028

 紅い影が縦横無尽に月光を反射させながら、様々な背後を取りながらも凄まじい速さを体現しながら回避行動を起こしていた。対して黄金の彼は紫煙を燻らせてただ佇んでいた。右へ左へ焦点を当てながら物の影から影へと飛び移る彼女を見て、グリーディは言の葉を連ねた。目視不可な衝撃が影へと潜んだ彼女へと直撃する。首があらぬ方向へ曲がることを、彼女の筋肉が容易に了承しなかった。長髪が宙へと舞う、爛々と紅く灯す瞳は射抜くような意味を籠められていた。音が弾ける。グリーディは片眉を吊り上げた。

「いい加減に諦めたらどうだ、《オーバースペック》を持て余してやがる小娘クソガキ

「は、ぜんっぜん! よゆーだね! 痛いのなんかぼくにとっては屁でもないさ!」口腔内の出血を見せびらかすように、べー、と舌を出して挑発していた。肺へと溜まる青みがかった煙をゆっくりと吐き出す。クソガキが、と呟いた彼。煙草を吐き棄てながら体内の禍力を高めた。自然、外部への影響力が甚大であった。逆立つ髪には微量ながらに紫電が発生していた。「うげ、全然元気じゃん! どーなってんの!」

「こちらの台詞だろう」舌先へ禍力を乗せた。「動くな」滑稽極まる体勢とは正に現在の彼女を表す慣用句であった。糸人形を中途半端に動かしたような恰好でぴたりと停止した。恋染の周囲には硬度を伴う半液体が絡みつくような感覚があった。続けざまに彼は声に禍力を載せた。「自害しろ」屈強ともいえる細腕が折り畳まれる。両の親指で彼女は見開いた瞳を圧し潰した。頭骨内に震動した、ぷちゅり、という音よりも、焼けるような痛みよりも、何よりも感じたのは頭が後方へ弾き飛ばされる衝撃だった。しかも自らの指は凄まじい力を発揮して、今も尚奥へ奥へと突き進んでいるではないか。彼女は器用に脚を折り曲げ、肘の部分へ踵を宛がい、渾身の力を入れて踏ん張った。噴き出したのは必死になって両の眼から血涙流す恋染では断じてなかった。グリーディはくつくつと嗤いを含んだ口許へ手を添え、厭らしい瞳で見下ろしていた。彼にしてみればこれ以上手を下す必要すらなかった。既に決着はついていた。このまま放っておけば《一言ワンワールド》の能力のまま、彼女は自害をするまでのたうち回り挙句の果てには文字通り死ぬことが決まっていた。敢えて「死ね」と発言しなかったのにも理由があった。

「《オーバースペック》とは只の肉体強化の能力だったか、敢えて強奪する水準のものでもないが……今手にしておいて無駄がないからな」声色で判断することしかできなかった恋染ではあるが、あまりの激痛と一瞬でも意識を向けると、自らの指が脳髄を破壊してしまう。故に彼女は聞こえているが聴けていない状態にあった。であるからにして、これは致し方ないのであった。不敵な笑みを浮かべ、今や勝者となったグリーディの表情は昏く、月光から生み出された冷たい光を受けた瞳は物寂し気に沈んでいた。ひとつ嘆息を零す。くるりと踵を返した。命令した行為を見届ける気分ではなくなっていた。「興醒めだ―――磔刑にしてひと思いに殺してやろう。楔石の回収はその後で構わない」磔刑、という言葉に反応して、《一言ワンワールド》が起動する。恋染の躰は強制的に大の字へ開かれ、空中へ飛ばされた。彼女にしてみれば抵抗していた最中の出来事であり、咄嗟に反応することすらできなかった。両腕を水平に伸ばし、両脚は甲が重なる形で停止する。どこからともなく古めかしい木でできた十字架が彼女の背中に密着していた。失明した彼女にとって、音だけが現状を判断できる材料だった。鉄と鉄を激しくぶつけた音がふたつ恋染の鼓膜を刺激した。一度目で両腕を杭で打たれ、二度目で足の甲を一度に貫通させていた。

「どこぞの聖人を想起させる恰好じゃあないか」自らの遥か下方で研ぎ澄まされた声が聞こえた。彼女は無抵抗のまま事を待つことはできない。禍力を最大限まで放出し、恐らく磔刑にされているであろう自らの躰を十字架から引き離そうと力を解放する。掌へ撃たれた杭を引き抜く刹那、今度は一度二度の衝撃ではなかった。幾重にも鳴り響くカンカンという独特な音色が、激痛に叫ぶ少女の声を掻き消すような音量で森へと伝わる。数瞬の出来事ではあったが、弱冠十と少しの恋染の心を折るには充分すぎる痛みだった。見えぬ両目で想像してしまった。幾重にも鳴り響いた衝撃と痛みから考えるに、現状彼女の指先から肩あたりまで、足先から太腿あたりまでがびっしりと杭が打たれている自らの姿を。「――おや、本当にそれだけか。本当に膂力が向上するだけの能力なのか、出し惜しみをするなよ、一刀両断にしても獅子オレは良いのだぞ」項垂れた恋染の前に、十数メートルはある西洋によくあるような剣が顕現した。それは品定めをするように磔の前で大きく振り被られていた。怪しげな月光を反射している剣は、空から吊り下げられているような、左右へ揺れ動いている。恋染は眼前で揺蕩う物を確実に剣が放っている異常なまでの禍力を感じ、脳天からつま先まで電気が駆け巡る。相変わらずグリーディは弄ぶ動きで威嚇を続け、対して彼女は禍力を練り上げ対抗しようとするものの、磔刑の効果も相まっていた。聖人ですら抗うことのできない処刑法の具現化であるこの方法は、彼の知ってか知らずか、だった。幾分もの間、彼は剣の先端を恋染の腕や太腿、胸や顔のあたりを軽く撫でていた。「――やはりな。良かったよ杞憂でなくて」何とか首だけでもと必死な形相で首を振っている彼女を見上げ、ぼそりと呟いていたグリーディ。

 ――――聖人、という主要語キーワードが奇しくも合致したのか。

 成程な、とつい零した言葉は、歪む口許によって掻き消された。

 見上げている黄金の双眸を、静かに緩慢に、閉じる。連動するような動きで剣は大きく傾きを見せた。彼の瞼が閉じ切り、偶然にも月光が厚い雲に覆われる。刹那の闇が鈍色の線によって際立った。振り下ろされる刃は、正確に彼女の脳天を破壊し――――

「――――――――――」ぎゅう、ときつく瞼を閉じていた恋染。快復していた瞼を、どうしても開くことができない。幾人もひとを殺めてきた。老若男女関係なく、然したる理由もなく、ただ命令をされるままに。だから、恐怖はあったが、振り下ろされる刃に対して、それ以外の感情はなかった。後悔や憐憫といった他者を慮る気持ちは化け物である彼女には、既に持ち合わせてはいなかった。数瞬の間。瞼を閉じる間際に見えた高速の刃。速度感覚によるものではあるが、躰を両断するのに必要とする時間は、そう長くはないと思っていた。恐ろしいものを見ないよう、彼女はそうっと瞼を開く。

「――――…………遅いよう」

 振り下ろされた剣は、群青の少年によってされていた。

 宛らその姿は、英雄を求め続けていた恋染にとって、どこか英雄的で、儚くも人間的だった。群青の少年は、自らの背中と接触している剣を、然して興味がないような口振りで言った。

「あんだけ息巻いて出て行った割にゃあ、随分と余裕がなさそうだけどな」

 柚乃下潤は、悪魔的に、邪悪な笑みを浮かべ、禍力の紫電を躰に纏わせながら、悪童のように口許を、湾曲させた。



 率直にいえば、ショッテンパード=グリーディは酷く混乱していた。眉間に深い溝を作り、歯を剥き出しにしながら見上げている光景に対し、錯乱というわけではないにしても、正しく混乱していた。最大出力であったはずだった。中空磔刑に処されている少女を屠るためには、少なくとも生半可な攻撃、刃では通じぬと判断した。就中、彼が禍力エネルギーを集約させた箇所は、西洋剣の刃に値するところであった。馴染み深い東洋の刀剣とは違い、西洋の刀剣は『斬る』というよりは『叩きつける』ことを主としていた。だからこそ、想像するに最も切れ味の良い刃物を空想し、西洋剣の形を創り出したあと、東洋の刃紋を追加で付与したのである。最大放出の一撃は、見事化け物を一刀両断し、地面へ落下する楔石を回収する――――予定だった。だが、どういうことだ。ちっぽけで歯牙にもかけない小童極まりのない小僧が、振り下ろされた刃を一瞥することなく、その背中の体表に目視できない膜があるが如し涼しい表情を浮かべ、今も尚、紅い少女と二三言やり合っているではないか。一層深く刻まれた眉頭の皺が、これから起こる出来事を物語っていた。彼は禍力を刃へと大量に注いだ。見る見るうちに禍々しく光沢を放つ物体。それでも尚、少年の背中へは食い込むことはなく、やはり体表から少し離れた場所で、僅かに金属音を立てていた。

「――――不可能だ」

「不可能? 莫迦言っちゃあいけませんぜライオン野郎」彼女と目線を合わせるようにして、彼は少し声を張った。背中越しに見下ろす瞳には、少しだけ、ほんの僅かに黝い炎が纏わりついていた。「見て分かるよーに、てめえが大仰に出したモンは、俺には通用しねえみたいだなあ」少年は片手を伸ばし、磔刑へと添えた。鋼鉄製の部品が残像も残さない速度で。解放された少女は、重力に従って自由落下を開始する。地面と接触する寸でのところで少女はくるりと体勢を立て直し、猫のような柔らかな足踏みをして降り立った。少年は未だに中空で。グリーディの眼には映らないが、少年は自らの背中や足の裏から無数ともいえる鉄製の棒を地面や木々へ絡ませていた。本来であれば目視せずとも禍力の残穢を感知できるのであるが、如何せん文字通り怒髪天を衝いている彼の脳細胞は、現在怒り以外の感情や気付きを全て消し去っていた。犬歯を剥き出しにしたままグリーディは言った。

「――誰を見下している、地に落ちろ」少年は、躰中の棒を根元から強制的に折られた。気付くと地面との距離はあまりそう遠くはなかった。「っとと、あっぶね」乱雑に首許を掴まれた少年は、本日何度目かになる超高速移動を体験することになろうかとした。

「平伏せ」

 一瞬の出来事だった。恋染が膂力を解き放ち最高速度に達しようとした直後、現象である重力が彼女らふたりを地面へ縫い付けた。落下したところから一秒も満たない間に、数十メートルは逃避できたが、現状恋染にも抗うことのできない目視不可の重圧が、これ以上にないほど厄介だった。同量の圧力を感じている柚乃下は、内臓や骨に至るまで、所々折れてしまっており、常人程度の肉体的強度を持たない彼は、圧し潰された肺臓のせいもあり、呼吸すら満足にできない状態で呻いていた。辛うじて少年が眼球を動かし、隣にうつ伏せで斃れている少女の向こう側を見た。青々と茂る木々は、眼前で行われている不可思議な現象にどこ吹く風の様子で、数時間前から変わらぬ場所で、自然を謳歌していた。

「……空間……し、てい……」

 グリーディは恋染初姫の最高速度を捉えることができない。そのはず彼女の最高速度は人影が線になるほど速く、それは西城もがみといえども捕獲することは困難な速度であった。だからこそ彼は、人物指定ではなく、空間、領域指定で能力を解放した。彼が展開した範囲は直径三十メートル。領域内の人間にのみ作用するよう禍力を限定的に練り上げた。より具体的に表すのならば、領域内の時速百キロ以上の速度で動く物体に対してだった。

 黄金の彼は、血管を数本浮かべるほどの怒気を孕ませながら、緩慢とした動きで地に伏しているふたりへと近づいた。

「ちょうどいい具合になったなァ、もう逃がさん。甚振る必要もない。肉片も残さず消してやろう。――」

 柚乃下にとって一番の策は、発動不可の状態になっている。能力を遣い躰を液状にできない理由が、今の彼にはあった。故に彼は違う方法で状況を打破しなくてはいけない。グリーディが迫っている。柚乃下との距離は約十メートル前後だった。炸裂させるだけならばこの距離でも機能はするだろう。だが相手は楔石保有者であるグリーディ、常人と同じように扱ってはいけない。彼が垂れ流す禍力の質は、常人の域を半歩ほどしか出ていない柚乃下と比べ、圧倒的に高性能であった。想像するに、生半可な攻撃をしてしまえば見切られ反撃をされることは難くない。だからこそ、柚乃下は距離を見誤らない。凡その距離は感覚で掴むしかない。日本人は武器を手にすることが少ない。就中、飛び道具となると標準を定めなければならない。肌に感じる重苦しい重圧のなか、標準を定めなければいけない。果たして実現可能であろうか。少し腕を動かしてみる。大丈夫。いつも通りとはやはりいかないが、それでも半分の速度であれば可能だった。踏ん張る際の呼吸のほうが、柚乃下にとっては鬼門であった。既に酸素の残量は零に等しく、過重力のせいで内臓の至るところに違和感があった。背骨を守るために一部分を液状化させる。大地の中へ鉄の液体が染み渡った。これでいい。鼓膜の奥底から厭な音が響き、時折小枝が折れるような音と比べ物にならない痛みが全身を駆け巡っていた。ひと呼吸分だけの力を無駄にしないよう、大人しく待った。あと二歩。心臓が早鐘を打っている。生物としての本能が危険を大声で叫んでいた。あと一歩。

「見透かすほどもない。では届かないだろう」

 ぴたり、と動きを停めたグリーディに対して、柚乃下は戦慄を露わにしながら動いた。右腕を咄嗟に上げ、標準を狙い、引き金を引く。

 失敗だった。見透かされていた。否、見透かす理由すら必要ではなかった。

 哄笑。哄笑。眼前。空手の中に黒い塊が顕現した。黄金の彼は塊の出っ張りを指先で引っ張った。

 柚乃下潤が思い描くように、事は進んだということだった。

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