023

 頬に冷たい液体がかかった。それまで私は何故このような場所に立っているのか、些か不明瞭な状態にあった。水音がするほうへ視線を投げかけると、いつの間にか手に取っていたお椀のなかに、色彩様々な金魚が元気よく彼方此方へ目を廻しながら鎮座していた。やけに左側が見えないのだなと思い、手を触れてみる。指先には抵抗感のない滑らかな表面をした面のようなものが当たった。彼方此方、梟のように首を廻し、目的のものを見つけると、躊躇なく足を運んだ。さなかに肩を誰かとぶつけた気がしたが、振り向くも誰ひとりいなかった。条件反射で首を傾げた私だったが、ぽつりと暗闇に浮かぶ水面を覘き込んだ。身に覚えのない表情がかちりと固まった狐の面が、顔の半分を覆っていた。取り外そうと藻掻くもびくともしない。もしや私は今で気付かなかっただけで、生まれた瞬間からこのような皮膚をしていたのだろうか。瞼をひとつ落とす。途端に劈くような轟音が腹の底に響いた。どうやら雷のようらしい。上も下もわからないような暗転した世界に立っているのだが、このような場所にも平等に空は広がっているらしい。音のする方へ顔を向けると、真っ暗としか形容できないような空間に凄まじい範囲の稲光が、一度ならず二度までも、更には三度四度と嘶いていた。確か私は雷が怖かったように思える。今や面影すら想起できない父なる人物に、折檻と称され、牢のような場所へ閉じ込められたことを彷彿とさせた。あの牢は酷かったと今になっても強く思う。屋根はなく、雷様の怒号が激しく降り注いでいた。横から吹き付ける風に躰を凍えさせながら、雨の冷たさがやけに現実味を帯びていた。もしやこの場所はあの世というものなのだろうか。雷様が騒ぐたび、一瞬であるが光明を得ることができ、私が目視で確認できたものは、白黒映画のように明暗ちかちかと繰り広げられる空間に、ひとつやけに目立つ櫓があった。

 空で雷様が轆轤でも回しているのだろうか、そう思うほど異物感を磨り潰すような音がひときわ多く聞こえ、ぱっと空間が明るくなった。

 思わず私は呻いてしまった。先ほどとは違い、周囲の景色が白く消し飛ばされた世界へ投げ飛ばされたのだろうか。強烈すぎる輝きは、私にとって、否、人間にとっては恐怖でしかない。腕を交差させ、できるだけ白となった空間から目を逸らすも、まっこと無駄であった。

「よお、あんたも迷子かい」透き通るような少年の声がふと、聞こえた。咄嗟に声をかけられてしまい、思うように音が出せない。うう、と詰まるような音が咽喉からつっかえつっかえに飛び出る。少年は、大丈夫か、と前置きすると、私の後ろへと廻り、二度三度と軽く背中を叩いてくれた。いやはやすまない。ただ声が出ないだけなのだ。何度かつっかえを取り除くために咳払いをするが、一向に咽喉の調子が良くならない。目覚める前に何か呑み込んでしまったのだろうか。ありえない。私は拾い食いをしたことがないことをヒマラヤ山脈の高さから飛び降りることも視野に入れた覚悟を以て断言できる。少年は小さく嗤った。とても屈託のない、邪気のない声だった。「あんた、話せないのか。そういう病気か?」余程教養がないのだろうと咳き込みながら思った。そういうことは思っていても言わないのが人間の美徳である。「うるせえな、美徳だか何だかしらないよ、どうだっていいや」なあ、と少年は言った。「あんた出口を知らないかい」

 出口? やっと絞り出せた声は、私の声ではなかった。口許を押さえていた掌を見ると、見飽きたほど見下ろしたと形容すべき形ではなかった。え、と口から出た言葉は、先ほどよりも若く、若々しかった。

「こう、あんたに言っても仕方ねえんだろうけれど、俺は今すぐにでも行かなきゃいけないところがあるんだ……あるはず、なんだよ」少年は遠く離れた場所を見つめていた。薄目でははっきりとした感想は抱けないが、どことなく目をしていると、そのとき思った。どこからか大勢の子供が小さな小石を投げ入れる、そんな音が小さく聞こえた。交差した腕との隙間から、音が鳴っている方へ視線を向ける。白く眩い世界。その遥か地平線まで届かんばかりの白のなかに、ぽつんと黒い染みが確かに存在していた。成程、妙に得心した。腕さえ自由であれば柏手ひとつ打っていたところだ。遠く遠く離れた場所の音は、次第に大きくなるにつれて、黒の染みが徐々にだが凄まじい速さで大きくなっていった。「――あれが出口か」少年はひと言呟くと、脱兎の如き速度を伴って駆け出した。失礼な話にはなるが、彼の必死な形相を見た瞬間に、朧気ながら私が想起したものは小さい頃、真白い布団の上に飲み物を零したあと、駆け寄ってくる母親の面影にそっくりだったのだ。気後れした。彼の形相にではなく、に対してだった。きゅうっと心臓が小さくなってしまったような懐かしさに浸っていたことで、少年を見失ってしまった。視界が慣れた、そう思いながら最後に目を思い切り瞑り、開く。私は失明をしてしまったのかと思った。先ほどまで真白い空間だったこの場所が、またしても真っ暗な空間へと早着替えしていたのだ。え、と落とした私の声は、やはり私の知っている声ではなかった。若い頃の声というわけでもなく、老若男女の人間が、同じ動作で同じ声を発しているような、声が重なっているかのような音だった。遠くで鳴っていた音の正体に気付いたのは、声の違和感について考えようとしたときだった。ぽたりと。雷様が自然現象にたたき起こされたのか、やたらと怒号を発していた。顎先や足の裏へ当たる雫は、どうやら雨のようらしい。どこか索漠とした思いで私は目を閉じた。疾風怒濤のように駆けていった少年は、いったいどこへ消えてしまったのだろう。小糠雨のような雫は、既に数えきれないほどの物量を以てして、下から上へと上っていった。ふと、どことなく懐かしい匂いを感じた。記憶の中の女性は微笑みすら浮かべ、私へひとつの石っころを手渡した。綺麗なものをありがとう、そう言った気がする。女性は不敵に笑い、煙のように去って行った。彼女はいったい誰なのだろう。私はいったいいつから、ここにいる。思い出せない。

「思い出させてあげない」

 少年のような少女のような、中年のような老年のような。男のような女のような。

 幾重にも重なった声音でそう言われた。

 何故だか私は無性に安心した。



 白の世界から黒の世界へ這入った少年は、後ろから前へ生暖かいようなひやりと冷たいような風を受けながら走った。雨と形容すべき雫たちが奇妙なことに、下から上へと上っていった。何故だか言葉にできないような焦燥感に包まれながら、少年はまるで逃げるように出口を探してまるで暁闇のような中を走っている。無限に湧き出る焦燥感を恐怖という人間が持つ根源的な感情で押さえつけるといった愚行まで犯している。素足の裏を雨は執拗に叩き、足の裏に感じる地面のようなところは滑りこそしないが、決して身を委ねるほど確かなものでもなかった。しっかりを開いている目に映る景色は暁闇に包まれていたが、ぴしゃりと水面を叩く音によって、色彩が起きた。水面を叩く音というものは、少年が発している音であった。見れば素朴な椅子が一脚、地平線の彼方まで浸っている水面のうえにあった。太陽はどこにも見えないのに、空は青く澄み渡っており、雲ひとつ見えやしない。正に快晴という他ないような青空の許、どこか索漠とした色を見せる椅子へ吸い込まれそうな気がした。知らず内に少年は不思議な魔力に惹かれ、無様にも理性ではなく本能で街頭に近づき頭をぶつける蛾のように、一歩、また一歩と揺蕩う挙措をしていた。あと数歩も進めば手に届く距離まで接近した少年だが、そこで、おや、と思った。

 のである。

 伸ばしていた手は空虚に鎮座し、咽喉の奥から今にも出てきそうな呪詛を押し殺し、少年は時間が停止するのを感じた。暑くも寒くもない空間、どちらかと言われると水面がある分、涼し気ですらある。ぬめりと頬を伝う結晶が、顎先から水面へ引き寄せられた。ほんの小さな音だった。集中しなければ聞こえないような、けれども明確に鼓膜へ響くような、そんな音がひとつした。座して少年へ背を向けている少女は、遥か彼方の地平線から目を背けず、

「出口はあっちよう」

 少年は、言葉が、出なかった。

 きっとこれまでのどこかで聞いたことのある。つんとしていて、高慢で、けれども相手を想いやっているような、そんな、声、だった。

「あなたは急に寄り添う相手がいなくなっちゃって、こんなとこに迷い込んじゃっただけなのよ……」違うか、と栗色の髪の少女は一瞥すらすることなく続けた。「私がきっと迷い込んじゃったのね。本来なら交わることがないのだけれど」くすりと少女は笑った。少女は前を向いたまま、少年には見えないように、また逢えた奇跡に感謝する。言うまでもなく少女はその奇跡に感謝すらしない。ただただ高慢に、自意識過剰に、口許に笑みを浮かべるだけだった。少年は斜め後ろ方向から、少女の見ている方角へ矢印を投げかけた。「こっちにいらっしゃい、もう、怖くはないわよう」少女は腕を広げ、優しくゆっくりとした挙措で躰を覆った。虚空に少女の掌が上下される。ああ、頭を撫でているのか、と少年が思う。「ほら、帰りたいのでしょう」少女が嘯いた。慈愛に満ちた表情を浮かべ、こちらを見上げた少女は、やはりどこか懐かしい気がした。少年は喉の奥に詰まった言葉を、形にすることができない。かちりと表情を引き攣らせたまま、こうして眼を合わせることしかできないのだった。少女は再度、ほら、と上下させていた手を前へ戻した。物体の下部から扉が出現した。魔法のようだ、と少年が呟いた。少女はくすりと意地悪に微笑む。「私はね、あなたのためなら魔法が遣えるのよう」顕現された扉に引き寄せられる。少年は素朴な素材の取っ手に手をかけ、半回転させた。蝶番の音が無情にも声を上げ、その先は鮮やかな色彩に彩られていた。「まあ、ほとんどあなたの力を借りているのだけれど」振り返ると少女は椅子に座したまを抱きしめていた。「よく聞いてね」と前置きした少女。どことなく温かいのか冷たいのか、よくわかりかねる爽やかな風が、少年と少女、それともうひとりを薙いだ。栗色の髪の毛が、まるできめ細やかな絹のように靡いた。「あなたはこれから、私を忘れないと思うわ。私の初恋があなたであるように、きっとあなたの初恋も私なのでしょう。けれど、のことはあなたのせいじゃない――あなたは強い子よう。誰よりも強い。鋼のように、風のように」背中を押された気がした。少年は開かれた扉の中へ一歩踏み出した。想定したところに地面はなく、彼は頭の先から途方もない距離を真っ逆さまに落下する。開け放たれたままの扉を見ると、遥か遠く、まるで永遠にも似たような、そんな距離にさえ彼は思った。扉がゆっくりと、閉められる。先ほどまでいた空間とは違い、最早虹色とさえ形容すべきこの空間は、上下の向きはなく、左右の向きもなく、ただ頭上にぽっかりと開いた深淵へ落ちてゆくだけの場所だった。「また、会えるかな」少年はばたりと閉じられた遥か彼方の扉へ向けてひと言呟いた。返事のないままに、扉は下から霧の如く消えてゆく。きっと逢えるわ、とどこからともなく聞こえた。少年は返事をすることもなく、そのまま落下した。

 何故なにゆえ懐かしいと思ったのか、少年にはわからない。けれどきっとどこかで交わった気がする。匂い、挙措、口調、その全てが愛おしいとすら思える。

 ああ、そういうことか。

 少年は胸中弾けたひとつの想いを、じっくりと堪能するように咀嚼し、終ぞ言葉にしなかった。

 少年と少女の間に最早言葉は必要なかった。

 頭上に広がる深淵に、どぷりと頭から落ちた。

 目を開くと、支離滅裂な口調で泣き喚いている少女が真四角な無機物の前で、まるで祈りを捧げる聖女の如く、美しい表情で懇願していた。

 この物語は、きっと、彼のための物語ではないのだろう。

 奇跡は一度だけだ。二度目は、もうない。

 に蓋をし、彼は全ての能力を解除する。天高く膨れ上がった彼の肉体は、元の柚乃下潤を再構築し直し、血塗れの西城と、泣き崩れる恋染を無視してへと近づいた。

 呼応するように彼は椅子から立ち上がり、とても意地悪そうな口許を真横に引き裂いた。

はひと言呪詛のような言葉を吐き捨て、世界が変わった。

 途轍もなく、凄まじく、蕭条としており、誰も彼もがの力によって薙がれた。血塗れの黒色は肉塊のまま血液と共にどこかへ飛ばされ、哀れぺたんと座り込んでとは違った滔々とした謝罪の赤色は、周囲の暴風に気も留めず眼前から飛ばされた肉塊には目もくれず、粛々としくしくと泣いていた。に相対し、歯を剥き出しにして唯一立っている少年は、両脚の踵部を遥か大地へ突き立てるように形状変化させ、かえしをきっちり想像することにより、少なくとも飛ばされるといった心配はなさそうである。青竹のような体勢になってしまうほどの暴風は、その中心点に立つを不敵に、実際の大きさよりも遥かに巨大に見せた。少年の推測だが、垂れ流れる禍力の質が常人とは違い、異質なものへ変化しているのだろう。陽炎の如き垂れる禍力はの全体を揺らめく幽鬼のように見せていた。暴風は未だ勢力を増し続け、両脚の力だけでは踏ん張れなくなった。少年は背中から数本の鉄柱を創造し、つっかえ棒のようにして体勢を維持した。少年が腹に力を籠め、深い眉間を更に刻んだ瞬間、がひと言世界を変えた。緩やか穏やかになりつつある旋風、中心点に立つがこちらを見下している。動作としてはやはり何も変化はなかった。少年は先ほど躰全体に感じた衝撃の発信源を見下ろした。胸元の青い鉱石がある孔――――の十センチメートル下。臍と少し上に、違った孔が開いていた。実際に疵口を目視するまではなんとも感じられなかった少年だったが、視界の中に映り込み、痛みや衝撃を更に想像した刹那。がくりと膝から崩れ落ちた。

「なんともまあ。カマツミもそうだったが、愚民が王足る獅子オレに反逆できると思っていることこそが不敬だ。まったく愚かしいにもほどがあるよ仔兎オマエ。獅子は兎を追うのにも本気を出すとニホンの諺にはあるそうだが……獅子オレ仔兎オマエ程度殺すのに、全力を出すことはない」

黄金のは靡く鋭い髪を整えながら、今や躰を傾けさせ、重力という自然法則に従うしかない少年を見下し言った。

 残念ながら、極致の力を手に入れたのは、お前だけではないぞ。

 爆発的に質量を上げ、体内の禍力を一点に集中させながら、少年は今にも斃れそうな体勢のまま、目線だけをへと向けた。

「――――油断したろ」

 少年の開いた孔から無数の鉄柱が空中を蛇行しながら、その先を刃と成しへと群雄した。

 対してはくすりと口許を裂けた。

 世界が創り変わる。

 想像で世界を換える。

 極致とは正に、表裏一体の盾であった。

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