027

 西室の尽力や禍力という蓄積量、地頭のことを考えれば、この度入手し数刻前に手渡した絆石は彼女にとって、分相応であることは彼にもわかっていた。敵対ともいえるほど組織力もなく、相対するには力不足だったあの場所には、ただ世界中から蒐集された絆石が文字通り五万とあった。途方もない石のなかから目当てのものを捜索することに、力を遣うことは吝かではなかったが、手渡したときの表情を思い出すに、対価に見合ったものだったのだろうとグリーディは生涯誰にも見せることのない満足感を得ていた。であれば、あまりにも時間が経過しているとさえ思える。玉座を拵えひじ掛けに不遜さながら寄りかかる彼は、じっくりと堪能するように、瞼を閉じ、西室の作戦失敗を悟っていた。元来、絆石を幾個所持していようが、類稀なる希少鉱石である楔石たったひとつといえど、立ち向かえるほどの戦力ではないのは畜生にもわかる道理であった。いわば彼女の役目は、恋染初姫及び、どこか気に食わない少年の消耗にあった。前者は己ひとりで判断できる脳味噌を母体の子宮へ置いてきてしまっている阿呆と、後者に至っては暴走状態から持ち直すほどの適合率は辛うじて潜在する程度の存在。彼にしてみれば、些細な存在であった。

 だが、と胸中吐露する。

 恋染初姫の持つ《オーバースペック》の能力そのものに対して情報が余りにも少なすぎている。歴代所有者の情報を【Nu7】から堂々と悪びれることなく奪い、頁を捲りながら染み込んでいた洋墨を読解しても、どうにも要領を得ない内容しか記されていなかった。何もそれは《オーバースペック》に限った話ではなかった。少年が手にした《思想訫惢カジュアルスーツ》にしても同様であり、もっといえば自らが保有する《一言ワンワールド》に関しても同一であった。どうやら三人の英雄たちは楔石の情報をあえて開示していないように思える。ではいったい何のために彼らは楔石というものを蒐集し、あまつさえ世界を巻き込まんばかりの戦争すら引き起こそうとしているのだろう。確かに思えばグリーディにしてみても、然したる目的があり、それに準ずるようにして蒐集しようと決意したことなどないに等しかった。初めて楔石を手にし、鼓動を感じ、を想起させたとき、本能が刺激されたかのような、どうにもならない感情が濃く渦巻いたことを彼は覚えている。慈愛のような光に照らされた玉座は蟲の一匹すら寄り付けることなく、ただただ考えに耽る彼を祝福するように、存在していた。

 果たして三人の英雄と名高る人物たちは、何をするために、楔石というものを開発したのだろう。【Nu7】の中で今でも鎮座している彼女らには、グリーディも心底憤慨している。命令されることはないが、楔石を手にしたあの頃から、どうにも自らの意思を阻害されている気がしてならないのである。もっといえば、すら、自らの意思ではないとはっきり自覚している。されどどうにもできない。まるでこの場所でことこそが、使命であり、最もやるべきことと躰が思っているようだった。

 夜風がひと際大きく薙ぐ。

 瞼を開く。

 紅い化け物が、月光に照らされていた。

 自然と口角が吊り上がる。

 もう、どうでも良い。獅子オレ獅子オレのしたいようにしよう。



 恋染初姫の周囲は酷く歪んでいた。雑木林のなかでぽっかりと存在していた平地に、彼がいた。姿を現しても尚、不遜に口許を吊り上げるだけで、何も言わない。

「きみも思っているんだろうけれど」だから彼女は先に口を開いた。「はぼくたちの意思でもなければ、楔石ってゆーモノの意思でもないよ」

「……だろうな」絢爛豪華な椅子へ座したまま顔色を変えず返答した。

「もっといえば、英雄たちの意思でもないし、悪意のせいでもない」

「――――」

はどうしようもない、世界の法則みたいなものさ……だからごめんね」

 彼が瞬きのために一瞬瞼を下ろした瞬間には、全てを終わらせる一撃を振るった。

 衝撃の波が深閑としていた自然のなかで、不自然なほど大きく波紋した。

 紅い化け物が放った一撃は、寸前のところで停止をしていた。誰よりも驚いていたのは少女だった。はずなのにと、そんな気持ちが表情の中で翳る。それだけで彼にとっては充分だった。充分すぎるほど十全だった。最早身長による優劣は存在しないはずであった。少女――否、彼女と表現すべき恋染は、その小さな矮躯を大きく変化させており、観様によれば急激な成長ともとれるほどであった、彼は平均的な北米の身長はあるものの、今や彼女を見上げる形となっている。即ち頭の天辺からつま先までの長さが百八九十センチメートルはあるであろう、比例して腕や脚の長さも変貌しており、今や彼よりも恋染のほうが肉弾戦に於ける有効射程距離を制している。最も強く放てる一撃を、停止させられたこと、眉間に深く刻まれた皺が、彼女の胸中を表していた。鼻先まで数センチメートルといった距離まで伸ばされた拳を、邪悪という感情を浮かばせながら、彼はポケットへ手を入れつつ、軽く口づけをした。

獅子オレが何の策も講じずに仔兎オマエのような人外の前に立つかよォ、改めて宣言する――――仔兎オマエが発生させる現象は獅子オレには通用しない」

「――あまりにも理不尽じゃあないかな……ずるだよう!」気付けば彼女の軸足となっていた左足は徐々に力を籠めていくほど地面へ沈下していた、腰の位置を変えながら持てる全力を以てして力を入れるも、空虚に終わってしまう。対してグリーディは悠然とした態度を変えず、普段通りを表すようにゆったりと椅子から立ち上がる。突き出された拳は目標であった場所が移動することによって、標的を失う、目視できない空間が、ふっと、なくなった。解き放たれる一撃が周囲の空気を炸裂させた。衝撃を一身に請け負った椅子がひと欠片たりとも残ることなく粉砕される。勢い殺し切れない彼女は、緊張が張り詰める空間に相応しくない声音を上げながら、十数メートルもの距離を、坂道に転がる樽のような勢いで転がった。自らよりも遥かに年上な大木を背中で圧死させた。上下逆様な恰好のまま、彼女は呆気に取られた表情を見せる。恥ずかしげもなく開かれた両脚をそのままに、恋染は小さく息を吐く、大きな掌が地面をひと撫でした。周囲の塵を巻き込んだ回転を生み出した。中空でほんの一秒ほど赤い塊となって廻る彼女だが、衝撃を緩和した大木を足蹴にした。その一撃が原因だろう。根元から引き抜かれるようにして吹き飛んだ。比例するように彼女は空中を廻りながら新たに目標を定めた黄金へと跳んだ。飛来する赤い塊を一瞥することなく、グリーディは明後日の方角へと向かって歩を進める。彼が移動先と定めたのは、西室が向かった方角だった。恋染初姫がこの場で能力を解放しているということは、必然、西室さいかの身柄は安全ではないということに他ならない。命すら生み出すことができる、《一言ワンワールド》にとって、或いはショッテンパード=グリーディにとって、西室さいかという女性はどちらかといえば必要な存在であり、だが反面、彼女以上に能力値の高い側近などいくらでも存在する。能力値では測れない何かを感じているのだろう。それは長年ハラスメントと呼ぶべき待遇を受けていた彼女の表情にあるものなのかもしれなかった。禍力の層を躰に纏わせている結果として、恋染が放っている足蹴や拳打の数々が現在進行形で自動的に弾き、反撃し、対応できている。水晶体に映る景色は未だに夜半の森林だけであった。一歩進むごとに恋染からの攻撃が、一層強まっているのを彼は密かに感じ、そして苛立ちすら覚えていた。頭蓋の中で小さな石礫が反響するような痛みを連想し、それが焦燥感からくるものだと認識した頃には躰を反転させていた。空中でこちらへと拳足の攻撃を繰り出している人外と目が合った。彼は、びきりと額に浮かぶ血管を感じながら軽く腕を振るった。きゃあ、と可愛らしい声を上げて彼女が吹っ飛び、瞬きの瞬間には決意の炎を灯しながら、同様の動きを見せた。

仔兎オマエは阿呆なのだな」足首を乱暴に掴んだ。ぴたりと彼女の躰は停止する。そのまま腕を真上へ振るった。「であれば、先に仔兎オマエから叩き潰すとしよう」恋染は自らの視界内に映る全ての景色が、線となることを知った。咄嗟に頭を庇うことすらできなかった。夢から覚めた感覚に近かった。後頭部が水気を含まぬ地面へ激突。それだけならまだしもなんと彼女は無機物の塊である大地へ亀裂を走らせ、その中心点へ深く段々の火山の噴火口のような跡を発生させた。頭蓋骨内の桃淡い肉塊が宛らピンポン玉のように内々を右へ左へ、上へ下へと揺さぶられた。視界いっぱいに広がる満点の夜空にはいくつもの星屑たちが右へ左へ、上へ下へと縦横無尽に駆け回っていた。それが自分が生み出す脳震盪による結果ということを知るには、些か彼女の脳味噌は若かった。滞空していた蠅が掌で叩き落されたような、長い手足を右へ左へ、上へ下へと彷徨わせながら、恋染の焦点は未だ合わずにいた。水を失った鯉の如く酸素を求めて悶える恋染を、彼は躊躇なく革靴の底で踏み抜いた。腹の底に響く音が響く。紅い長髪が地面を舐め尽くしているなか、ひと筋の液体が後頭部を中心に四方へ流れ出した。脳味噌がでっぷり詰まった頭は、悶える最中に地面と接触してはいなかった。距離にして約八センチメートルから十センチメートルほどの隙間があった。ある武術のなかではストンピングと呼ばれる技に相当するものであったが、海外出身の彼、ましてや躰を鍛えるなどという考えも持ち合わせていないグリーディという傲慢極まりない人物に、そのような名前があったとは到底知る由もない。結果として繰り出されたストンピング――足で踏みつける――というものは、幼児から街で乱痴気騒ぎをする粗暴者が意図せず使っている技であった。仕組みは単純明快であり、要は片足を大きく持ち上げ、思い切り踏み下ろす、いわばこれだけの挙措だった。だが彼が意図してか知らずかはさておいて、このストンピングと呼ばれるものは、仮に仰向けの誰かの顔面を踏み抜くことが目的とあれば、今回のように誰かの後頭部が地面と接触していないほうが、効果的である。浮いた状態から衝撃を加えることと、接地している状態から衝撃を加えることでは、天と地ほどの威力差が生まれる。今回の場合は正しくその通りであった。元々恋染初姫対策で明言していた「恋染初姫が生み出す事象の否定」ということは、逆説的に解釈をすれば「恋染初姫を殺せるだけの事象の肯定」ということになる。即ち、現状のグリーディという存在そのものが彼女――恋染初姫にとっての弱点であり、恋染初姫にとってみればグリーディこそが唯一の強者であるということに他ならない。ゴム製品である靴底を確認するように緩慢な動きで持ち上げた。端正に整っていた年相応ともいえない顔立ちの彼女は、大きく瞼を開いていた。彼は咄嗟に眉を顰めた。あくまでも予想でしかないが、もしかするとこの少女、ストンピングをされたのにも関わらず、瞼を閉じていなかったのではないか。その証拠に煌々と輝く紅い瞳には、小指の先ほどの砂が確かに付着していた。生物的な反射としての涙が生み出されていない。彼がこの世に生を受け、楔石を強奪してから早十余年、無意識に半歩退がったのは初めてのことだった。

 恋染は凛々と輝かせたまま小さく、子供が玩具を見つけたときのような、確かに、はっきりとした口調で、ふうん、と言った。急激な禍力の上昇が、目に見える形となって彼女を覆った。奇しくもそれは、彼と同じように、楔石と同じ色で、炎のようでさえあった。



 肌がひりつくような、揺れ動く針葉樹の木の葉が一枚、又一枚と夜風ではない圧力によって風に舞う。木々の悲痛な叫び声が聞こえるようだった。柚乃下は肌が粟立っていることに気が付かない。産毛の全てが逆立つような、一層酸素が濃いのか、重力がかかっているのか、まるで鬱蒼と生い茂る林の向こう側に、誰も見たことのない宇宙が存在しているかのような、重く苦しい圧力を感じた。西室さいかは《思想訫惢カジュアルスーツ》の能力を使用し、へ捕縛、又は拘束してある。指を鋼鉄へと換装させ、阿鼻叫喚と泣き喚く大の大人を縛るのには、流石の恋染も躊躇していた。何重にもかけて縛り上げた彼女を、グリーディへの一手として遣えると判断していた。猿轡をすることには抵抗感のあった彼だったが、鋼鉄製の縄を切り離す際に、そんな気持ちはどこかへと消え去った。躰の一部を切り離すときには勇気のようなものがこれほど必要だとは、自切を知らない人間にしてみれば、極々当たり前の決意を新たに、廃屋とも納屋とも言い切れない場所から飛び出した恋染を追っていた最中の出来事だった。躰の奥底から、無数の腕が伸びてきていた。胸中必死になって押さえつける彼だったが、はどうやら、肌さえ塵になってしまうようなエネルギーに対して、どこか郷土を思い浮かべているらしかった。力いっぱいに左胸を押さえつけ、一歩、又一歩と勝手に動く脚へ、行くなと命令を下す。には拘わってはいけないと、感情ではなく、本能が告げている。塩の結晶が、大きくひと纏まりになって、顎を伝って地面へ吸い込まれた。もう少しが落ち着くまで、ここでいよう、そう、彼が決めたときだった。禍力の余波ともいえる波状的な衝撃が、眼前の細枝の木々を薙ぎ倒し地面へ根を張った脚が、地面と固い約束をしていた二本の末端を僅かだけ裏切らせた。浮く、浮遊する、ということは、元来人間には備わっていない揚力であった。日常的ではない現象に、人は必ず似たような対応をしてしまう。彼にしてもそうだった。つい先ほどといってもいいくらいの時間に楔石を手に入れ、拳大ほどの鉱石を心臓のあたりへと埋め込まれている、とはいっても、彼の思考回路は常人と同じであった。即ち――吃驚したのである。しかも間の悪いことに凝り固まった生唾を嚥下しようかという瞬間であった。無数の腕が、彼の脳内を支配した。揚力の力は左程問題ではなかった。体勢を崩し今や地面へ臀部を打ち付けた彼は、頭を抱えた。悩みなどではなく、脳内で硝子玉が弾け飛んでいるような、頭蓋骨の内側を対角線上に跳ね回るような、得も言われぬ激痛を僅かながらの無駄な努力と知っても尚、頭を抱え、目を思い切り閉じ、歯を喰いしばることで辛さをそっと忍ぼうとした。雑多な光景が記憶という映写機に晒された。見たことのない、海外のようであり、天上天下に入り混じる交差点には多種多様な人物たちがへ視点を合わせながら移動をしていた。これほどまでに自分は大声を出せたのか、とどこか客観視している彼が見下ろしていた。開いた口が無数の腕によって塞がれてしまう。慌てて伸び行く腕を押し込んだ。無理に外界へと顕現する子供の腕には、見事歯形を残してやる意気込みであった。両手を使って半ば無理やりに口を閉じた。行き交う人物たち。目まぐるしく変化する交差点。新緑生い茂る丘には真白いキャンパスが立っていた。上下が逆様になっている夜店。狐の面たちが彼を覗き見ている。どこからともなく、かちりかちりと硬い物同士がぶつかる音がした。妙に心地の良い、けれども頭に響く音だった。捥げそうなほど頭を振るう。一度二度三度と振るう度に数多もの光景が無数の線となって、どこかへと消えてゆく、こちらを見上げる狐の面、多種多様な造形の人たち、はいったいどういう存在なのか、虚ろな瞳は何を意味するのか、彼には不明瞭だった。

 突然緊張の糸が切れた。鳴り響く頭蓋内の警鐘が凪となる。額に大粒の汗を浮かばせた彼は、未だ疼痛収まらぬ頭部を押さえながら、震える腕を支えに膝を立てた。汗が背中の布を湿らせ、不快な思いを口に出すことなく裾から空気を入れてやる。

「――――…………」記憶という貯蔵庫には、今まで柚乃下本人に類する記憶しか保管されていないはずだった。至極当然である、彼は彼以外の記憶を持ち得ぬ凡人なのだから。だが、実際はどうだろう。綺羅星が落ちるような速度で景色の数々は、今まで彼が目にしたことのない景色そのものであった。咽喉を鳴らしながら不安入り混じるものを嚥下した。「…………俺は、誰だ」

 誰にともなく呟いたひと言は、やはりというべきか、老若男女が粉砕機にかけられたような声色のによって掻き消された。

 ――――なんで、あなたは生きているの。どうして私たちじゃないの。なにゆえ、われらではないのか。

「――――…………黙れ、黙れ、死ね」

 犬歯を剥き出しに呟く彼の姿を、いったい誰が常人だと思うのだろうか。彼は彼なりに非常人と呼ぶべき人種へといた。奇しくもそれは、紅い少女や黄金の青年――――果ては憧れの人物と同じ土俵だった。一線を画した人間というものは、人間味が溢れる故に孤立し、孤高し、孤独となる。そういう意味では、柚乃下潤もまた、蒼く深く汚らしい、欲の塊だった。


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