030

 ショッテンパード=グリーディという人物は、ある地点からの人生を半ば諦観して過ごしてきたように思える。大切だったかけがえのない人物の表情や、彼らとの記憶といった優しい物語を一切合切見限り、唾棄していた。友人も、恋人も、両親も捨てた。はっきりと自らの意思で捨てた。記憶力には自信があったから、今でも完全に捨てきれてはおらず、自らを演じることで、その間は意識しないように努めている。幾人ひとを殺めようが、幾人部下を持とうが、類稀なる才能を持っていようが、彼はれっきとした人間であり、人間である以上は繋がりを簡単には切れぬ。実に厄介な法則によって世界は成り立っている。僅かでも躰を動かすと砕けた骨が神経を刺激し、激痛を引き起こしていた。幸い声は掠れているが「回復」とだけ呟ける。自動化された《一言ワンワールド》が発動する。頭蓋内を響く疼痛から意識を逸らすように、彼はあの日のことをゆっくりと思い出していた。

 第四次楔石争奪戦。今から十余年も前のことであった。当時彼は学生の身分であり、弱冠十四歳だった彼の才能を惜しんでか、周囲の人間の意見を受け入れた両親は、彼を世界的に有名な大学へと飛び級制度を利用しようと考えていた。だが、両親は今にして思えば事前準備も満足にせず、他者に言われるがままに舞い上がり、そして行動をしていたが故に見誤った。海外への旅行と考えていた彼は、あまりにも大きな失敗をし、悲しんでいた両親を慰めつつも栄えある大国を満喫しようと提案。両親は何度も旅行中に謝罪をしていたが、子供が無邪気に笑うことで平静を取り戻したのだろう。海外旅行は数週間にも及び――彼は地獄を見た。何万人もの戦死者及び犠牲者の骸が、たったひとりの化け物によって積み上げられ、化け物を淘汰すべく更に同等の力を持つ人間が立ち塞がり、立ち塞がった者が化け物によって慰み者にされ、更に暴れ廻り。阿鼻叫喚の地獄絵図そのものだった。大国は軍隊をも出動させ、第二次世界大戦後、初めての大規模作戦を開始した。当然自国への退路は断たれ、家族と怯えていた彼だったが、地元の子供と友人になった。その子供の名前を思い出したくはなかった。子供は幼いグリーディと共に戦地を遠目から見て、この戦争とでも表現できうる出来事が、一日でも早く終わるよう祈っていた。

 事態は急変する。友人が死体を漁り、十四年間に見たことのないほど美しい宝石を手に入れたのである。友人は、秘密だよ、と言いながらグリーディにだけは見せた。特段欲しいと思わなかったが、彼はなんだか異質な雰囲気を帯びている宝石を侮蔑し、同時にそんな死体を弄っていた友人に対しても、どこか軽蔑したような気持ちになった。だから、大人へと告げ口をした。些細な切欠だった。死体漁りなどを辞めて、祈るだけで良かった。子供だったグリーディにしてみれば、狂信的ともいえる友人の瞳は、心と呼ばれる器官を冷たい手で、ぎゅうっとされたように恐ろしく、又、気持ちが悪かった。大人たちは当日の内に友人から宝石を奪おうとした。大人数で群がり、友人の躰を弄り抵抗する友人へ暴行をする様を見て、グリーディはぞっとする光景だったことを今でも強く覚えている。彼は群がる大人を押し退け、友人の前へと立ち、自らの行いが間違えていたことを知る。次々と伸びる手を払い除け、友人へと声をかけた。振り向くと友人は拳大ほどもある宝石を鯨飲した。咽喉のあたりがぼこりと膨らみ、本当に呑み込んでいると認識した。直後、紫電を纏わせた肉塊となって、友人が周囲の大人を呑み込み、残った人物はグリーディひとりとなっていた。触れるほどに直近だった肉塊へ手を添えながら、言葉を交わした。何故だろう、恐怖はなく、肉塊に触れている間ずっと、心中深く存在する海が、なだらかな水面を形成していた。グリーディは優しく言葉を伝え、友人も言葉のようなものを返した。

 ――――紅い化け物が飛来し、肉塊となった友人を着地の衝撃だけで圧殺した。

 唐突に感じる友人への死を実感できず、立ち尽くしていると化け物は肉塊の中へ腕を突っ込み宝石を掴んでこちらを見た。蝙蝠を彷彿させる両翼は左右へ大きく広がっていた。宝石掴む五指は異形なまでに長く、そして美しい。口許には邪悪そのものといっても差し支えのない笑みを浮かべ、はゆるりと二本の尻尾をグリーディへと振るった。暴風が巻き起こる。グリーディが吹き飛ばされずにいたのは、途方もない速度で飛来した、黒髪長身の女性が身を挺してくれたからに他ならない。彼女は。もう、大丈夫、私――あたしがいる。

 頭を振るった。らしくもなく思い出を振り返るなんて、まるで――。

「――――そういうことか」

 ショッテンパード=グリーディには大事にするべき過去はない。だが、未来はないとは言っていない。彼は既に全快状態だった。緩慢な挙措で立ち上がり、遥か前方に位置する化け物を見やった。森閑とした場所から、地面を這うような重苦しい禍力が満ち満ちていた。紅い化け物は異形な両翼を広げ、自らの障害となる森を、異形な二本の尻尾で振り払いながら、吊り上がった双眸を真正面からこちらへと向けていた。

 彼女から彷彿とされる嘗ての所有者の姿を否が応でも思い出す。

 皮を被った世界の王は、透明だが肌触りの良い絹製の外套を取り払う。

「――――奇麗だな」

 呼応するように世界は祝福を上げる。鳥獣も草木も天空も大地も――等しく生命の一部分であった。紅い化け物は、小さな口を啄む口づけをするように、三度開いた。

 声量が届くはずではない彼にもはっきりと聞こえた。

 こ、ろ、す。

 だが彼は部下をひとり残して退散できるほどの悪党ではなかった。

 禍力を纏う。膂力の底上げ、五感の底上げ、衝撃の緩和が目的だった。

 それら全てが徒労に帰すだろうが、やるべきことはやらねば示しがつかない。

 誰にでもなく、背中を見せたい部下に対して。



 楔石を入手してから初めての完全解放だった。人伝には聞いていたが、ここまで高揚感に包まれるとは流石の彼女も思いも知らないことだった。これまでに使用していた《オーバースペック》の力は、ほんの一部分にも過ぎないことが、ようやく理解できた。彼女ひとりで展開できる能力の幅は約二十パーセント前後、それ以上は躰が崩壊へと突き進み、使用後は禍力の質が大幅に減少してしまう。柚乃下潤の暴走を止めるにあたって解放した能力ではあったが、一か八かの賭けであったことには相違ない。彼女は遥か前方に立つ黄金の青年を見据える。二本の尻尾が彼女の意思を反映して、前進する際に不要となる木々を薙ぎ倒していた。遠く離れているのにもかかわらず、未だ敵意を以て相対する青年の感情が今や手に取るようにわかっていた。刃を彷彿とさせる三白眼の双眸には綺麗な二重の皺が残っており、その横を自然な速度で汗が流れていた。今日だけで何度も顔を合わせていた相手であるが、あからさまな動揺を見て取れたのは、初めてのことだった。恐らくは自然に流れる禍力の質量が途方もなく漏れ出ており、その圧にあてられてつい出てしまったのであろう。そう思うと彼女はなんだか嗤ってしまいそうになった。聞こえないだろうと思いながらはっきりと口を動かす。意味はきちんと理解できたらしかった。気丈に立ち上がり口許へ虚勢とも取れる笑みを浮かべていた。彼女は現在、世界の中心点へ成った。全てが彼女の思うまま、肉体という理に課せられた法則は、現時刻を以てして無意味なものとなる。無数の木葉が空気抵抗に従うよう落ちていく。鬱蒼と生い茂る森の隙間からは月光の姿は消えていた。大気の振動を目ではなく耳でもなく、額に一本生えている角が把握した。目標物を視界に収めようと首を元へ戻すものの、黄金の青年は既に大岩の前にはいなかった。残っていたのはふたつに砕かれた無機物の成れの果てだけである。今や彼女の視力は現代科学では測れぬほどの数値を誇っている。聴力に関しても同様であり、又、膂力に類するものも規格外となっていた。爪先で地面を軽く叩いた。風を切り裂き、飛行機などが通過する標高で、傷や汚れといった負の側面を、取り除いた青年の前へ降り立った。確りとした足場はないが、彼女は自然な形で空気に降り立つ。十数メートル先に悠然と立つ彼も、彼女と同様に足場のない虚空へ足裏をつけていた。靡く長髪は絹を彷彿とさせるほど、艶やかで木目細かく幻想的であった。眼を見開いた青年は、嘆息交じりに顔を覆った。淡い月光の力は、徐々に夜から離れていきつつある。彼の左頬が妖艶ともとれる表情をしていた。

「……前任者とは違って、交渉の余地はあるのか?」

「――――」美醜に嗤う。

「――であれば、仔兎オマエを殺すために獅子オレは全力を出さざるを得ないな」

「――――」妖艶と目尻を細める。

「《一言ワンワールド》。獅子オレを複数体生み出し、個々に能力の権限を与える。禍力の分配などせず、獅子オレの最大限を彼らに与えよう」彼の足許に影が溜まった。無論空気の上に立っている。故に不可思議な現象として、彼の靴底に溜まった影が、厄災を彷彿とさせるほどの勢いをそのままに、左右へ展開された。真黒から黄金のグリーディが次々と生えた。彼らは一様に能力を展開した。「仔兎オマエは地に落ちる」「仔兎オマエは四肢を切断される」「仔兎オマエは両翼を失い傷が治らない」「仔兎オマエは禍力を練らず成す術をもたない」「仔兎オマエは無条件に降伏する」「仔兎オマエは二度と立てない」「仔兎オマエは心を失う」「仔兎オマエは五感を失う」「仔兎オマエ獅子オレには勝利できない」「仔兎オマエは」「仔兎オマエは」「仔兎オマエは」「仔兎オマエは」「仔兎オマエは」「仔兎オマエは」「仔兎オマエは」「仔兎オマエは」「仔兎オマエは」「仔兎オマエは」「仔兎オマエは」「仔兎オマエは」「仔兎オマエは」「仔兎オマエは」「仔兎オマエは」「仔兎オマエは」「仔兎オマエは」「仔兎オマエは」「仔兎オマエは」「仔兎オマエは」「仔兎オマエは」「仔兎オマエは」「仔兎オマエは」「仔兎オマエは」「仔兎オマエは」「仔兎オマエは」「仔兎オマエは」「仔兎オマエは」「仔兎オマエは」「仔兎オマエは」「仔兎オマエは」「仔兎オマエは」「仔兎オマエは」「仔兎オマエは」

一言ワンワールド》は世界よりも上位に位置する能力であり、彼が実しやかに囁く言葉は全ての法則よりも優先される。楔石とは元来そういうものである。元々世界に存在しなかった異質な物体は、によって別世界から持ち出され、英雄となるために必要な知恵の果実の残骸であった。三人の英雄たちは救世を施すために来訪し、世界を根本から歪めてしまった。彼女らは全てを見ている。理の果てに確かに存在している。輪唱のように劈く呪詛の言葉は、次々とその圧倒的な禍力量を以てして、彼女の肉体を蝕まんと口を出す。

「――――ごめんね」謝罪。誰に対して向けた言葉なのかは彼女にも理解できなかった。それは今回大きく巻き込んだ恩師であり姉のような人物に対してなのか、この土地に至るまでに殺害した一般人たちに対してなのか、【Nu7】に残した共犯者を見殺しにした気持ちに対してなのか、初恋を成就させず取り込まれた少女に対してなのか――死体に鞭打って半ば強制的に復活させた少年に対してなのか。それは誰にも分らない。彼女はゆるりと面を上げる。たったひとり、毅然とした態度を崩さないグリーディは、眉を大きく潜めた。吊り上がった双眸は、様々な感情を彼女へ向けていた。「ぼくが救世主になるよ」

 尻尾を振るう。

 世界の理は、人外である化け物には通用しない。彼女の持つ《オーバースペック》とは、化物へと立派に誇らしく胸を張って成り下がる能力であった。

 決着を告げる音らしい音も標高百数メートルもの強い風に攫われてどこかへと消え去っていく。長い睫毛を濡らす。雨が降っていた。



 意識を取り戻した柚乃下は、空の上に海があるような異質感に嘔吐していた。今まで感じてきた全てが稚拙に思えるほど、根源的恐怖とでも呼ぶべきか、理由のない恐怖が彼の心を半ば無理やりに焦らせていた。このままではいけないと強くが言っている。胸に手を当てながら、大きくため息を吐いた。何度目かの深呼吸のあと、上を確りとした意識を以て見上げる。双眸の一部を双眼鏡のような部品へと作り変えて、目を凝らし探すも、目的の相手はどうにも見つからなかった。闇に流れる影を纏っている雲が、夜空を両手で隠すように、星々すらも地上を見下ろすことができずにいた。つんと妙に湿気の強い匂いがする。今はもう酷く懐かしさすら覚える下校中に良く嗅いだものだった。大気に水分が含まれ、地へ降り立つ前の、郷愁すら感じてしまうものだった。雨が、降る。と彼が心音高鳴らせたまま、どこか冷静な側頭部あたりで呟いた。

 世界が終焉を唐突に宣言した。もっといえば、柚乃下潤が知る限りの極当たり前に甘受していた世界が、大気を震わせる轟音と共に呆気なく、それでいて劇的に、現在進行形で終わりへと向かった。

 始まりは上空から弱々しく薙いだ一陣の風だった。それは瞬きをひとつする間に豪風と化し、地面は大きく捲り上がり巨木は根本から大地と別れを告げ、拳大ほどから納屋程度の岩ですら転がるのではなく悪魔的な吐息から逃げ出すように辷っていった。躰がいとも容易く重力という束縛から逃れ、咄嗟に彼は躰の全てを鋼鉄化させながら両脚を可能な限り次々と捲れ上がる皮膚のような地面へと突き刺した。反射で対応した割には立派だったと風に巻き上げられぬよう犬歯を剥き出しにしながら思う。足の先に位置する鉄の部分には抜錨を拒否するように返しを作っていた。それでも風は徐々に強くなりつつあった。彼は体表へ衝突する岩や巨木をやり過ごしながら、もう一度星を見上げた。空の真中にぽっかりと黝い空に純黒な孔が開いていた。揺れる視界の中で確かに存在する黒い孔は、突如として零へと至る。元々世界から疎外されていた空間が、瞬間的な速度を伴って閉じられてしまったように思えた。視界が紅く染まった。上下左右の全てが紅く塗り潰されていた。それも時間の間隙の最中の数瞬の如く、限りなく零に近い時間だけだったが、それでも柚乃下が見上げる夜空の様子が一変していた。汗が重力に従い顎先から地面へと落ちていった。気付けば風は止んでおり、あれだけ暴れ廻った巨木や大岩などもしんとしていた。肩越しに背後を見やる。

 まるで地平線の彼方までそうであるように、地面がほぼ平らになっていた。景色から得られる情報は少ないくせに、やけに処理が遅くなった。まるで数十年前のコンピュータを想起させる処理能力だった。いつまで経っても脳内の砂時計が逆様にならなかった。

「――――は」と疑問符を滲ませた声音がぽつりと零れる。半分口を開いたまま彼はようやっと首を廻した。思考回路が溶けてゆく実感をその手に感じながら、頬を伝う汗の温度がやけに冷たく感じた。水袋が弾けるように地面へ落下してきた。視界の端で蠢くそれは、酷く醜く、何故命を失っていないのか、理解に苦しんだ。髪先まで赤い油を塗ったような黄金の彼は、失った下半身には一瞥もくれず、落下した際の体勢のままどことなく満足そうに空を見上げていた。浅く呼吸を繰り返し、薄く開いた双眸は焦点を見失っているのか、伸ばして腕では到底届きそうにもない遠い場所の一点を見上げていた。柚乃下は降ってきた青年を見下ろすことしかできなかった。彼から滲み出ていた圧倒的な禍力の面影はなく、弱々しく焚ける幻燈のようだった。

「……終わらせんよ」王道楽土、と重ねて呟いた彼は小さく息を吸った。最後の燈火が彼の全身から沸き立つのを身近に感じた。そしてグリーディの失われた下半身と、傷だらけの躰が、元からそうであるようにひとつとして傷を残さず快復した。短く嘆息を吐き出しながら、事もなさげに立ち上がる。「……理の果てか」グリーディは静止する柚乃下へ一瞥もしていなかった。やはり夜空の一点を見上げるだけに留めている。つられて柚乃下も空を見上げた。あ、と今度ははっきりとした意識で呟いていた。「――――バケモンじゃねえかあれ」

 紅い妖魔は数百メートルもの場所から、緩慢な自然落下を繰り返していた。両翼は完全解放時に見た長さではなかった。あの頃よりも大きく広く伸びていた――――否、伸び続けている。アスファルトのような雲を押しやった化物は、世界の中心は我にありと叫ぶように、ただただ圧倒的な存在感を示すように、ゆったりと地面へ降り立った。

 地面を這う卑しい獣が、美醜という概念を遥かに超えていた。華奢な肩幅から伸びる両腕は異様なほど長く逞しさを伴い、両の太腿は筋肉質な体表の延長線上には大地へ爪を立てる猫科特有の形をしていたが、反面その足裏は柔麩のようである。自信に満ち溢れた双眸は零れそうなほど大きく吊り上がっており、元は少女だったのだろうと解かる部品は口許の柔らかな笑みのみだった。そう言い切れるほど、身体的な女性特有の部品は平らに筋肉質な肉へと変貌していた。そして見上げた際には黝い夜空いっぱいに広げられていた両翼は、降り立つと共に邪魔だからだろうか、すっぽりと収まるような大きさへとまたしても変貌していた。

「――――」何と発言したのだろう、と彼は思った。同様の感想をグリーディは密かに感じた。日本語でも英語でもなかった。寧ろ言葉という言語には該当しないと脳が理解した。高次元の科学が魔法に見えるように、二次元が三次元を認知できないように。文字通り次元が違う存在だった。少女とも、女性とも表現はできないだろう。「――――」下げられていた右腕が、指のひとつを立てて躰の横へと伸ばした。反応というよりも反射的な行動であった。柚乃下は自由落下よりも速く、大地に吸い寄せられるような勢いで着地すると、片膝を立てて本能の赴くままに頭を下げた。彼の様子は、文字にしてしまえばなんてことはない、文字通り片膝を立て一本の朽木のような腕を突き立て頭を下げている、所謂跪くという行為。黝い彼と、黄金の青年との違いは、形にもできない抽象的な部分だった。一方は傅くことに躊躇がなく、一方は不遜にも自らを大きく見せる蟷螂のように中身が伴ってはいなかった。頭上よりほんの少し上あたりの次元が裂けたように思えた。それほどまでの圧力だった。小枝が折れたような挙措で、眼前の化物は小首を傾げた。追随するように額の中心で紅い禍力が空気に残滓を散らしながら、蕭然と一本の禍々しい角がそこにはあった。鮮やかに山の背骨を思わせるような表面を惜しむことなく、ただ、そこにあった。胸のあたりで右から左へ腕を動かした化物は、結果として生まれた事象に酷く満足感を胸中抱いていることは、荒波を彷彿とさせる口許を鑑みるに明らかであった。幸運だったと神に感謝することすら忘れ、柚乃下は視線の先にある捲れ上がった大地を見据えた。止め処なく滲み出ては落下する塩と水分の結晶が、唇のあたりで弱々しく震えながら今か今かと落下の時機に揺蕩う。舌先でこそぎ取った汗が口腔内で緩やかにはっきりと広がった。高鳴る心音に頭を押さえつけられている、視線すら上がることを赦されないような気がした。忌々し気に響いた音色の正体は、黄金の青年の口許から発せられた。粘度が高い液体同士が摩擦によって音を生じる。未だ立ち尽くしていたグリーディの腰辺りが、まるで胴体から切り離せる人形機構のように離れた。彼は両肘を用いて落下の衝撃を緩和させた。一気に噴き出した汗を見るに、予想すらできぬほどの一撃だったように思える。柚乃下は僅かずつ視線の先を真隣へと動かした。彼の下半身は脳からの命令を待機していた。

「……やはり」とグリーディは。砂糖に群がる蟻のような速度で大腿骨あたりの骨が形成される、その上を巨細な神経が次々と母を求める赤子の手のように伸び、赤黒い肉が成形された。鼻梁が僅かに開いている。極度の緊張状態を表していた。彼は再構築した両脚を確かに言の葉を空中へと綴る。「――獅子オレでは太刀打ちできないか」化物は静かに、壊れない玩具を見つけたように、微笑みを崩さない。表情が読み取れない。グリーディは禍力を脚先へと溜めて、一足飛びに後退した。化物は尚も動かなかった。だが、とグリーディは続けて舌先へと禍力を留意させた。「獅子オレひとりが撤退するわけにもいかねえよなあ、回収しなければならないものがある故な」

 彼は言葉へ呪を注力させ、様々な物体を展開した。そのどれもが数えるのが莫迦らしくなるほどの物量で、且つ凄まじい速度を伴っていた。銃火器、刀剣類、誘導弾に姿なき鳥獣達、繰り出される弾丸と飛び交う鈍色の切っ先、煙を吐いて吶喊する爆撃弾、大小様々な鳥獣達は一気呵成に眼前へ立つ化物へと大地を、空を駆けた。

 柚乃下は肩を震わせながら前へと踏み出す。前門の化物に後門の獅子、どちらを選ぶかは一目瞭然の結果だった。視界の端で目に留まったのは、化物の額から伸びる禍々しくも美しい角だった。先刻より、数ミリ単位で伸びているように思えた。柚乃下が化物の背中側に廻るのと、幾億という悪意が化物へ直撃するのは、同時だった。

 彼の知りうる限りの世界は、紅い化物によって消え去った。

 二度目の崩壊は、黄金の獅子によって薙ぎ払われる。

 日常から非日常へと踏み出した幼き頃の少年は、抗えもできぬ方法で非日常を日常へと昇華させ、連れ添った想い人のせいで日常を放棄し、心機一転当たり前の非日常の中へと身を投じた。非日常は数日もすると日常へと昇華され、日常だった毎日は、圧倒的な強者の前に改めて、非日常へと成り下がった。

 引き返せぬ帰路へ想いを馳せるのは辞めにした。。これまでの自分とは決別しようと誓った。誰にでもない。誰かにそう教えられてきたからだ。

 だから、彼は――躊躇なく悪意と異質が混在する場所へと踏み込めた。

 誰かが背中を力強く押してくれた気がした。



 化物は笑みを浮かべ。獅子は目を見開き攻撃を停止させていた。幾百の悪意たちが柚乃下の体表面から僅か数ミリ程度離れた空間で止められる。グリーディは自らの胸中渦巻くどす黒い意識が、ひと目した瞬間には消えているのを自覚した。彼は楔石の奪取と――唯一ともいえる部下を天秤にかけた。

「――――――道理で」ゆがめた口許が言った。柚乃下へと向けている掌が、なにかを掴んだようにぎゅっと握り締められる。数瞬の間があった。夜風に髪が靡く。「何故かなと思ってはいたのだ、そうか。仔兎オマエが人質として利用していたのか」彼は目を細める。眼前に突如として現れた歯牙にもかけない少年が、まるで蝶番があるかのように躰の前面を観音開きにさせていた。両腕をいっぱいに広げ、抱きしめるような形で、柚乃下は自らの体内へ、西室さいかを隠していた。しっとりと汗ばんだ西室は、意識を完全に失っていた。一瞥して然る通り、彼女の肉体は柚乃下潤の体内から伸びた刃によって、文字通り人質となっていた。グリーディには最早成す術がなかった。彼は必死の形相で矢面に立った少年を、改めて見据える。凡そ記憶には残らない程度の相貌だった。彼にしてみれば日が昇り数時間経過すれば、忘れてしまうような、正しく歯牙にもかけるに値しない人間。だが、生き残るためには非人道的ともいえる手段も選択できる人物だった。「獅子の牙に届き得たか、今まで西城もがみや恋染初姫――――釜罪いちごの糞として見ていたが……値千金というより他はあるまい」

 深々と潜めた片眉が、何かに反応したのか反射のように動いた。肌に纏わりつくような生温い夏の夜風がすっかり意気消沈したグリーディの胸を撫でた。

 鮮血が舞い、化物は血潮に塗れた鉱石を手中に収めていた。芯が抜けた人形がぐらりと傾く。黄金の彼は自らの胸にある孔へ手を添えて、禍力を舌先に乗せる。

 柚乃下は極限状態の中に長時間身を窶していた故に、唐突に発せられた言語に脳が処理をしなかった。代わりに脈動する体内からひっそりとか細い声が聞こえた。彼女へと発していたであろう言葉は、人質へと成り下がった彼女へきちんと届いていた。

 胸の奥で燻るような、遣る瀬無い気持ちが、言葉になる。奇しくもそれは、煌々と輝く鉱石と似ていた。

 静まり返った森が、騒めきを取り戻したのは、化物の禍力が切れたあと、半刻ほど過ぎてからだった。

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