027
西室の尽力や禍力という蓄積量、地頭のことを考えれば、この度入手し数刻前に手渡した絆石は彼女にとって、分相応であることは彼にもわかっていた。敵対ともいえるほど組織力もなく、相対するには力不足だったあの場所には、ただ世界中から蒐集された絆石が文字通り五万とあった。途方もない石のなかから目当てのものを捜索することに、力を遣うことは吝かではなかったが、手渡したときの表情を思い出すに、対価に見合ったものだったのだろうとグリーディは生涯誰にも見せることのない満足感を得ていた。であれば、あまりにも時間が経過しているとさえ思える。玉座を拵えひじ掛けに不遜さながら寄りかかる彼は、じっくりと堪能するように、瞼を閉じ、西室の作戦失敗を悟っていた。元来、絆石を幾個所持していようが、類稀なる希少鉱石である楔石たったひとつといえど、立ち向かえるほどの戦力ではないのは畜生にもわかる道理であった。いわば彼女の役目は、恋染初姫及び、どこか気に食わない少年の消耗にあった。前者は己ひとりで判断できる脳味噌を母体の子宮へ置いてきてしまっている阿呆と、後者に至っては暴走状態から持ち直すほどの適合率は辛うじて潜在する程度の存在。彼にしてみれば、些細な存在であった。
だが、と胸中吐露する。
恋染初姫の持つ《
果たして三人の英雄と名高る人物たちは、何をするために、楔石というものを開発したのだろう。【Nu7】の中で今でも鎮座している彼女らには、グリーディも心底憤慨している。命令されることはないが、楔石を手にしたあの頃から、どうにも自らの意思を阻害されている気がしてならないのである。もっといえば、今この場所で待機していることすら、自らの意思ではないとはっきり自覚している。されどどうにもできない。まるでこの場所で待つことこそが、使命であり、最もやるべきことと躰が思っているようだった。
夜風がひと際大きく薙ぐ。
瞼を開く。
紅い化け物が、月光に照らされていた。
自然と口角が吊り上がる。
もう、どうでも良い。
恋染初姫の周囲は酷く歪んでいた。雑木林のなかでぽっかりと存在していた平地に、彼がいた。姿を現しても尚、不遜に口許を吊り上げるだけで、何も言わない。
「きみも思っているんだろうけれど」だから彼女は先に口を開いた。「これはぼくたちの意思でもなければ、楔石ってゆーモノの意思でもないよ」
「……だろうな」絢爛豪華な椅子へ座したまま顔色を変えず返答した。
「もっといえば、英雄たちの意思でもないし、悪意のせいでもない」
「――――」
「これはどうしようもない、世界の法則みたいなものさ……だからごめんね」
彼が瞬きのために一瞬瞼を下ろした瞬間には、全てを終わらせる一撃を振るった。
衝撃の波が深閑としていた自然のなかで、不自然なほど大きく波紋した。
紅い化け物が放った一撃は、寸前のところで停止をしていた。誰よりも驚いていたのは少女だった。誰にも止められるはずがないはずなのにと、そんな気持ちが表情の中で翳る。それだけで彼にとっては充分だった。充分すぎるほど十全だった。最早身長による優劣は存在しないはずであった。少女――否、彼女と表現すべき恋染は、その小さな矮躯を大きく変化させており、観様によれば急激な成長ともとれるほどであった、彼は平均的な北米の身長はあるものの、今や彼女を見上げる形となっている。即ち頭の天辺からつま先までの長さが百八九十センチメートルはあるであろう、比例して腕や脚の長さも変貌しており、今や彼よりも恋染のほうが肉弾戦に於ける有効射程距離を制している。現状最も強く放てる一撃を、停止させられたこと、眉間に深く刻まれた皺が、彼女の胸中を表していた。鼻先まで数センチメートルといった距離まで伸ばされた拳を、邪悪という感情を浮かばせながら、彼はポケットへ手を入れつつ、軽く口づけをした。
「
「――あまりにも理不尽じゃあないかな……ずるだよう!」気付けば彼女の軸足となっていた左足は徐々に力を籠めていくほど地面へ沈下していた、腰の位置を変えながら持てる全力を以てして力を入れるも、空虚に終わってしまう。対してグリーディは悠然とした態度を変えず、普段通りを表すようにゆったりと椅子から立ち上がる。突き出された拳は目標であった場所が移動することによって、標的を失う、目視できない空間が、ふっと、なくなった。解き放たれる一撃が周囲の空気を炸裂させた。衝撃を一身に請け負った椅子がひと欠片たりとも残ることなく粉砕される。勢い殺し切れない彼女は、緊張が張り詰める空間に相応しくない声音を上げながら、十数メートルもの距離を、坂道に転がる樽のような勢いで転がった。自らよりも遥かに年上な大木を背中で圧死させた。上下逆様な恰好のまま、彼女は呆気に取られた表情を見せる。恥ずかしげもなく開かれた両脚をそのままに、恋染は小さく息を吐く、大きな掌が地面をひと撫でした。周囲の塵を巻き込んだ回転を生み出した。中空でほんの一秒ほど赤い塊となって廻る彼女だが、衝撃を緩和した大木を足蹴にした。その一撃が原因だろう。根元から引き抜かれるようにして吹き飛んだ。比例するように彼女は空中を廻りながら新たに目標を定めた黄金へと跳んだ。飛来する赤い塊を一瞥することなく、グリーディは明後日の方角へと向かって歩を進める。彼が移動先と定めたのは、西室が向かった方角だった。恋染初姫がこの場で能力を解放しているということは、必然、西室さいかの身柄は安全ではないということに他ならない。命すら生み出すことができる、《
「
恋染は凛々と輝かせたまま小さく、子供が玩具を見つけたときのような、確かに、はっきりとした口調で、ふうん、と言った。急激な禍力の上昇が、目に見える形となって彼女を覆った。奇しくもそれは、彼と同じように、楔石と同じ色で、炎のようでさえあった。
肌がひりつくような、揺れ動く針葉樹の木の葉が一枚、又一枚と夜風ではない圧力によって風に舞う。木々の悲痛な叫び声が聞こえるようだった。柚乃下は肌が粟立っていることに気が付かない。産毛の全てが逆立つような、一層酸素が濃いのか、重力がかかっているのか、まるで鬱蒼と生い茂る林の向こう側に、誰も見たことのない宇宙が存在しているかのような、重く苦しい圧力を感じた。西室さいかは《
突然緊張の糸が切れた。鳴り響く頭蓋内の警鐘が凪となる。額に大粒の汗を浮かばせた彼は、未だ疼痛収まらぬ頭部を押さえながら、震える腕を支えに膝を立てた。汗が背中の布を湿らせ、不快な思いを口に出すことなく裾から空気を入れてやる。
「――――…………」記憶という貯蔵庫には、今まで柚乃下本人に類する記憶しか保管されていないはずだった。至極当然である、彼は彼以外の記憶を持ち得ぬ凡人なのだから。だが、実際はどうだろう。綺羅星が落ちるような速度で見せられた景色の数々は、今まで彼が目にしたことのない景色そのものであった。咽喉を鳴らしながら不安入り混じるものを嚥下した。「…………俺は、誰だ」
誰にともなく呟いたひと言は、やはりというべきか、老若男女が粉砕機にかけられたような声色の誰かによって掻き消された。
――――なんで、あなたは生きているの。どうして私たちじゃないの。なにゆえ、われらではないのか。
「――――…………黙れ、黙れ、死ね」
犬歯を剥き出しに呟く彼の姿を、いったい誰が常人だと思うのだろうか。彼は彼なりに非常人と呼ぶべき人種へと成り下がっていた。奇しくもそれは、紅い少女や黄金の青年――――果ては憧れの人物と同じ土俵だった。一線を画した人間というものは、人間味が溢れる故に孤立し、孤高し、孤独となる。そういう意味では、柚乃下潤もまた、蒼く深く汚らしい、欲の塊だった。
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