第11話 秘めた思い

五月七日午前九時 都内 高級住宅街


「坊ちゃん、もう着きますよ」


「あ、ああ……」


「坊ちゃん、昨日は早く帰ったのに寝てないんですか?」


「あ、ああ、色々考えてたら、中々寝られなくてな」


「今日はこちらで早めにお休みになられて、明日はここから学園に向かわれてはどうですか?」


「そうしたいけど、昨日話したデビルスターのことがあるからなぁ。本宅では夕食をとらずに早めにタワーへ戻ることにする」



 黒川邸は都内高級住宅街にある敷地面積千坪の一際目を引く豪邸であった。

 通りに面した正面玄関は、周りの他の住宅と比べても背の高い壁で囲まれ、要所要所に監視カメラが設置されていた。向かって右手に通用門があり、左側には車が二台すれ違いで通れるほどのガレージシャッターがあった。

 ガレージの門を潜ると外から見る堅牢さとは打って変わり、中央に白い外壁の地上二階、地下一階建ての本宅がエレガントな佇まいを感じさせていた。そしてガレージ門から本宅正面玄関へと道が繋がっていた。

 その正面玄関では、執事長の砂川耕介(五四)とメイド達が整列して一狼の到着を出迎えた。

 砂川はリムジンの後部ドアを開けて、一狼が車から降りるとメイド達は一斉に深くお辞儀をした。


「お帰りなさいませ」


「ありがとう。砂川。元気か?」


 正面玄関を入ると中央に二階まで吹き抜けのロビーが広がり、中央には二階の渡り廊下へ上がる螺旋階段があった。その渡り廊下を挟んで左右に居室があった。


「ありがとうございます。お陰様で、元気にしております。奥様がリビングでお待ちになられています」


「あぁ、ごめん。昼まで部屋で寝んでいるから、昼食には起こしてくれないか?」


 リビングは一階にあるが、一狼はそのまま螺旋階段を上がり、自室へと向かった。


「畏まりました。ごゆっくりお休みくださいませ」


 少し遅れて車をガレージに止めた白城が入ってきた。


「おはようございます。白城さん。一狼坊ちゃんは、今自室へ上がられました」


「砂川さん、おはようございます」

「坊ちゃんから聞いています。昼食前には、よろしくお願いします。私はこれから奥様と打合せをさせて頂きますので」


「はい、奥様からお伺いしております。どうぞそのままリビングへお入りください」


「ありがとう。砂川さん」


 白城は、一階リビングへと入って行った。




國學黒菱学園 中等科寄宿寮


「………う、…」


 五十棲は朝、目覚めると少し頭痛や目眩のようなものを感じていた。



 昨夜は、同室の木原やBクラスの生徒も実家から寮へ戻っていた。


「あら、香織ちゃん。実家に帰ってなかったようだね」


 木原は寮の門限(夜十時)ぎりぎりに帰ってきた。五十棲も、その少し前に葵の誕生会から帰ってきたところであった。


「…う、うん」


「何だか、いつにも増して暗いんじゃない」


「………」


「そうだ! お土産はないんだけど、帰りにシェイクを香織ちゃんの分も買ってきたから飲んで」


「…あ、…ありがとう」



『香織ちゃん、もう起きてる?』


 五十棲は、朝起きると頭に手を当てて熱がないか確かめた。

 そして特に熱はないことに一安心してスマホに目をやると望月からのメッセージに気がついた。


『薊ちゃん、おはよう』


 五十棲が返信すると直ぐに望月からの返信が帰ってきた。


『昨日は、途中で帰ってゴメンネ』


『お爺さんとお婆さんは、お体大丈夫?』


『ありがとう。特に問題なかった』


『良かった。一安心ね』


『うん。それでね、これから沙耶ちゃんの誕生日プレゼントを街まで買いに行かない?』


『そうだね。それでは、妙行市駅前に十一時でどうかしら?』


『了解。それじゃ駅前で』


 五十棲は、それから葵に昨晩の食事の招待のお礼のメッセージを送って、出かける支度をした。




都内 高級住宅街 黒川邸


「それでは、奥様は、全てをご存知だったのですね。…いつからご存じでしたのですか?」


「そうね。最初から知っていました。私にも専属の諜報員はいるのよ」


 白城は、それを聞いて安心した。それはローズが自分の身を守る用意をきちんとされていたこともあるが、白城自身が、ローズに報告していなかった後ろめたさから解放されたと言う一安心でもあった。


「デビルスターというのは、少し危険な組織のようね。私の方でも調べさせてはいるのですが、手がかりが全くと言っていいほど掴めていません。確かに麻薬や武器の密売、何かしらの人身売買に関わっていることは、暴力団組織などからの噂程度の情報ですけど、…それぐらいしか掴めてないの」


「そうですか…なんでも昨晩の坊ちゃんからの話によるとデビルスターというのは下部組織で、その上にセブンシールというグループがあるそうです。こちらについては全く情報がありません。その情報を聞き出そうとしている間に毒を飲んで自殺を図ったとのことです」


「そう。セブンシールというのね。私の方でも調べて見るわ。…それと暴力団もデビルスターの情報を集めているらしいの。でもそれを知ったからと言って何かアクションする気はないようです。かなり警戒しているようね。そしてデビルスターのことは警察では、その存在すら知らないようです」


「そうですか。…そうなると後はあのシスルというお嬢さんを当てにするしか無さそうですね」


「………それと白城、これから他に何か必要とするものはありますか? というか既に幾つかこちらで用意して黒菱タワーに配備の手配をしておきました」


「えっ!」


「白城や槙島、メイドさん達が使える武器と移動がリムジンでは不便だろうから、セダンとスポーツタイプの車を各一台、装甲車は用意してないけれど、必要があれば言って頂戴。リムジンは元々防弾ですが、新しく用意した車も改造と防弾を施してあります。それとレーサータイプのバイクを三台、メイドさん達はバイクに乗れたのですよね」


「はい、奥様」


「あと軍事用ドローンとジェットドローンを各一機、用意しました。それら全てBRSL(黒川グループ研究所)の最新技術です。他に何かいるものはありますか?」


「いえ、十分過ぎる程ご用意いただき、ありがとうございます」


「それと貴方達のお給与や生活費以外に別の口座を用意しました。其方に幾らか用意しておきましたので、後で通帳とカードを渡しますから、白城が必要と思うことに使ってください。不足があれば、遠慮なくすぐに連絡くださいね」


「何から何まで、恐れ入ります」


「これからも皆さんで、一狼のサポートをよろしくお願いします」


「はい、奥様。坊ちゃんは、我々で必ずお守りいたします」


「最後に主人は黒狼のことや事件のことは何も知りません。このことは主人には、内密に厳守でお願いします」


「はい、承知致しました」


「失礼します。奥様、もうそろそろ旦那様がこちらにお帰りになる頃で御座います。お食事の支度にかからせて頂いて宜しいでしょうか?」


 そう言って砂川が使用人口からリビングに入ってきた。


「そうですね。始めて頂戴」




妙行市駅前


「あっ! 薊ちゃん! こっち、こっち」


「香織ちゃん、ごめん。遅れちゃった」


「遅れてないよぉ、私が少し早く着いただけだから」


「良かったぁ、遅れちゃったかと」


「大丈夫だから。…それじゃ早速、沙耶ちゃんのプレゼント買いに行こうか」



 二人はあれこれ迷いながら沙耶へのプレゼントの買物を済ませると、軽く昼ごはんを食べにレストランカフェに入った。

 二人は食事を済ませると食後の紅茶を飲んでいた。


「沙耶ちゃん、プレゼント気に入ってくれるかなぁ?」


「大丈夫だよ。薊ちゃん、私のはどう思う?」


「絶対に喜んでくれると思う」


「そうかしら? だといいわ……。ところで話は変わるけど、薊ちゃんの小学校はどこだったの? やはり地元の学校かしら」


「…う、ん」


 薊から少し元気をが失くなったように感じられた。


「私も関西の地元の普通の小学校からなので、学園は普通の小学校と比べると雰囲気違うから、薊ちゃんも慣れるの大変でしょ」


「私、実は小さい頃に両親を亡くして、その時から声が出なくなったの。それで学校では声が出せないので、よく虐められてた。十歳になった時に声が出るようになって、虐められなくなったんだけど、友達ができなくて、お爺ちゃんが私の環境を変えるために、この学園を勧めてくれたの。それで香織ちゃんと沙耶ちゃんとお友達になれて、本当に良かったと思っている」


 薊がそう言って香織の顔を見ると、香織の目から涙が溢れていた。薊は香織の突然の涙に戸惑いながら、香織の顔を覗き込んだ。


「香織ちゃん、大丈夫?」


 薊は、香織の目から涙が溢れるのを見ながら、香織がそれを拭おうともしないことを心配した。


「う、うん。大丈夫」


 香織は自分の今と小学校の頃を思い出しながら。薊の話を聞いていつの間にか涙が溢れてしまっていた。

 香織は、元々口下手なところはあったが、小学校の頃はこれと言った友達こそ出来なかったものの、虐められることはなかった。薊の話は自分とは逆であったが、今の自分と小学校の頃の薊の気持ちが重なった。


「薊ちゃん、これからも大切なお友達でいてね」


「うん。私こそよろしくお願いします」


 それから二人は気持ちを切り替えて、沙耶にプレゼントを渡したときのことを想像しながら、楽しく会話した。気づくと時間は、もう午後二時前になっていた。


「薊ちゃん。それでは明日、学園で」


「うん。香織ちゃん、バイバイ」


「バイバイ」




五月七日午後五時 ドライブイン昭和


《昨日、病院の駐車場の車の中から発見された男性の遺体は、都内在住の会社員、嶺屋隆尚さん(二八)であることが分かりました。遺体から検出された薬物反応から、死因は麻薬の過剰摂取が原因であるということで、警察は事件と自殺或いは事故死の両面で捜査にあたるとのことです》


《続いて、本日、昨年から続く、度重なる閣僚の不正や長年にわたる経済の低迷に不満を抱えた市民団体などが、国会議事堂前に凡そ五千人が集まり、抗議運動が行われました》


「銀を攫おうとした奴、普通の会社員だったんですね」


「普通かどうかは分からんぞ。会社といっても色々あるしな」


「俺っちは、そいつの顔を見てないっすけど、銀は見たんっすよね」


「ああ、まあ、顔つきは普通のサラリーマンに見えたな。でも言葉の内容がイカれてるというか、かなり逝ってる奴だったな」


「人は見かけじゃ分かんないっすね。ところで今日は黒狼は、どうすんですかね?」


 翔は黒狼と直接、連絡が取れるようにはなっているが、翔から黒狼の予定を聞くと言った内容の話は出来ないでいた。


「今日は、待機しているということらしいな。それと何かあれば、何時でも直ぐに連絡くれとのことだ」


「俺んとこにも、黒狼からそう言って連絡はあったんすけどねぇ」


「なんでその時に黒狼は今日どうするかを聞かなかったんだ?」


「なんか補佐の身で銀を差し置いて、差し出がましいような気がして」


「お前って、そんなこと気にするタイプだったんか? 直接、連絡が取れるようになったんだから、お前も認められたって言うことなんだよ。そんなんでは肝心な時に、大事なことが一歩出遅れることになるぞ! お前も三番手なんだからしっかりしろよ!」


「そうっすね! それと黒狼からも聞かれたんすけど、第三分隊の探りの件ですが、やはり四輪の奴に何人か少女買春や麻薬に絡んでるやつがいるそうです」


「そうか。柴崎がきちんとそいつらと手を切れたら良いんだが」


「ユッキーからも、よく見ておくように伝えておきましたので、何か有れば直ぐに連絡が入るようにしてます」


「しかし柴崎の奴がなぁ…。黒狼との話以来、どうにも信用なんねぇんだよな」


「ユッキーも、その時の柴崎の様子を見ていて変だと思ったらしく、柴崎のこともユッキーが探りを入れています」


「そっかー、何かあれば、俺んとこにも直ぐ連絡くれよな」


「うっす!」


「しかしあれだなぁ……。同じ仲間の探りを入れるなんて、嫌なこったなぁ」




五月七日午後六時三十五分 黒菱タワー最上階 一狼宅バルコニー


 一狼は黒川邸から戻ると、白城の作る夕食を早目に済ませ、バルコニーに出て街の夕景を見ながら考え事をしていた。

 昨晩のシスルの次元転移の話も今ひとつ理解できないでいたが、その後、突如現れたシスルと同じ種族と名乗るロドン。二人の関係や二人の正体。ロドンが言っていたオブザーバーやアドミニストレーターとは?

 シスルは、自分に秘密を明かしてくれたが、それはごく一部に過ぎないと言うことにフラストレーションを感じていた。


プルプルプル… 一狼の携帯に着信が入る。


「やあ、シスル。何かあったか?」


【いや、特に進展はない。今から其方へ行っても構わないか?】


「ああ、丁度良かった。色々と話がしたいことがあった。どうぞ」


「やあ、黒狼」


 シスルは、何時ものように一狼の隣りに一瞬にして姿を現した。そして目元のマスクとヘッドセットを残して顔を見せた。

 少しの間、二人は沈黙して互いを見ていた。


「………………」


 一狼は、シスルと沢山話したいことや聞いてみたいことがあった。…あった筈なのに言葉が出てこない。それはシスルも同じであった。


 沈黙の気まずさをシスルが話を切り出した。


「……あ。デビルスターの嶺屋から取り上げたスマホだが、着信履歴を調べたが、どれも不特定多数の番号だった。恐らく連絡に特定の番号を使用していないか、複数の番号を使い分けている可能性もある。それら番号の全ての所在位置を確認しようとしたが、電磁波遮断ボックスに入れられてると思われ、所在地を確認することは出来なかった。それらの番号が何時使われても、キャッチ出来るようにしているが…」


「ああ、分かった。以降、何か分れば、また教えてくれ…」


「………………」


「ああ、シスルさん、よくいらっしゃいました。どうぞごゆっくりしていってくださいね」


 白城が沈黙を破るように、バルコニーに出てきた。


「坊ちゃん、これから奥様が用意してくださった装備を槙島とメイド達全員で、屋上と地下ガレージに確認してこようと思います。少しの間ここを離れますが、何か有れば、ご連絡ください」


「ああ、分かった。ここは大丈夫だから、よく確認してくるといい」


「はい、それでは失礼致します」


 リビングには、槙島とメイド三人が見える。白城は、バルコニーからリビングに戻り、全員で玄関口へ向かった。


「実はシスルのことをもっと知りたいんだ」


 白城達が出ていくのを見て一狼は、シスルに唐突に話し出した。


「ああ、なんでも聞いてくれ」


「じゃあ、先ず…シスルは、何歳?」


「十二だ」


 一狼は、特に驚きはしなかった。それぐらいの背丈と顔立ちで大型バイクのような物に乗っているが、一狼も十二から無免許で大型バイクには乗っていた。


「シスルは、どこから来た? あのロドンと名乗った女が言うように、アトラス王国といところから来たのか? それは地球上の何処かにあるのか?」


「私は、そんな国は知らない。何処かにあるとすれば、恐らくこの次元の外に有るのだろう。私が今の知識と力を得たのは十歳の時で、私は恐らくこの国で生まれ育ったのだろうと思う。小さい頃の記憶がよく思い出せないんだ」


「そうなんだ。…これ以上、根掘り葉掘り聞くつもりはないが、シスルのことをもっと知りたいんだ。許してくれ」


「私自身のことはこれ以上、私もよく知らないんだ。アカシャなら知っているのかも知れないが、そこまでのプログラムを受けていない。すまない」


「良いんだ。気にしないで。それでアカシャって誰?」


「アカシャは、人ではない。アブソーブ・ポッドにあるAIのことだ」


「エーアイ? 人工知能の?」


「そうだ」


 と言ってシスルは、ジャケットの懐から何かを取り出し掌を見せた。

 シスルは、掌の上にある一センチ大の黒い球状の物を見せた。


「これが、アブソーブ・ポッドだ。

そしてこれもその一つだ」


 と言ってシスルは、自分の服装を指した。


「私はこの石を三つ持っている。それら一つ一つはそれぞれ独立しているが、三つは一つでもある。このどれにも同じアカシャが存在している。この手にある球にも、私のこの服にもだ。……取り敢えず、説明するより実際に中を見た方が早いかも知れない」


 シスルは、そう言って掌の黒い球状の物体を軽くバルコニーの床に放った。

 その球状の物質は、突然、黒い子猫に姿を変えた。


「これは? 猫?」


「アカシャ、自己紹介して」


 シスルがそう言うと子猫は歩き出し、一狼の前で話し出した。


「コンバンわ。私はアカシャと申します。どうぞ宜しくお含みおきくだされば、幸いです。それと貴方様は、一狼様? それとも黒狼様? どちらで、お呼びしたら宜しいでしょうか」


 子猫は、中年ぐらいの男性の声で、一狼に挨拶をした。その声は上品そうにも聞こえるが、どことなく気取ったようにも感じた。


「あ、…ああ。今晩は、アカシャ。シスルと同じ黒狼で良いよ。…それと様なしで」


「承知。黒狼」


「いきなりタメなんだ」


 一狼は、微笑みながらアカシャに言った。


「アカシャ、ポッドを用意して」


「承知しました」


 シスルは、アカシャ(子猫)にそう言うと、アカシャは、バルコニーの中央まで歩いていくと、三メートル大の球状の黒い物体に瞬時に形を変えた。黒い球体はバルコニーの床から十センチ程浮いているようだった。子猫のアカシャ自身の色もそうだが、その球体の色はシスルの何時もの服装や無音のバイクと同じ黒色であった。そしてその黒色は、普通の物体で有れば、たとえ陽の沈む夕暮れ時であったとしても、リビングからの灯りや何某かの光を反射するはずであるが、それは一切の光の反射をしていなかった。その黒色は、一狼の身体や心、魂まで何もかもが吸い込まれそうになる程の黒さだった。


「黒狼、これが私と黒狼の二人程度が乗り込める程のアブソーブ・ポッドだ。このポッドは様々な形に変形することができる。最小は私の掌にあったものから、最大はこの地球ぐらいになるそうだ。ただ、まだ試したことはないが。そしてあの無音バイクも街で黒狼が乗ってるバイクを見て、アカシャに形状を真似して変形してもらっているものだ」


「そうか…。それで今からこれに乗るのか?」


「そうだ。このポッドの乗って、これからこの星を空から見に行こう」


「でも、それに乗るには、普通の人間には無理なのでは?」


「大丈夫だ。試したことはないが、次元転移を行わなければ、可能とのことだ」


「う、うん。分かった」


 一狼は、不安げな表情ではあったが、シスルの言葉を信じた。


 シスルは黒狼の手をとり、その黒い球状の物体へと歩いて、そして吸い込まれるように物体の中へと入っていった。



 ワルツ「天体の音楽」ヨーゼフ・シュトラウス



 物体(アブソーブ・ポッド)の中は、上も下も、右も左も、周囲の全方向が白い灯りに包まれ、目の前のシスル以外には何もない奇妙な空間だった。


「ここがアブソーブ・ポッド内部だ。通常は私の思念や私の頭にあるヘッドセットでアカシャと会話しているのだが、あえて今から私はアカシャに言葉で命令する。それは黒狼がこれから見るもの聞くものに違和感や不快感を持つことを極力抑えるためだ」


「………」


 一狼は何が何だか分からないといった表情で、シスルの話を聞いていた。


「アカシャ、全方向スクリーン」


 シスルがそう命じると一狼とシスルの全方向の灯りは消えて外の景色が現れた。それはTV画面を見るのとはまるで違った景色だった。それはまるでバルコニーの上で何にも遮られる事なく、十センチほど宙を浮いた二人が自然に立っているような感覚であった。足元は、ポッドの床なのか、何かわからない、地面に足がついている感覚は有るのだが無い不思議な感覚だった。


「アカシャ、今からゆっくりと上昇してくれ」


 ポッドは、ゆっくりと上昇を始めた。目にする全面ガラス張りのエレベーターに乗ったような景色に一狼は、その感覚に強く違和感を抱いた。


「私はこの景色を初めて見たとき腰が抜けて、床に座り込んでしまったが、少しすれば、すぐに慣れると思う」


 それは二人が宙を浮いてる感じであるが、揺れや振動もなく、動力音さえも聞こえてこない。何かに立っている感覚はあるのだが、その他には全くなにも感じられなかった。ただ視界に入る景色が、高い所へ登って下を見下ろす記憶が体の感覚をくすぐった。

 足元に広がる景色は、あっという間にバルコニーの床から、徐々に街全体の景色へと移り変わり、更にゆっくりと上昇して行った。

 一狼は、ただただ、その周囲の景色に圧倒されていた。遂にはその景色は、妙行市全体が見渡せるまでの高度に達していた。


 足元から見える街の灯りが眩しかった。


 やがて東西南北の視界は、遠く関東一円が見渡せる程に上昇していた。少しづつ上昇速度が増しているのだろうか。そして次第にそれは東日本一帯が見渡せるまでになり、更にポッドは上昇を続けた。ポッド内から見る景色の感覚は、まるで首だけを何かに吊り上げられて、下半身が下界に吸い込まれそうな、断崖絶壁の崖の上から谷底を見るような感覚だった。街の灯りの眩しさは、もう然程、感じられなくなっていた。列島全体を見渡せる頃には、太陽の陽の強いところ、弱いところ、暗いところがはっきりと見えた。


「今日は列島に雲一つない晴天に恵まれていて、良かった」


 ポッドの高度が400キロ程に達したころ、太陽の陽は徐々に地球の縁に沈んでいくのが見えた。


 一狼は、ポッド内から見渡す全方向の景色に圧倒され続けていた。

 ゆっくりとは言え、僅かな時間でここまで上昇する速度であれば、何らかの重力を感じられてもおかしくは無かったが、ポッド内では重力の変化を何も感じることはなく、気圧や気温の変化も感じられなかった。故にポッド内から実際に見る全方向の迫力ある景色が現実か、それともそう言う映像を観せられている仮想現実なのか区別がつけられないでいた。


「アカシャ、暫く地球の周回軌道に乗せてくれ」


 一狼とシスルを乗せたポッドは、それから地球の周りを宇宙ステーションから地球を見るように、ゆっくりと西方向へ移動を始めた。


「シスル、ISSや地上からレーダーか何かで、このポッドは、見つからないのか?」


「大丈夫だ。こちらを一切探知することも、ISSから肉眼で目視することさえできないだろう」


「あっ、また地球が明るくなってきた。…それにしても素晴らしい。地球を実際に見るのは初めてだ」


 一狼は、子供が初めて見る景色に感動したように、ぐるぐるとその場を回って、周囲を見渡した。


「綺麗だよな。…黒狼、まぁ、ソファにでも掛けてゆっくりしてくれ。アカシャ、ソファを出してくれ」


 シスルと一狼の後ろに白いソファが現れ、二人はソファに腰を下ろした。


「不思議だ。バルコニーやリビングにいる時と何も変わらない。ただ下界に青い地球と天上の闇と僅かな星の欠片が見える……」


「黒狼は、何か他に聞きたいこと、知りたいことはあるか?」


「なんかこれを見たらどうでも良くなってきたなぁ…」


 一狼はハッとして、シスルの顔を見た。


「って、シスルがどうでも良いって言う意味じゃないからね」


「ああ、分かっている」


「…そうだなぁ。シスルが言うこの四次元空間とは何? ちょっと漠然とし過ぎているかもしれないけど…」


「四次元空間とは、黒狼も知っているとは思うが、三次元世界に時間を一つの時空と捉えて四次元空間と呼んでいる。四次元空間とは、ゼロから生まれた存在の有無を数学的に見る概念と一般相対性理論や量子重力、量子力学と言った物理学的に空間の時間や物質の密度などをある程度解明できる世界。そしてそれらは数学や物理の適用されない領域を知らなければ、永遠に解明されない。その数学や物理の適用されない領域、次元をゼロ次元と呼んでいる」


「うーん。では、別の話になるかも知れないが、ブラックホールとは何?」


「違わないよ。あれは事象の地平線と呼ばれているように、その向こうは時間や質量など一切、存在しないゼロの次元なのだ。ディメンショナル・リフト、リフトは頭文字アールのリフトだ。つまり次元の狭間。四次元空間にできた亀裂なのだ。サイエンスフィクションのようなそこを通ってタイムワープするとか過去や未来に行けるとかは決してない。そこを潜れば何もかも消滅して消えて無くなる。この四次元空間のあらゆる現象には、ミクロ世界での最小の単位が存在し、それらをプランク・スケールとかプランク時間と呼ばれている。それら人間が決めた最小単位は、全てゼロが起点なのだ。それは全ての数字の一、二、三…からなる数学や物理の起点でもあり、その運動を司るものが時間なのだ。ゼロは起点であり、全てが終わった後を表す終着点でもある。ゼロはブラックホールの先にあるところで、ブラックホールとは、この四次元空間の数学や物理では解明されない事象の矛盾が引き起こした現象が亀裂となって現れた産物なのである」


「……この世界や宇宙には知らないことばかりだな」


「アカシャ、黒狼にこの宇宙についてのプログラムは受けることは、可能だろうか。可能な場合の所要時間を教えてくれ」


「はい、可能です。シスル様は五分ほどでしたが、普通の人間は一、二時間ほどでしょうか」


 先ほどの子猫の姿をしたアカシャの声が、その姿を見せず、何処からともなく聞こえてきた。


「ありがとう」

「黒狼、アカシャのプログラムを受けてみないか? 宇宙の全てやこの四次元空間について知ることができる」


「ああ、是非、受けてみたい。どうすれば良い?」


「そのままソファに掛けていてくれ」


「アカシャ、黒狼にプログラムを用意してくれ」


「承知いたしました」


 アカシャがシスルの命令に返事をするとソファの背もたれの上部からヘッドセットが伸びてきて、一狼の頭に付けられた。


「それでは黒狼、目を軽く閉じてリラックスしてくれ」


 アカシャがそう言うと黒狼は、目を閉じ、すぐにプログラムが始まった。それは一狼の瞼の上から見ても、眼球が激しく小刻みに揺れるのが分かった。


「………………」



 ポッドは周回軌道でゆっくりと西方に進み、中国大陸に入り、暫くするとプログラムが終了した。一狼の頭からはヘッドセットが外され、ソファの中へとスルスルっと入っていった。

 一狼は、ゆっくりと目を開くとポッドから見える景色に、それまで以上の感動を覚えた。



リスト「コンソレーション」作品三



「美しい………………」



「地球が如何に素晴らしいか。人間が如何に素晴らしいか。そのどれもが大切で貴重な存在だと言うことが分かっただろう」



「……ああ」



 一狼の感慨深い「美しい」の一言は、アカシャの宇宙の全てについてのプログラムで何を得たのだろうか。

 この宇宙の始まりから今に至るまでの壮大な時間と星々の誕生と消滅。その中の地球という惑星の生命の誕生から知的生命体である人類の誕生と進化、そしてその命の終わりまで。その全てが永遠に無限とも言える数ほど繰り返されていくこと。地球こそがこの宇宙の唯一無二の存在であること。想像はこの宇宙のように大きく膨張し、昂まるのであった。



「この地球では、これ迄も、そして今現在も、謂われなき理由で多くの命が奪われている。私は、それが耐え難く、許し難く、とても腹立たしいことだと思っている。それら全てをこの地球から無くしたい。……黒狼も協力してはくれないか」



「俺で良ければ、シスルに協力するよ。と言うか、俺もそうしたい」



「………………」



 二人はそれから無言でポッドからの地球を何時までも眺めていた。

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