。


「これらをネットにアップして喜んでいる奴らが、この世界には少なからずいるんだ。自分より弱い無抵抗の相手や動物に対して寄ってたかって暴力を加える。本来あるべき人の人生や命を簡単に奪い取る。そんなことに怒りや憤りを感じない人間は、それほど多くないだろう。公平公正な国家、社会というなら、何故、このようなことを平気で出来る人間が生まれるのだろう。本来どうとか、平等な権利がどうとか、それらは決して間違いではないが、そういう理屈を超えた人の尊厳が、残酷にも相手に深い苦痛と悲しみを与える暴力によって、その罰を与える権利が誰にあるというんだ。だから私にも誰かに罰を与える権利など無いと言うことだ」


「……………………」


 一狼の目から涙が溢れた。この涙は何の涙なのだろうか。虐めを受けた者への同情心なのか。虐めを行う者に対して、怒りのやり場のない悔し涙なのか。一狼は、シスルの前で涙を拭くことさえ忘れていた。


「だが、しかしどうしても私の気持ちが許せないこともある。木原達、

本人達には、訳も分からないまま殴り合うという罰を与えた。これは私の我儘だ」


「…。………」


「このようなことを世界から無くしたい。その根本的な原因を見つけて全て取り除きたい。……実は私も小学生の頃、十歳になるまで周囲から虐めを受けていた。私は小さい頃に………」



七年前 八月十四日

薊の一家の夏の家族旅行の帰りの車中


 父、望月 健(三十一歳)の運転で助手席に座る母、望月 萩(三十一歳)と後部座席に横になって寝ている望月 薊(五歳)。


「よっぽど疲れたのかしら、薊ったら、ぐっすり眠ってるわ」


「お土産物屋さんで駄々を捏ねて、あんなに泣いていたのにね」


 それは突然の出来事であった。

 交差点で信号無視のトラックに衝突され、車は横転し大破した。

 薊は衝突の弾みで車外に放り出され、何故かかすり傷ひとつなく奇跡的に助かったのであった。


 事故で大破した両親の乗った車を見ながら、不安そうに交差点の外に立ちすくむ薊。


 やがて消防車や救急車が到着し、暫くしてパトカー数台が駆けつけた。その夥しい緊急車両の数が事故の大きさを物語っていた。

 潰れた車の中から父の健が救出され救急隊員が蘇生処置、出血の激しい傷の応急処置が施される。同時に母の萩が車から救出された。


 薊は、警官や消防隊員の間をすり抜けて、運ばれる血だらけの両親に駆け寄った。


「・・・・!」


 薊は、大きな口を開け何やら叫んでもいるかのようだが、声として聞き取れなかった。

 そんな薊の様子を見て救急隊員が薊に声を掛けた。


「ひょっとしてお嬢ちゃんのお父さん、お母さんかい?」


 その時、薊の目から声にならない悲痛な叫びと共に大きな涙が溢れ出した。


 両親がストレッチャーに乗せられ救急車に運ばれようとする側から、離れようとしない薊を救急隊員が引き離そうとするが、薊は梃子でも動かない。それは五歳の子供とは思えない馬鹿力だった。


 婦警の一人が薊を宥めて、なんとか薊の手を取り母親のストレッチャーの横に付き添った。

 救急車に運ばれる際の健は、僅かな心音を残して完全に意識はなかったが、萩には少しばかりの意識が残っていた。

 薊は婦警の手を払い除け、萩の側に近寄った。薊から高いストレッチャーの上の萩の顔や姿は見ることができない。しかし虫の息の萩は、傷の苦しさに耐えながら、僅かな意識を振絞って、涙を流し続ける薊に三つの黒い球のネックレスを無言で手渡した。それを受け取った瞬間、薊の肩まである髪は、忽ちのうちに色が抜け落ちていき銀色に染まっていったのである。婦警や救急隊員は、その光景を見て声を出せずに驚いた。


 薊は、事故に遭った車から救出される両親に何度『お父さん』『お母さん』と声の出ない心の中で、苦しむ両親を励まし叫んだことだろうか。だがその声は虚しくも両親に届くことはなく、やがて父健と母萩は息を引き取った。


 まだ幼い薊ではあったが、見えない両親の姿からそれを感じ取った。

 薊が感じたその意味は、まだ五歳の薊にも理解ができていた。


 このとき薊は、大好きだった両親と自身の声を失った。



 声を全く出せなくなった薊は、両親の遺体と共に病院に運ばれ、脳の精密検査やその他の外傷の有無を一通り検査を行い、そのまま入院することとなった。


 その日の夜半、病院に駆けつけた父方の祖父母である望月純一郎、五十九歳と沢子、五十七歳は、看護師に付き添われ、亡き息子夫婦と霊安室で対面したあと、看護師の案内で薊の身元確認のため病室に向かった。


 純一郎は足元がふらつく沢子の肩を支えるように少し足早に薊の病室に向かっていた。その横で看護師も沢子の腕を支えるように付き添った。

 そこへ白衣の男が早足で駆け寄り、行手を遮るように現れた。白衣の男は深妙な面持ちで、純一郎と沢子に話しかけてきた。


「薊ちゃん…の祖父母の方…でいらっしゃいますでしょうか?」


「この度は誠にご愁傷様です。私当直医の冴島と申します」


 祖父母の前に現れたのは薊の担当の当直医だった。当直医は事前に警察から運転者であった望月 健の両親と連絡が取れ、病院へ向かっていることと少女が息子夫婦の一人娘の望月 薊だと思われることを聞いていた。


 純一郎がハイと答えると


「望月 健さんと奥様の萩さんを搬送した救急隊員の事故現場からの報告によりますと、健さんは、事故車両から救出された時点で意識はなく、僅かに脈が取れる状態ではありましたが、救急車に運ばれる直前に息を引き取られました。そして奥様の萩さんは、救出された時点では、僅かながら意識は有ったのですが、健さんと同じく救急車に運ばれる直前に息を引き取られました。お二人はほぼ同時に心肺停止状態となり何度か救急隊員が蘇生処置を試みましたが、脈を取り戻すことなくお二人共同じ十八時三十二分、お亡くなりになられました」


 そう言って医師は、純一郎と沢子に深くお辞儀をした。


 純一郎は悲しみを堪えるように悲痛な面持ちで、沢子は声を殺した呻き声と共にハンカチで涙を抑えていた。


「それで…薊ちゃんと病室で面会される前にお爺さん、お婆さんにお話ししておきたいことがあるのですが…」


 医師は、重い口調で口を開いた。


 純一郎と沢子の表情はその医師の深妙さに不安を隠しきれなかった。


「薊は無事なんでしょうか?」


 純一郎と沢子は、声を揃えて不安そうな表情のまま医師に尋ねた。

 祖父母の不安を察した医師は、それを意識して優しい口調で語り始めた。


「薊ちゃんは、大きな事故であったにも関わらず、奇跡的にかすり傷一つなく、そして検査の結果でも脳の異常やその他の外傷が全く見受けられず、全て異常がないことを確認しました」


 医師は、純一郎と沢子の不安が少し和らいだ表情になったのを伺うと。


「それと救急救命士の報告によりますと、ご両親が事故現場から救急搬送される直前に、薊ちゃんの髪の色が抜けて銀色になったと言う報告を受けましたが、病院へ到着時にはそのような所見は見受けられませんでした。今回、大きな事故で遭ったにも関わらず、奇跡的に薊ちゃんには全くかすり傷一つないと言うことは、不幸中の幸いでした」


「ただ…事故現場から薊ちゃんは声が一切出せないという症状が見受けられます。事故当時の何らかのショックによる心因性失声症ではないかとも考えられますが、詳しくは明日以降専門医の診断を受ける必要があります」


 医師の言葉に、まだ理解できない純一郎と沢子だったが、一呼吸の間をおいて純一郎が医師に尋ねた。


「声が出せないとは? 喋れないと言うことでしょうか? …それはショックか何かで一時的に話せないと言うことなのでしょうか?」


 純一郎は、再び込み上げる不安が医師への質問となった。医師はそれに応えるように、祖父母を宥めるように純一郎と沢子に薊への対応を説明した。


「一晩休んで心が落ち着けば話せるようになるかもしれません。何とも言えませんが、明日以降も同じ症状が続くようでしたら専門医の診断が必要となるでしょう。今は大事をとって出来るだけ安静にしてお爺さんお婆さんの顔を見せて心を休ませてあげてください」


「今薊ちゃんは、まだベッドに横になることができず、座ったまま放心状態の様子です。事故で両親を亡くしたことを目の当たりにし、相当なショックを受けたと思われます。そして自身が声を出せないと言うことにもショックを受けていると思われます。ですので薊ちゃんが返事をしなければならないような会話を避け、お爺さんお婆さんの顔を見せる程度に薊ちゃんが安心できるように優しく声かけしてあげてください」


 純一郎は医師の話を聞きながら、少し理解したのか、そしてまだ小さい薊に何が起きたのかを思い浮かべながら顔は項垂れ、床に涙がこぼれ落ちていた。沢子はそこに立ってはいられない様子で純一郎の腕にしがみついていた。看護師も医師の話の最中、終始沢子を支えながら背中を優しくさすっていた。

 しばらくすると医師に緊急連絡が入り深々と一礼をしてその場を立ち去った。


 医師がその場を離れた後も二人はしばらく立ち止まったままそこから動けなかった。

 看護師は沢子を気遣うように「大丈夫ですか? どこかに一先ず座りましょうか?」と尋ねた。

 そして沢子が気持ちを取り直したように「看護師さん、病室はこっちですよね」と気丈に純一郎の手を取り病室へ足を向けた。釣られるように純一郎も辿々しく歩き出した。

 看護師は二人の身体をいつでも支えられるように二人を気遣いながら病室まで案内をした。


 薊の病室の前まで来ると病室の扉に真っ先に手を伸ばしたのは沢子であった。

 二人はベッドに座ったままの薊の側にそっと優しく近づいた。


「薊ちゃん、爺じと婆ば、来たよ。もう大丈夫だからね」


 そして沢子は、薊に優しく話しかけた。

 薊は、ベッドに座ったまま放心状態で二人に気づいた様子も見せなかった。そして薊は、ゆっくりと沢子に目線を向け、次に純一郎に目を向けた。

 薊の目からは涙がゆっくりと頬をつたい溢れていた。


 沢子は家を出るときに慌てて持ってきた荷物の中からタオルを取り出し、薊の背中を摩りながら涙を優しく拭き取った。


「大丈夫、だいじょうぶ、ね」


 しばらく薊を宥めた沢子は、薊の背中を支えながら静かにベッドに寝かせた。

 そしてそのまま薊の肩をゆっくりとまるでリズムを取るかのように優しく何度も手をあてた。


 純一郎は堪えきれず、そっと病室を退出した。直ぐに廊下からは純一郎がすすり泣く泣き声が聞こえてきた。それに気取られることなく、沢子はまるで暖かい日に公園を穏やかに散歩するかのように、ゆっくりとした足取りの歩調で、薊の肩に優しく手をあてた。



 薊は、それから3日間の入院による専門医の診断と再検査を受けたが、薊は声を出せるようにはならなかった。

 純一郎と沢子はその間交代で薊に付き添った。薊は、唯一、純一郎と沢子には心を開く兆候が見られたため、3日目のカウンセリングの後、薊は純一郎と沢子に引き取られる形で退院することとなった。



 薊は祖父母と共にこれまで両親と暮らした自分の家に立ち寄ることもなく、直接、純一郎宅へと向かったのだった。そして退院の翌日両親の葬儀が純一郎の家で静かに執り行われた。


 純一郎には他に兄妹もなく、両親も既に他界していた。葬儀の参列者は純一郎の遠い親戚と沢子の兄妹ら数名の親戚、親類のみであった。

 だが薊の父健は平凡なサラリーマンではあったが、国内大手ドローンメーカーの営業部長でもあり、さらに母萩も結婚前は同じ職場に勤める同僚でもあったため、多くの弔問客が訪れていた。


 そんな参列者や弔問客の視線を集めたのは薊であった。

 純一郎や沢子は、抑えきれない涙を拭う様子も見せていたが、薊は葬儀中から納骨まで、決して涙を溢すこともなく、瞬きさえすることもなかった。薊の視線は、何処か遠くを見つめていたのだった。


 何やらひそひそと噂話が聞こえてきた。


「娘さんね、事故でかすり傷一つもなかったそうよ。それって奇跡よね」「でもねそれ以来喋れなくなったそうよ」「気の毒ね」「でもこんな大きな家のお爺さん、お婆さんに引き取られて安心だよね」「お爺さん、お婆さんもまだ若そうだしね」


 純一郎と沢子は、薊にとても優しかった。薊が生まれてから何度となく健と萩は、薊を連れて祖父母の家に家族で訪問していたこともあり、祖父母は一人息子の健の家族と親しくしていた。そして何よりも薊を溺愛していた。


 純一郎は今から四年前の五十五歳の時に長年勤めた大手商社を早期希望退職し、早くから隠居生活を送っていた。

 土地資産家の一人息子として生まれた純一郎は、他に兄妹もなく両親から相続した資産もあり、退職金には一切手をつけずに息子夫婦や薊に少しでも多く残そうと質素に暮らしていた。

 田舎町ではあるが、大きく立派な門構えを持つ御屋敷のような家に引き取られた薊は声を取り戻せないままではあったが、何不自由なく優しい祖父母と共に暮らし始めることができた。



 葬儀がしめやかに執り行われたその日の午後、純一郎宅


「薊ちゃん、お風呂に入ろうか?」


 薊は、沢子の言葉にゆっくりと頷いた。


「入院中もお風呂は入れなかったし、家も、いつもはシャワーばかりだけど、今日は浴槽にお湯を張ったから。久しぶりにゆっくりとお湯に浸かろうかね」


 沢子の後をついて行くように薊は一緒に風呂場に向かった。

 風呂場は広く脱衣室と浴室に分かれ、脱衣室は大人が四、五人並んで着替えをしても十分余裕のある大きさだった。


「薊ちゃん、服自分で脱げる?」


 薊は、うんと頷き沢子の顔を見ながらゆっくりと服を脱ぎ始めた。


 早々に脱衣を終えた沢子は身体にタオルを押さえながら


「おばあちゃん、先に入ってるからね。ゆっくりで良いから後から入っておいで。それから足元が滑るから気をつけてね」


 と言って脱衣室から浴室へ入っていった。


 薊は服や下着を脱ぎ終えても、中々浴室に入ろうとしなかった。薊の首には母萩から受け取った三つの黒い球のネックレスがかかっていた。球の素材は分からないが、黒い球の一つは直径一センチぐらいの吸い込まれるような輝きと言って良いのだろうか。それは言葉で表現できる物ではなかった。黒い球は三つ連なり、両端をその球の一つより少し小さい金色の装飾具によって止められていた。その装飾具は素人目で見ても純金だとわかるほどに輝いていた。それらをやはり素材はよくわからないが、黒い紐状の物に三つの球と両端の装飾具が通されていた。

 大人の身体であれば何の違和感もないものであったが、五歳の薊の身体には不釣り合いな紐の長さと輝きを放っていた。薊の肩まで伸びる黒髪では、そのネックレスは隠しきれなかった。

 服を脱ぎ終えた薊は、ネックレスを両手で隠すように裸で脱衣室に立ちすくんでいた。


「どうしたの? 大丈夫?」


 と優しく沢子が浴室から声を掛けた。

 薊はゆっくりと浴室の扉に手をかけて右手のひらでネックレスを隠しながらそっと浴室に入っていった。


「こっちにおいで」


 脱衣所と比較しても、同じく浴槽も大人四、五人がゆったりと浸かれる程大きく、それに合わせて浴室内には、身体を洗う場所が四つあった。

 沢子は薊に背を向ける形で、先に身体を洗い始めていた。


「床が滑るから気をつけてね」


 薊はそのまま両手でネックレスを隠しながら、ゆっくりと沢子の隣なりに並んで立った。

 沢子は自分の髪を洗いながら横に並んだ薊の顔を見た。風呂場の湯気と髪を洗い流すお湯で良くは見えなかったが、薊が首から下げた何かを隠していることに気づいた。


「薊ちゃん、座って」


 薊は両手で隠しながらゆっくりと沢子の隣の背の低い欅で出来た風呂場の椅子に座った。沢子には薊の首にネックレスがかかっていることをはっきり見て分かった。


「何それ? おばあちゃんに見せて」


 沢子の声はいつも優しかった。

 薊はゆっくりと両手のひらを開き沢子にそれを見せた。


「わー、すごく綺麗。どうしたの? お母さんにもらったの?」


 薊は頷いた。


「よかったねー。薊ちゃんの宝物だねー」


 薊は頷いた。


「薊ちゃん、今から身体を洗ってあげるから、そのネックレス外しておこうかー」


 薊は首を左右に振り慌てて両手でネックレスの球の部分を握りしめた。それを見て沢子も慌てるように


「そうか、そうか。良いよ、良いよ。付けたままで。水に濡れても大丈夫そうだしね」


 そして沢子は薊の方へ身体を向け薊の身体を洗い始めた。

 沢子は薊の身体を洗いながら


「ネックレスの紐が少し長いね。お風呂上がってから薊ちゃんの身体に合うよう調節できないか見てあげようか」


 と薊を安心させるように話しながら薊の身体を洗った。薊は沢子に身体を洗ってもらっている最中も、小さな両手でネックレスを握りしめていた。

 そして薊の身体の石鹸を流すために沢子は身体を蛇口のある方に向け、お湯が熱く感じないように風呂桶に手を入れかき回すように水とお湯の蛇口を開いた。沢子は風呂桶にお湯を張り終えると同時に薊の方へ体を向けた。


「あれー? ネックレスの長さが短くなってる」


 薊の身体に不釣り合いなネックセスの長さがいつの間にか短くなって三連の球が首元の直ぐ下辺りの長さになっていることに気づいた。沢子は首を少し傾げながら、薊の身体にゆっくりとお湯をかけた。


「よかったねー。紐の長さが薊ちゃんにぴったり似合ってる」


 沢子は、なぜネックレスの長さが短くなったのか深く考えたり、敢えて問うこともしなかった。そんな疑問は、薊が声を出せなくなったことに比べれば、どうでも良かったのだ。


「じゃあ、お湯に浸かろうか」


 薊は無邪気な微笑みを浮かべて、沢子に頷いた。



 薊は、まるで母親のように沢子を慕った。沢子もまたそんな薊が可愛くて仕方がなかった。


 薊が祖父母に引き取られて半年程した頃、沢子はキッチンで調理中、軽い脳梗塞の発作で倒れた時のことであった。

 近くにいた薊が沢子の側に走り寄り、仰向けに床に倒れる沢子の肩を両手で揺さりながら「おばあちゃん!」と大きな声を上げた。

 叫ぶ薊の声を聞き駆けつけた純一郎は薊の叫ぶ姿にも驚いたが、素早く救急車を呼び、幸い沢子の病状は軽い状態で病院へと運ばれた。


 救急車に付き添った純一郎と薊。

 薊は小さな手で沢子の手を握り何度も「おばあちゃん」と弱々しく声をかけ続けた。薊は父母の最後に声を掛けられなかったことを心の底で悔やんでいたのだろう。それを見ながら純一郎は、沢子の手を握りしめていた。


 これを境に薊は少しづつ祖父母とのみ会話ができるようになって行った。

 そして薊は純一郎宅から近くの公立小学校に入学した。


 薊は小学校に入学してからも祖父母以外の人とは全く会話が出来ないままであった。


 小学二年の頃は、薊自身も自分から会話をできるように努力していたが、周囲のクラスメイトや教師には、それは「あーー、うーー」と唸るような鳴き声にしか聞こえず、全く会話にならなかった。

 そんな薊に同情する生徒もいたが、薊には友達と呼べるような友人は一人もできなかった。やがて友達のいない薊は日毎に自ら心を閉ざすようになり、周囲との会話も自ら閉ざすようになってしまっていた。それでも薊は祖父母とだけは日常的な挨拶や会話を出来るまで回復していた。


 沢子が薊を連れて近くのスーパーに買い物に出かけたある日のことであった。


「薊ちゃん、おやつにコロッケ欲しい?」


「うん! 欲しい!」


「薊ちゃん、コロッケ大好きだものね」


「うん。大好き! おばあちゃん、ありがとう!」


 薊は沢子と楽しく会話ができていた。

 この様子は母親に連れられて買い物に来ていたクラスメイトの女子に見られていた。そしてこの様子はあっという間にクラスに知れ渡った。


 この事を知ったクラスメイト達の中には、これまで優しく接していた者も含めて多くが「話せるのに話せないフリをしている」と言う不信感へと変わっていった。またその中には薊を虐める者もいた。



下校時、薊がランドセルを背負い帰宅しようとしていた時、教室での出来事


「おい! 望月! お前、話せるのに話せないフリをしてるんだってな」


 男子クラスメイトにそう言われた薊は、暫くの間、黙ったままであったが、男子生徒は答えない薊の頭を小突くように指先で突いた。薊は声を出すことが怖かったのである。しかし首を横に振りながら勇気を出して言い開きをしようとした。


「あーー、な、こおー、、なあーー」(そんなことないよー)


 薊は顔を赤くしながら訴えた。当然ながら薊の言っていることは男子生徒に理解できなかった。言葉を出したくても出せない。薊自身ではどうにも出来ないことだったのだ。


「何だってー? 舐めてんのかー、こら!」


 男子生徒は声を荒げながら薊に詰め寄った。

 それを見ていた数名の女子生徒からは「きっと演技だよ」「怖いわぁ」「ババアとあれだけ楽しく話してたのに」などと意地悪な声が聞こえてきた。


 男子生徒にはまるで周囲の声が応援のように聞こえたのか、薊の背負ったランドセルを掴み振り回し始めた。薊は細身ではあったが身長は、その男子生徒とはそれ程差はなかった。薊は体が揺さぶられるのを耐えていたが、やがてランドセルを掴む手は一人、二人と増えていき、男子、女子合わせて四、五人でまるでキャッチボールをするかのように薊を弾き始めた。


「あーー、てーー」(やめてー)「あーー、で、んなーーのーー」(何でそんなことするのー)


 薊は自分のブラウスの胸元を両手で掴みながら、必至に叫ぶように訴えた。

 薊の言葉にならない呻き声は、薊を突き回していた生徒達のイライラの火に油を注いだ。

 そしてランドセルのキャッチボールは益々と激しくなっていった。

 薊は、激しく振り回される体を倒れまいと頻りに踏ん張ったが、遂に足元がぐらつき、よろけた拍子に机の角に頭をぶつけて床に転んでしまった。

 薊の額からは多くの血が流れ始め直ぐにその血は薊の顔を染めた。そして胸元を両手で力強く掴む薊の髪の色は、黒色から忽ちのうちに銀色に染まって行った。

 床に寝転んでしまった薊は直ぐに体を起こし、その場に座り込んで、泣くこともなく、ただ虐めた生徒達を血塗れの顔で睨みつけた。

 流石に虐めをしていた張本人達も顔を青ざめ逃げ出してしまった。


「うわぁー! お化けだー!」


 暫くして担任教師が、生徒が怪我をしたと聞きつけ、教室に駆けつけた。薊は額から血を流し、両手で胸元を握りしめながら床に座り込んでいた。

 薊の髪の色はいつの間にか元の黒色に戻っていた。教師は薊のランドセルを降ろし、薊を抱きかかえ慌てて医務室に運んだ。


 医務室に運ばれた薊の頭部の傷は、出血の割にそれほど深くはないように見えたが、何針か縫わなければならない状況で応急手当ての後、担任教師の車で養護教諭と担任教師に付き添われ近くの病院へ運ばれることとなった。


 この事件は学校の大問題となった。

 クラスメイトや父兄の中には薊の身の上に同情し、正義を訴える者もいたのであったが、中には「話せないのに普通の学校に通わせる保護者が悪い」とか「本当は話せないのは演技じゃないのか」と疑う者までいた。そして薊の髪が銀色に染まったことも多くの生徒達が目撃していたが、それは「魔女」や「事故で本当は死んでいて、お化けじゃないのか」などと囁かれた。そのような尾鰭背鰭がついた噂や憶測は、全校生徒や教師、父兄までにも広まったのであった。

 それでも純一郎と沢子にとっては、学校での教師の評価や保護者会での薊に対する噂話など気にかけることもなく、頭が良く純粋で素直な薊が自慢の孫であった。


 そしてそれからの薊に対する虐めは、益々陰湿なものとなっていった。

 学校の行き帰りも、教室でも薊は一人ぼっちだった。教室の中は、いつも幾つかの友達同士で楽しく会話するグループが出来ていた。お誕生会を開く者もいれば、それに招き招かれていた。しかし薊にはそんな経験は一度もなかった。薊はいつもそう言った輪から弾き出された存在だったのだ。それでも薊は、一日も学校を休むことはなく、少しでも言葉が出せる様に努力していた。



 小学四年生になった頃、相変わらず多くの生徒達は、薊のことを薄気味悪がり避けていたが、薊は詰まりながらではあるが、国語の朗読まで出来るようになっていた。

 そういった薊の努力は、次第に一部の生徒には認められる迄になっていた。そして薊が周囲から孤立することを気の毒に思い薊に声を掛ける生徒もいた。しかしそう言う正義感の強い生徒も、その他の生徒から疎まれるようになり、結局、薊と友達になる迄には至らなかった。

 そう言ったことから薊自身の努力に反して、薊自身も気付かない内に次第に人を寄せ付けないオーラを放つようになり、周りの生徒も一層、薊に声をかける者はいなくなっていった。



 そんなある日のこと、薊は一人でいつもの下校の帰り道を歩いていた。学校から純一郎の家までは、徒歩で十分程度の距離だった。


「望月さーん! 助けてー!」


 薊が黒岩川の橋の袂に来たところ、橋の中央で四、五人の男女とコンクリート製の橋の欄干の上に立たされている少女がいた。

 助けを求めているのは、以前、薊に話しかけてくれた女子生徒だった。その生徒は、それが元で虐めの対象となっていたのだった。


「おい! 早く飛べ!」

「飛べ! 飛べ! 飛べ!」


 欄干の上に足を震わせながら立つ女子生徒は、どうやら橋の中央に立つ男女生徒達から、橋の上から飛ぶように強要されているようだった。


「あ! 化け物に見られたぞ!」

「あんなの、ほっとけばいいのよ!」

「いいから、早く飛べって言ってるだろうが!」


 女子生徒の一人が欄干の上に立つ女生徒の足首を掴み揺すった。

 薊は橋の袂で立ち止まり、動けなくなっていた。


「キャッ!」


 欄干に立つ少女は、バランスを崩して、足を滑らせ川へ頭から落ちた。


「ゔぅ、ゎゎゎわわわあああー!」


 薊は声のならない叫び声を上げた。


 橋の中央に立っていた生徒達は、欄干から本当に落ちた生徒の様子を怖くなって、上から覗き見るができなかった。


「あいつ死んだんじゃないよね」

「あの化け物、なんか叫んでいなくなりやがった」

「先生や親に言いつけられたら、どうしよう」

「あんた、ちょっと下の様子を見てよ」


 生徒達は、恐る恐る全員で欄干から下の様子を覗こうとしたその時だった。


 欄干の下から落ちた女生徒を抱き抱えて、ゆっくりと宙を上がってくる薊が姿を現した。薊の髪は銀色に輝き、顔以外は全て真っ黒のタイツ姿のような服装だった。

 欄干の下を覗こうとしていた生徒達は、驚いて腰を抜かし、橋の地面に尻もちをついて声が出せなかった。

 薊は女生徒を抱き抱えながら、そのまま橋の上で腰を抜かした生徒達の前にゆっくりと降り立った。

 そして抱えた女生徒を下ろすと虐めていた生徒達全員を両手で摘み上げ、欄干に無理矢理立たせた。生徒達は、一斉に悲鳴を上げた。中には小水を漏らす者もいた。「ごめんなさい!」「もうしません、許して!」と口々に命乞いをした。

 薊は生徒達を再び橋の中央に戻した。


「いいかお前ら、よく聞け! 二度と人を傷つけるな! 虐めをするな! そして今日のこと全てを忘れろ!」


 そう言うと薊は次に落とされた少女に向かって


「君は、今日のこと、コイツらから虐められていたこと全てを忘れるんだ。覚えていても不幸なだけだ」


 そう言って薊は元の姿に戻った。


 そこにいた生徒達は、何故、薊がそこにいるのか、どうして自分が小水を漏らしているのか、全く理解できないでいた。


 薊はそれ以上その生徒達に構うことなく、何も言わずに橋を渡り切っていった。


 この時、薊は自身の力のこと、ポッドのことの全てを知ったのだった。

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