029



 躰中を押さえつけていた抗うことのできない神の法則。理がひとつ世界から消えたように彼女は思った。力の限り抵抗した代償として、華奢ともとれる両の腕は動かせば軋む程度には痛んでいた。軽く息を整えて上体を起こす。脳味噌が過重力にあてられて視神経がどうにかなってしまっていた。頭を振るい二三度小突くことで半ば無理やりにでも覚醒した。

「へ……ざまあみやがれ」

 横で仰向けに斃れていた柚乃下は、ひと言吐き棄てたあと、傷ついていた手足をぬるりと溶かした。ってはいる能力ではあるが、急なことで吃驚した。彼はものの数秒液体と化し、徐々に指や関節の造形を作り直していく。

「――。……はは、なんとかだ。なんとか殺せた……」掠れた声を引き出して言い放った言葉を、彼女はどこか理解できずにいた。誰に、誰が、どうして、どのように、どこで、一矢報いるとはどういう意味だったか。くるりと首を廻した。あ、とつい口にした言葉は、どこか喜びすら含まれていた。「……慢心しやがって……痛て……」彼女が目撃したものは、異形な作り物のようだと言われても、なんら不思議のない醜く汚らわしい芸術品であった。透き通る黄金の髪は天を衝き、その端々には黒っぽく粘性の高い液体が付着していた。喉を貫通している鈍色のなかに滴る血液を纏った鉄柱を、彼は片腕で引き抜こうとしていた。口端から零れる黒い液体。がぽりと濁った声が連続する。全身の肌が粟立った。双眸には明確な殺意が滲み出ていた。禍力の質が喉を貫かれ全身を貫かれた状態でもなんら勢い収まらずへたり込んでいる少女を射抜く。ふう、とひと息入れて立ち上がった柚乃下は、全てが終わったような表情を浮かべていた。恋染初姫には何故そのような表情を浮かべられるのかが理解できなかった。少年は片手を差し出す。「不意打ちが最大の攻撃って奴よ」ぐっと引っ張られた彼女は、起き上がり彼の横に立つと、すっかり身長差が逆転していた。「お前そんなにデカくなれるんだなあ。西城さんみてーじゃん」歯を見せ嗤った少年を見下ろすことで、心臓がひと際大きく脈打った。柚乃下は手を離し、尻についた土を二三度叩き落としながら前を見据える。つられて彼女も同じ方角を見た。死に直面した黄金の青年は、徐々にだが確実に力を失いつつあった。柚乃下が言うように、不意打ちをしたのである。彼は斃れている状態から背中を液状化させ、硬質化させた液体を地中深くを潜らせながら標的であるグリーディの周囲四方を取り囲み、勝利を目前にグリーディが自ら作り出した拳銃の引き金を駆動させた瞬間を狙って、一斉に逃げ場なく、貫いた。結果として、針の筵に貫かれる芸術美ともいえなくもない物体が出来上がったわけである。恋染は自由となった躰へ迸る禍力を集中させ、全身に纏った。

「――――潤、早く、きみも早く」

「は? 何をピリついているんだ?」

「いいから早く!」

「何に対してビビってんだ? 見てみろよ、ザ・虫の息ってや――」

 瞬間的な暴風が、禍力が持つ膨大なエネルギーの蓄積によって、グリーディの躰を余波として周囲へ撒き散らした。閑散としていた森が一陣の強風によって一本二本と木々を薙ぎ斃していた。

「ちょ、……まじか」驚きの表情を隠そうともしない彼。

「――――あんなので死んだらぼくも苦労しないよう」と彼女。

煌々しく脈打つ禍力のオーラの端々が、揺蕩う彼の意思を体現するように、幾重にも連なって周囲の物体へ影響を与え始めた。樹齢数十年もの大木ですら根すら残すことなく引き抜かれ、拳ほどの岩の数々は衝撃によって彼を爆心地に扇状へ飛び散った。

 確固たる憤怒を周囲へ撒き散らしながら、黄金の禍力を身に纏い、彼は最後の一本となった鋼鉄の槍を引き抜いた。丁度咽喉仏があった場所には夜のように孔が開いていた。掠れた呼吸の連続的な音が風に乗って鼓膜へ届いた。

「――――」小さく宣言した言葉は、禍力の余波により掻き消される。塵等が目に入らぬよう腕を遣った。細くなった視界のなかで、彼はその場から姿を消す。

「は?」と言ったときには既に黄金の影は眼前にあった。射殺す双眸に僅かな時間を奪られる。彼の手は何も掴んではいない。原始的な五指をいっぱいに広げた状態で、飛び掛かって来た。指の先端にまで禍力が滲んでいた。よくわからないが、あれに触れれば危険だと柚乃下の脳は判断した。反面、彼の肉体は動けない。強烈な殺意とも取れる威圧感の前に、矮小な人間は身動きひとつできないことを初めて知った。命を賭けた末の一撃が生み出した結果のものは、既に跡形もなく治っていた。知りたくもない事実だった。柚乃下の髪先にグリーディが触れる寸前、黄金の躰は真横へ吹き飛ぶ。長身な恋染が屈強な腕を突き出しながら、獅子を彷彿とさせるグリーディの胸倉を乱暴に掴み上げ、跳んだ勢いを殺さずに森の手前に立っている屹立とした大木へ突っ込んだ。轟音。大木は紙粘土でできていたのかと思わせるくらいに呆気なく、そしてその周りになんとか自生を保っていた緑生い茂る樹木を薙ぎ斃した。

「――――あえ」扇状に広がった轟音の発生源には、土煙を蓄えた恋染が立っていた。その手には目標であったグリーディを収めてはいなかった。彼女は二三度首を廻す。柚乃下は肩甲骨の真中あたりに冷たい汗がひと筋流れるのを認識した。咄嗟に脚を液状金属へ変化させる。燐を燃やしたような黝い炎が頭上を掠めた。「そっちか」両脚を折り曲げた恋染が、次の瞬間には目標物であるグリーディ目掛けて吶喊。彼は憎悪を浮かべたまま「反発」とだけ言った。やってくる勢いそのままに恋染の躰は後方へと吹き飛んだ。頭が上へ下へと回転しながら飛ぶ様は、どこか楽し気だった。

「――――やべえ、一旦体勢を」

仔兎オマエだけは楽に死なせるわけにはいかないな。まずは『四肢を切断』しよう」

 肉体からの脱却を感じた。切れ味の良い包丁で豆腐を切ったような速度で、視界に映る光景が下へと落ちてゆく。声すら発せないほど、それほどまでに速かった。柚乃下が瞬きをしている間に両肩から先、太腿の付け根から先が落ちていた。続いて赤々と溶解した鋼鉄を当てられたように熱くなった。遅れて痛みがやってくる。最大限開放した蛇口のように、荒々しい水分が大量に放出した。地面にはまだ落下していない。この間ほんの一秒にも満たない。成程な、と彼は緊急事態を脳内が告知するなかどこか冷静な思考が呟いた。今や見上げる形となったグリーディを落下寸前に見上げた。未だ怒りが冷めやらぬ双眸だった。濃厚な禍力を間近で感じることは少ない。生命エネルギーそのものである禍力を、無造作に放出するような命知らずを、柚乃下はこれまでの人生のなかで出会ったことはなかったからである。例外として西城という世界の基準点が時折爆発するような禍力を発することがあったのだが、これほどまでに上質であり重いものを体感したことはなかった。だからだろう。どこか冷静に鳥瞰したような気持ちでいられたのは。

 ――――烈火のようだ。融けてしまう。

「だから! きみはぼくが斃すって! 言ってるでしょう!」

 閃光迸る。光線のような速度を以てして、彼女は戦隊ヒーローのような飛び蹴りを、彼の人生のなかで最大の悪役であるグリーディへ放った。ポケットから手を引き抜いた彼は、片腕で彼女の足を掴む。光景が一時停止した。自由落下が終わる直前に、柚乃下は自らの四肢を液状金属化させた物体で伸ばし、先に落下していた切断面の三つへと付着させ、回収する。腹部からも同じように金属化させた柱を勢い良く顕現させる。地面と衝突することによって、彼の少しばかり軽くなった肉体が、後方へと向かって飛び退いた。右腕を残してしまったことに対し、明確な舌打ちをした。十、と数える。愚者の浅慮な行動が、化け物の行動を強く制限していた。一見入れ替わりのように恋染と柚乃下は立場を逆転させたが、この時グリーディが最も危惧する相手こそ、変幻自在の肉体を持つ柚乃下潤に他ならなかった。彼が煮えたぎる感情の奥底で感じている唯一の違和感、それは振り下ろした断頭のための刃が有効ではなかったという点だった。九、と数える。これまで数多もの集団、組織をひとりで相手取った彼にしてみれば、躱すのならば理解できるが、受け止められ、剰え消滅するという結果は予期せぬものだった。そしてそれらを余計に混乱させていることは、顕現、操作のための禍力が消費されていないということ。禍力という本質に則れば、顕現するに至ったエネルギーと、それを操作する際に消費されるエネルギーは――八、と数える――一度脳から命令され、実行されれば結果がどうであれ空中へ分散、霧消するはずだが、彼に放った刃が消えたのを切欠に、消費していた禍力がそっくりそのままグリーディの内部へと戻って来た。七、と数える。故に彼は不可思議の現象を生み出す柚乃下を、最も警戒すべき対象として理解している。楔石保有者と成り下がった彼に対し、グリーディは「死ね」と命じたが、何の制約か死に至ることはなかった。《一言ワンワールド》の制限である「実行できる内容でなければ顕現、遂行されない」という理に反していたためである。グリーディはおっかなびっくりこちらを向いたままではあるが後退した少年を睨んだまま――六、と数える――片足で暴れ廻る恋染へ「停止」とひと言呟いた。

 空中で眉間に皺を寄せ、性別上は女性である恋染が、みっともなく大口を開けたまま、ぴたりとその動きを制限される。五、と数える。彼は掴んでいた足を離す。何の支えもなく恋染はその場で動けずにいた。今頃彼女の思考回路はミキサーにかけた魚類のようになっているに違いない。

「言っただろう小娘クソガキ。この崇高なる獅子オレに、仔兎オマエの攻撃は」四、と数える。「効かないと」硬く握りしめた拳を見た恋染は、殴られると予想する場所へ禍力を集中させようと力むが、一時停止しているのは肉体のみならず、禍力の運動も同様であった。「《一言ワンワールド》下では、化け物でさえ、獅子オレには勝てないよ」振り絞った矢を放つように、剛力極まる一撃が、衝撃波を生み出しながら恋染の胸部を貫いた。背中から肘のあたりまで生えた赤黒い腕は、不可思議な光景を生み出していた。三、と数える。柚乃下は再構築することに成功した片腕両脚を確認する間もなく、生えている腕が握る物を見やった。返り血を二滴ほど頬へと付着させた黄金は、ほう、と握っている物体を確認しながら邪悪に口許を歪曲させた。「――ここではなかったのだな。凡その奴らは心臓を捧げているというのに、酷く厄介だなァ。とすると――――こちらかな」腕を軽く振るう。二、と数える。恋染は停止したままだった。つう、と口の端から鮮やかな血液が零れていた。グリーディは抜き出した掌に残る温かな肉塊を、何の気なしに握り潰し、正に今、無我夢中で腕を鋭い穂先へと変形させ伸ばした柚乃下に対し、彼を一瞥することなく言った。「止まれ」

「――――」一、と指を折った。

「動くなよ鬱陶しい、目障り極まる」握られていた掌から次々に肉片が地面へ零れ落ちた。それが恋染の心臓だと認識したくはなかった。グリーディは左手で恋染の頭蓋を握り、徐々に力を籠めていた。罅割れるような亀裂の音が、身動きできない柚乃下にも聞こえた気がした。黄金の彼は、邪悪にこちらを見ることなく、頭蓋を――――

 零、と発射した。

 グリーディの右脇腹が、輝かしい月光を帯びた純鉄の柱によって深く貫かれた。

「――――仔兎オマエ」グリーディの視線が一瞬だが確実に鉄柱へと動いた。恋染はこの機を見逃すはずがなかった。気を引ければ、有効としていた理に綻びが生じる。一気呵成に禍力を放出させた。躰が動く際、空間から手を叩くような音が聞こえた。視線を戻す彼に対し、彼女は大きく足を振るった。元々あった頭が根元からぐにゃりと折れ曲がり、肉体は衝撃を消し去ることができずに土煙を残して、地面と水平になりながら吹き飛ぶ。遠く離れた場所まで木々が折れる音が木霊し、足先から着地した恋染は、血痰を大量に吐き出しながらがくりと崩れる。

「――恋染!」柚乃下は駆け寄りながら乱暴に腕を掴み上げ、肩を貸した。呼吸のなかに纏わりつくような音が混じっていた。背中を摩りながら孔を確認する。あれだけ腕が突き抜けていたのである、貫通して然るべきだった。掌に付着した液を見ないよう努めた。できるだけ明るい言葉を投げかける。彼女は寄りかかりながら、羽音のような声で紡いだ。柚乃下は自らの心音が酷くやかましいことを、今更になって自覚した。「おい、待て待て待て! なんだって? なんっつったお前!」相手の鼓膜を破ってもいいとさえ思った。むしろ気付になるくらいであれば、多少の乱暴は働いても良いと思った。胸中が騒めく。腕のイメージが濁流となって躰の内部から突出しようとしていた。胸を押さえて蓋をする。「――くそ! ちょっと待ってろよ、今横に――」

 ふふ、と小さく聞こえた音は、いったい誰のものだったのだろう。気付けば騒いでいるのは自分ひとりだけだということに今更ながらも気付いた。

「だい、じ……じょう、ぶい」吐血を繰り返す紅い少女は、虚ろな瞳をしていた。厭々と彼は首を振るう。「そんなわけねえだろ! 話せるほうが不思議なくらいだ……抜かれたんだぞ心臓を! 逆に今生きているほうが――――」

 だからだよう、と少女は嗤う。あどけなく純粋に、嗤った。

「言ったでしょ、ぼくが能力を遣ったら潤は死ぬかもしれないって……つまりは、そういうことだよう」

「――――は?」理解不能。ぞくりと粟立った。彼女は力任せに柚乃下を振りほどく。女性の力ではなかった。――――能力、遣って、ないのか。やはは、と少女は嗤った。

 そして少女は自らの心臓があった場所へ手を突っ込む。二度三度と搔き廻していた。呆気に取られた。最早止めるという感情すらなくなっていた。肉と肉がぶつかり、粘着性の高い液体が鼓膜を震わせる。半開きの小さな口からは絶えず血液が漏れ出ており、虚ろになった双眸は閉じているのか開いているのか、彼にはどちらでもないような気がした。

「ほんとは教えてあげられたら早かったんだけど……これも制約なんだ……ごめんね」

「……恋染?」

 禍力に本来色彩と呼ばれるものは存在しない。だが反面、色味がかかっているように見える現象は、世界中にも数多く存在する。黄であり緑であり青であり紫であり黒であり白であり、赤である。彼女の孔から時折、どくん、という音が聞こえた。ありえない、それはさっき潰されたはずだ。どくんどくんと早くなった。孔から流れ出ていた血液が、蒸気を上げて熱を持ち始めた。煙を上げて徐々に体表や衣類から蒸発していく。ずるりと引き抜いた腕にも大量の血液が付着していたが、同じように音を立てて蒸発していく。あれ、と柚乃下は尻もちをつかせながら見上げる視界内の光景に違和感を覚えた。夜風に靡く光景を覗けるようなぽっかりとした孔が――――消えていた。代わりに見たことのないような模様が確と大きく刻み込まれていた。

「――――《オーバースペック》」

 地面すらも震動するほどの禍力が、彼女を中心に世界へ轟いた。

 瞬間――――柚乃下潤は頭部と首とが離れていることに気付いた。くるりくるり世界は廻る。あ、という言葉が空虚に静寂な世界に罅を入れた。天上天下入り乱れ、最中に忽然と屹立していたものは、彼が限りない思考の海にある言葉を引き出しても、ひとつしか見当たらなかった。

「ごめんね潤、だけれどきみは了承したはずだよう。痛いけれど我慢してね」

 気道諸共切断されているためか、それとも肺と繋がっていないからか、声が、もう、発せない。切断面から感じる熱を無視して、彼は禍力をできる限り洗練することに努めた。

 ――――化物め。

「誰かがぼくの心臓を奪わないといけないんだあ、それともうひとつ必要なのが、完全解放時に誰かの命を消費しないといけなくって……見ず知らずのひとを犠牲にしても効力があんまりないし、面倒なんだよう。だけれど、あいつが言ってた言葉をウノミにするなら、潤って死なないんだよねえ、だったら、何も問題はないよう。生き返ってね、じゃないともがーに怒られちゃう」

 切断面から伸びた液状金属の末端が、分離した躰を捉えた。正直ここまでやるとは彼も思ってはいなかった。納屋のときに聞いていたのは、完全解放には条件があるというただ一点だけである。彼女からしてみれば、相手に警戒されないようにした結果の出来事かもしれないが、首と胴体が切り離されたあと、きちんと元通りになる確証はないのである。そして柚乃下潤は禍力の操作が極度に苦手であり、辛うじて伸ばした金属を、元の造形に戻すまで意識が保つかは又、別の問題であった。

 構わず彼女は徐々に肉体の形状を変化させた。大人びた躰の節々から紅い煙が立ち上り、それに伴って大量の禍力が渦を巻く。骨が砕ける音があたりに霧消し――彼女は化け物に成り下がった。

 蝙蝠のような両翼を思い切り伸ばす。凡そ頂点から根元まで、三メートルはあろう。大きな臀部の根本から、ふたつの尻尾が絡み合ってひとつとなっていた、先端はどちらも鋭く、人体であれば容易に貫くことができそうである。しなやかな脚は人間ではない形状を月光に照らされていた。

 紅い化け物はにこりと醜悪に嗤った。

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