026

「ほら、いいから、ほら」

「いやあ! 乱暴はやめてくださいぃ……そんな恥ずかしいこと……」

「こっちはまだすっきりできてねえんだよ、いいから早くしろ」

「ああッ! 乱暴な……あッ」

 恋染は眼前で行われている茶番劇を、月時雨零れ出した外界を半分視界に入れることで、なんとか処理していた。文字面だけでは如何にも暴漢の如き有様の協力者は、にべもなく嬉々として黒髪を切り揃えた西室へ催促していた。黒髪の女性はこの場の雰囲気に負けているところもあるだろうが、どちらかというとその表情には恍惚とした人間の闇のようなものが垣間見えていた。普段どのような暮らしをしていれば先ほどまで殺し、憎み合っていた相手に軽い冗談を投げかけられるのか、若干十三歳の少女には判別できかねた。年端もいかない恋染には目の前で行われている阿呆な光景の真意を汲み取れるだけの気配りはなく、柚乃下の友人であった釜罪いちごの消失に大きく加担していた存在として、彼から声をかけられるまでは、こうして膝を抱え、納屋の端で丸くなっているほうが喜ばしいとさえ思っていた。【Nu7】から西城を探すために飛び出て約六年。途中【Nu7】の動向を探るべく内部へ侵入することに成功し、抜け出したとはいえ幼少期の貴重な年月は少女を独り立ちさせるのには充分すぎるほどだった。奇しくもそれは、西城が少女へ唯一願ったものだった。

「あンッ、お赦しをォ……出ちゃいますぅ」

「もっと、もっと出せよ、いいから早く出せるモンぶちまけろ、すっきりするぞ」

「ああッ、ご無体な……ああッ」

 そういえば、今頃西城はどのようにしているのだろうかと恋染はふと思った。これまでは恩人である姉と位置付ける彼女の存在が少女のなかで大半を占めていた。離れていても空は繋がっていると信じて、昨日まで顔も確認できぬまま生存を信じていた。だけれど少女は落胆した。数年振りに会った英雄的存在は、獰猛な牙の全てを自ら抜き去っており、猛禽類を彷彿とさせる目つきすら、どこか穏やかで生温いものへと変貌していた。変貌。この言葉が妙にしっくりとパズルのピースのようにはまった。そして同時に考えを改めた。当初の目的では、西城へ楔石を手渡し、楔石が持つ唯一の法則を、彼女の特異性を以てして突破し、二人三脚で英雄へ成ろうとしていたのだが、どうにも現段階の彼女を見ても、そして身内という観点から大甘に見積もったとしても、彼女は既に恋染の相棒となりうる存在ではなかった。出会った頃の西城であれば、一も二もなくこちらから頭を垂れて付き従うと宣誓できたものを、今では怪物という影すらもない人物に平伏すほど、恋染のなかにいる楔石は甘くはなかった。真っ白になるまで強く瞑っていた瞼を開き、土塗れの膝頭へ頬を乗せる。一か八かで捻り出した柚乃下潤というイレギュラーを遣うという方法。それ自体は上手くいったのだが、出てきた化け物を見て、少女は少し考えを変えていた。彼とは楔石を共に蒐集できないと彼女のなかにいる化け物がそう告げていたのだ。言葉には言い合わらせられないが、彼女自身も強く感じていたことであった。だけれど、と恋染はどこか希望を見出していた。昨日の彼と楔石を取り込んでからの彼とではが違い、が足りていないからこそ、充分に利用できるのではないのか。

「もっと出せ、湯水の如く! はっはっは」

「やああッ! 出ちゃいますッ、ああッ」

 恋染は納屋の中で行われている茶番にどことなく言葉にできない苛立ちを感じ、手元で転がっていた小石を指先で弾いた。彼女の力を以てすれば軽く投擲しただけの小石も、立派な武器となる。くるりくるりと回転しながら飛来した物体を、柚乃下は回避しそうともしなかった。水溜まりに足を踏み入れた如く彼の喉元を小石が貫き、なんとか擦れ擦れ建っている納屋の主柱に深く食い込んだ。彼は喉元通った違和感を曖昧にしたまま指先で不思議な感覚の箇所を掻いた。

「どうしたんだ、恋染。焼餅か」泡立ちながら修復されてゆく肉体を射抜くように見定めた。どうやら彼の能力というものは、ないものをあるものにするというよりは、あるものを広げ質量を増やすということに重きを置いているらしかった。証左にできうるものが現状目の前で静かに発生している現象だった。見る見る内に貫通していた咽喉が、まるでパン生地を練り上げるように塞がっていた。無意識で行っているのかすら不明瞭であった。彼は特段声を荒げる野暮なことはせず、充分に慈しみを含めた何故だか妙な視線を彼女に投げかけていた。鼻でひとつ嗤い飛ばした彼は言う。「お前もまだまだ子供だねえ、大丈夫だよ恋染。こいつは遊びの女だ、本命じゃあねえ」

「え……私とは遊びだったのですか……こんなにも弄んでおいて……」

 躰の彼方此方を黒ぼったい無機質な光を反射させながら、よよよと如何にも雰囲気を醸し出しながらも綺麗な雫を目尻に溢れさせた。指先の全てが多種多様な物へと変化していた。頬を伝う涙を指先で拭う彼女からは、複雑機構な代物同士が擦れる音が鳴っていた。わざとらしい仕草を披露する西室を見下ろし、先ほどまでの茶番劇はどこへやら、酷く冷めた眼をしていた。西室の指先に至るまで飛び出ている近代武器の数々を、彼は只管ひたすらに喰らってゆく。液状化した両腕が端々から取り込んでいた。西室も彼の意図を察してか、又は何かしらの盟約をさせられているのか、取り込む次から次へと生み出していた。

「……別に焼餅を焼くほどぼくはきみのことをなんとも思っていないもん。勝手にしたらいいんだよ、ぼくには関係がないもんね」

「……面倒くさいな、まあいいや」地面へ腰を下ろしてさめざめとしている西室へ、彼は手を差し伸べた。現状様々な武器を生み出し続けている西室だったが、ン、と伸ばされたものを一瞥すると、頬を伝う涙を土汚れが付着しているスーツの裾でぐいっと拭い、躊躇なく掴んだ。腕を引っ張られた彼女は、重心の不安定さに揺蕩いながらも立ち上がった。彼は自らに引き寄せた彼女の臀部や背中へ手を廻し、二三度叩く度に西洋拵えの衣類からはぱらぱらと土が舞った。素っ頓狂な言葉を無視して彼は膝を抱えて蹲っている恋染へ視線を移す。「ほら、準備は完了した。これでまともにあいつをぶっ斃せるぜ」口許を大きく歪めた彼の表情を、下から見上げているせいか、どこか邪悪に映っていた。恋染は出会ったばかりの柚乃下と重ね合わせた。どこか頼りのない、心が定まっていないような少年だったはずだ。右も左もわからないというよりは、物の価値がわかっていないような、善と悪でしか秤に乗せたことのない、そのような人物だったはずである。だからこそ恋染は柚乃下の味方になろうと行動した。余燼を能力すら解放する必要すらなく、纏った禍力で翻然としたのも全ては柚乃下に対して、どこか心の奥底から毛羽立つ感情を抑えきれなかったということが理由の最たるものだった。だけれど、と少女はつぶらに輝く紅い眼のまま続けた。。だからこそ、釜罪いちごの死因といっても差し支えのない自分をいるのだ。通常の思考回路ではそのようなことをするはずがない。。彼が陽炎のような足取りで近づいてくる。少女は心の奥に座している化け物へ対して感じているものと、よく似た感情が沸々と揺らめいていることを悟った。理由のない恐怖だった。内臓の全てが氷漬けにされた感じがした。柚乃下が歩く度、彼の足跡が土へ残った。この、硬くて、冷たい、納屋の、土に、足跡が残った。それがどういう意味なのか、自分が手渡した楔石の能力を鑑みるに、正しく自明の理であった。


 存分に拵えた腹を摩る。そういえばこの能力を遣うようになってから、躰付きがどこか変化した気さえしていた。陰影を強調させた腹筋を満更でない表情を浮かべ、上下に摩ることによって、特段努力したわけでもないのにもかかわらず手に入れた肉体美に、どことなく哀愁さえ感じていた。腹筋だけでなく、破れた上着から覗き見える背中や足にも隆々とはいかぬまでも、はっきりとした筋肉が現れていた。宛ら西洋の彫刻のようであった。彼自身肉体美というものに於いて左程興味がない人間ではあるが、毛先ほどの関心がないといえば嘘となる。西城と暮らしていたなかで、叢に隠れる鼠の如く黙って雑誌を購入しては夜な夜なひとりで実践していたものである。案の定長続きはしなかったが、それでも筋肉という魅了に一時は憑りつかれていたことも事実であった。脳内で想像したルネサンス期の有名な芸術家が掘り起こした彫像には、大小老若男女入り混じった感動の眼差しが向けられていた。だが、彼も立派なおのこである。物自体が一軒家ほどの大きさを持つ彫像であっても、確かな場所が彼には酷く影を落とすように見えていた。あえて想像の余地を与えぬ方向で脳内処理を進めた。

「お手伝いをしたんですけれどねえ」おずおずと西室が誰に言われるまでもなく、教室で自信なさげに挙手するように声を広げた。ン、と拾った声に耳を傾けた彼は、自信なさげな彼女の瞳を見た。目が合えば躱され、躱されれば見られる。随分と年上の女性に対して思うことではないが、彼はこういう大人が、こういう女性が酷く嫌いだった。何故だったのだろう。西室は二度ほど呼吸を落ち着かせた。「私はもう、帰ってもいいのですよね……?」

「帰ってもいいけれど、多分だけどあいつに処罰とかされると思うぞ。敵に塩を送ったわけだし」

 この言葉に対して反応が早かったのは、黄金の青年のことを言われたからなのか、それとも別の感情があったからなのかは定かではなかった。

「と、当然! 私はグリーディ様に忠誠と信頼をしておりまして、何故私があなたのような子供の手助けをしたかというと、手助けしなければこの稀有な私が殺される可能性も充分にありましたし、それでなくとも意気揚々と、意気YOYOと」「言い直すな鬱陶しい」「……意気揚々と息巻いてきたのですけれど思いの他手に負えないと判断したためであって……あ、いやいや逆らっているわけじゃありませんよう、手を変形させないでくださいやめてくださ――あいた、いたいた。痛い痛いぐりぐりしないで痛い!」

「充分に戦力を整えたし、恋染の能力をもなんとなくだが把握した、さて、あいつをぶっ殺しに行こうか」

「だめだよ潤、殺すなんてしちゃだめだよ」

「そうか? あいつのこと許せねえんだよ、ぽっかりとムカつくんだ」

「――――でもだめだよう、そういうのは、だめ」恋染はその身に深く沈潜した思いを押し殺すような声音で、年上の彼を諭すように、ゆっくりと、けれどもはっきりとした口調のまま、目を合わせて制止する。「潤はそういうことを考えちゃだめだよう、ふつーにいままで通り、生きていればいいんだよう」

 だって、と続けた彼女の瞳には、気のせいか彼方まで焼き尽くすような炎が潜んでいたようにも思えた。

「潤は、じゃん。田舎のこーこーせーで、ぼくなんかとは違って家族がいて、好きなひと? っていうのもいたんでしょ」立ち上がり少女は一歩だけ柚乃下へ近づいた。

「――は、何の話だよ……っていうか年下のお前に言われることなんかこれっぽっちもねえよ」

「いいのいいの、全然いいんだよう。だからぼくが勝手に、潤を、守ってあげる」

 恋染初姫は宣言する。小さな双丘が微かに膨らんだのを、つい見てしまった柚乃下は、卑屈に心が軋むのを知った。明確な理由なんてものは彼にとっては委細興味のないものだった。けれども躰の中なのか、頭の中なのかにあるとても抽象的な器官が、そっと蓋をするように、それ以上無意味な思考を拒んでいることだけは理解していた。恐らく、きっと、彼の大切でかけがえのなく、抜き差しならない霧中のなかにいるような感情の正体を、生涯知る由はないのだろう。

「喜んだときも、怒ったときも、悲しんでいるときも、楽しんでいるときも、叫びたいときも、探しているときも、歩くときも、走るときも、掃除しているときも、料理しているときも、育てているときも、勉強しているときも、病めるときも、健やかなるときも」

 。背後で微かに感じた衣擦りの音が、どこか遠くに聞こえた。蛇に睨まれた蛙のような体勢で、柚乃下は停止する。片時でも視線を外してしまえば気がしたから。そっと指先に感じた温もりとは相反する彼の大切な器官。事実として、彼の体温は常人とは違い、ほとんど生命活動を行えていない。躰の彼方此方が欠損による修復を重ねたためである。グリーディとの小競り合いによって、生み出され、修復した躰の大部分を、彼は半ば無理やり、質量を大幅に誤魔化しているだけであった。彼は神でもなければ、怪物でもなく、無論化け物でもないのだから。あくまでも人類の基準点である人物の模倣……それも初めから造られた存在ではなく、後付けの設定で生み出されただけにすぎない。あくまでも彼は人間だった。人間、だった。今でも、きっと、人間である。夏という無生物であり現象でしかない存在の余波が、三人が共に隠れ潜んでいる納屋のなかにも現れたように感じた。汗を流せない人間となった柚乃下にも、毛羽立つような毛細血管の動きはわかった。眼前で彼を見上げる少女は、にっこりと微笑むだけだった。できるだけ音を出さないよう忍び足に努めていた西室は、たまらず小さく引き攣るような声を上げていた。彼は握り締められた小さな掌を、力いっぱいに握り返した。

「だったら、さっさとケリつけに行こうぜ……そのほうがいい、うん、いい」

「――――潤はあまり出てこないでね、ぼくが能力を解放しちゃったら、たぶん、潤は死んじゃうから」

「足手まといになるつもりはねえよ、如何せんこの躰だ、充分に有効活用してやる」

 ふうん、と少女はどこか上機嫌に、紅い毛並みの猫のように、するりと彼の横を過ぎ去った。「ひいっ」と強く後退した足音を納屋へ響かせた西室は、目の前まで接近した自らの鳩尾のあたりまでしかない恋染に、一本、指を立てられた。

「あなたはここから出たらだめだよう」

 本能による恐怖が西室を襲っていた。たじろぎながら了承の意を示す。

「本当だよ。本当の本当にだよう」

 何度も首を縦に振った。

 にっこりと口角を上げた恋染は、嘘ついたらだめだよう、と言った。

 念押しするときと何ら変わりのない口調だったのにも関わらず、西室は泡を吹いて斃れた。それもそのはず、柚乃下も密かに膝へと力を籠めていた。

 それほどまでに、紅い少女が放出した禍力の質が異次元であり、又、膨大な量だった。

 納屋の入り口から生温い夏風が這入ってきた。

 紅い少女の矮躯が、徐々に変貌を見せた。

オーバースペック》の真価が、片田舎の寂れた納屋のなかで発揮された。

 変化が起こったのはまずその美しい紅い髪だった。見る見るうちに毛先が踵を超えてしまい、比例するように少女の矮躯が大きくなる、手足も相応に伸び、腕や脚には無数の血管と赤い蒸気が噴き出していた。恐らくは彼女のなかに張り巡らされている毛細血管が、急激な成長についていけず、肥大化する筋肉と皮膚に引っ張られる形で次から次へと切れているのだろう。禍力という濃く重いエネルギーが全身から流れる血液を蒸発させ、柚乃下からは少女が赤い蒸気を発しているように見えているのだ。

「――――さあ、潤」

 紅い少女は姿を変え、背中越しに彼を見下ろした。

 生暖かい風のなかにぞくりとする冷たさを感じた彼は、傍らに斃れ気絶している西室を少し羨んだ。身長にしてみればざっと二メートルはある少女、しなやかとは違った四肢。硬く握られていた拳が解き放たれ、今では彼を呼ぶように、上へ下へと繰り返し動いていた。

 妙に引っかかる生唾を下し、彼は引き寄せられた。

 横に立つと一層少女が大きく見える。先刻までとは違い、今では彼のほうが身長の点でいえば小さくなっていた。

「ぼくがきみに力を貸すから、きみはぼくにえいゆーをちょうだい」

 にっこりと微笑んだ少女の瞳は、どこか禍々しく、力に満ち足りていた。


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