021
第一に動けたのは人類最高峰の西城だった。彼女は柚乃下潤から発せられている禍力が一段と大きくなった瞬間には跳躍していた。無論、逃げる、逃避するといった後退という行動ではなく、柚乃下潤を救うといった行動だった。第二に動いたのは帯電して思うように動けなかったグリーディだった。彼は小さく「回復」と呟くや否や椅子を蹴飛ばし立ち上がるのと同時に反転した。眼前で驚異的ともいえる柚乃下潤を目視すると、続けて「無効」と《
周囲を喰らい尽くさんばかりの禍力の奔流が、一同の総てを呑み込んだ。
柚乃下潤から放出される禍力の渦が、ぴきりぴきりと音を軋ませた。
「――――」彼は思い切り歯を食い縛ると、自在に操作できない禍力を頭の中で様々な形へと変化させた。
それは彼の開いた孔から容赦なく放物線を描くように止め処なく溢れる水盆の如く現れた夥しいほどの
「無効にできなかったでしょ!」呆気に取られたグリーディを見据えて、未だに滞空状態にある恋染は邪気なく嗤う。「きみは対象を取るタイプの人間でしょ! だったらこうして潤の間に挟まれば、きみの能力はぼくに作用される」
反応が数瞬遅れた、とグリーディは刹那に思う。彼へにっこり微笑む恋染の表情が妙に腹立たしい。だが、と彼は続けて思う。――一度は退避だ。あの少年の後ろへ廻る。グリーディは恋染越しに見える彼から無数に出現している鈍色の刃を《
「瞬間い――」どう、と発する前に、首へと衝撃が走った。言葉にできない。《
直径にして約三センチメートルの礫を小手先の力だけで投げた西城は、地面に顔面を沈ませながら憤怒の嵐に見舞わられていた。顔面を地面に押し付けられ、生物としての反応として涙が少しばかり頬を濡らし、勢い良く見上げた場所には攻撃を放たんと紫電撒き散らす柚乃下潤とそれを迎撃するグリーディ、更にその一手を読んで恋染が彼らの間へと滑り込んでいた。一瞬の状況判断を下した結果、西城は転がっている小石のひとつを正確に、だができる限り思い切り、グリーディの咽喉を潰すために投げた。
必然、目標の首許へ深く沈み込んだ小石に注意を払ったグリーディと一瞬視線が交錯した。一瞬だけであった。次の瞬間には柚乃下潤から生まれ出た幾億という鈍い光を放つ無機物が、怒涛の如くグリーディと恋染を共に呑み込んだ。
――――姫っちは何考えてやがるのか不明瞭だし、あいつはあとでボコすとして。今は……。
瞬時に立ち上がり、虚ろな目をする柚乃下潤へ飛び込んだ。それは抱擁としての飛び込みであり、決して危害を加えようとしたものではなかった。長年付き合っているものであれば彼女の表情を一瞥するだけで真意を汲み取れるはず。腕を精一杯伸ばしながら大きく名前を呼ぶ。
「――れよ」ぽつりと柚乃下潤が呟いた。西城の手が届くまで、あと少し。指先から肩の根本まで引き裂かれた。脳が痛みを感知する。咄嗟に西城は《
「――――ああん。てめえ潤、あたしになにを――」
「……そんな目で俺を見るなよ西城さん。……俺はただ――――」
あなたの総てが妬ましいだけなんだ。
彼は孔から伸びる無数の刃を切断した。蜥蜴が尻尾を切るみたく、いわゆる自切のような落ち方だった。躰から引き離された物体は、本体から切除されたとしても自然消滅しないということを、西城は密かに認識した。彼女もまた、彼が唆され手にした力を
脳裏に過る細やか乍らの違和感。その正体を模索するよりほんの少しだけ早く、彼は初めてこちらへと視線を零した。
西城には《
「あなたは中途半端な奴じゃ斃せない」だから、と柚乃下潤は操作した。人体にとって毒薬となる水銀の塊が、歪な動きを繰り返し、やがてひとつの形へとまとまった。「ごめんな西城さん……俺はもう、アイツを許すことができねえんだ。だから、ごめん」色を変化させることはできないのだろう、形取られた物体は、依然変わらないまま色を帯びていたが形成した人物が誰なのか、西城には一目瞭然だった。
「――――はん」《
銀色の西城が、本物に対し挑発気味に中指を立てた。「全裸じゃなくって、服くらい着させてやれよ、まあ全裸はあたしも同じか」まず彼女が起こした行動は《
「――――」意表を衝かれた、と認識したときには既に西城の肉体は彼女の中へ包まれていた。拳同士が激突する瞬間、彼女の拳が大きく裂け、西城の躰を包み込んだのであった。――しまった。全身の表面が酷く気持ちが悪い感覚に覆われる。《
――――厄介だ、下手すりゃ詰むぞ。
眼前が暗闇に支配されたまま、西城は思案する。厄介だと思うのも無理もない話であった。水銀という流動的物体に包み込まれたということは酸素供給ができないということに他ならないからである。人間はいったいどれほど呼吸をせずにいられるのか。世界記録保持者である人間の最長時間は約六分。西城の限界分数は――
――――十分ってところか。
目を閉じ意識を奥底へと沈下させる。禍力を最大力で放出するのは、今ではない。
冷たくこちらを見た柚乃下潤を思い出す。あれは、見たことのない色だった。不安でもなければ憤怒でもなく、もっと妬ましい、羨望とは逆の感情だった。
「――ごめんな、あとで思い切り殴られるから、今は許してくれ」柚乃下潤の左腕は肩の部分から先が消失していた。痛みはない。動かそうと認識すれば、もぞりもぞりと蠢くものは数十メートル先でひとつの塊となっている水銀だけだ。水銀塊の操作は今や彼が行使するものとなっている。その気になれば中で閉じ込めている人物を圧殺することだって可能であろう。ただ、彼が望むことは、殺害ではなく戦闘不能であった。故に少しばかり呼吸をできないようにする必要がある。恐らくだが、彼の知っている西城もがみという人物は、最終局面になれば全力を以てして禍力を放出するはずだ。余波で水銀を吹き飛ばすことが彼女の目的だろう。今彼女がそれをしないのは、なんてことはない相手が柚乃下潤だからだろう。この期に及んでも長年衣食住や苦楽を共にした間柄。相思相愛ではなく阿吽の呼吸とでもいうべきか。柚乃下潤がしたいことを、西城は察知し、西城がしたいことを、柚乃下潤は察知する。
眼球のみを動かして、眼前で微動だにしない鉄塊を見下ろす。質量にして約五トンは下らない刃の塊。中には飛び出してきた恋染と、憤怒の表情でいたグリーディを閉じ込めてある。それは別に良いことだ、と柚乃下潤は思った。やけに重たい躰を引き摺りながら、彼はとある地点を目指して歩き出す。その場所は特に見知ったところではなく、特段感慨深い場所でもなかった。むしろ森林の奥になんて長年住んでいた柚乃下潤であっても、早々足を運ぶ処ではなかった。周囲のものに目もくれず、柚乃下潤は黙って斃れている少女を見下ろす。
腹部の皮膚は外側から喰い破られており、押さえもしないものだから絶えず血液が静かにだが流れていた。彼女を囲うようにして出血の水溜まりが存在している。人間とはこれほどの出血量に至ったとしても死なないものなのか、と彼はどことなく冷静過ぎる頭で考えた。膝を折りだらりと躰の横へ放り出されているか細い腕を手に取る。手首の脈拍を数える。いつも触れ合っていたからこそ彼には理解できる。体温の低下が著しく進んでいる。欠けた掌をそっと握り込み、「――――いちご、なあ」声をかけた。どことなくだが、今までの声とは違う気がした。どこか無機物的で、どこか無機質的だと、頭の片隅で彼が言った。外的損傷のせいも大きく、身に着けていた衣類が破れ、きめ細かな柔肌が紅色よりも黒い液体を零しながら、空を仰ぎ見ていた。柚乃下潤が声を何度かかけるものの、釜罪いちごは一切の反応を示さない。冷静な目で見れば、釜罪いちごを助けるのには時間が足りない。腹部には穴が無数に開いており、五指は欠損し、頬や胸といった柔肌も大きく損傷している。加えて彼女が一番気にかけていた箇所が、なかった。
――――栗色の吊り目があった場所は閉じられた瞼越しに大きく窪んでいた。流線的な膨らみが存在しないということは――――。
「……お前……。…………目は、目はどうしたんだよ……」柚乃下潤は、胸中潜む影の動きを無視した。そっと、と落とせば壊れてしまうような恐怖感に苛まれながら、彼は釜罪の背中へと腕を回し、抱き抱える。力なく首が動き、僅かに感じる鼓動が徐々に去ってゆく気がした。おい、と柚乃下潤は声をかけ続ける。一向に反応が返ってこない。つまりそれは――――――。
背後の鉄塊が凄まじい轟音を立てながら内部から破壊された。
現れた紅の化け物と、黄金の獅子が互いに傷だらけの恰好で睨み合っていた。ふたりの禍力が衝突し合い、両者の間で電撃が走る。
潤、と声をかけたのは中学生のような矮躯の赤色だった。「そんなのどうだっていいから、まずはこいつを斃そう!」
そんなのはどうだっていい?
ふざけるな。
彼が心の中でそう呟いた瞬間だった。
予期せぬ禍力の放出が、孔を中心に爆ぜた。右腕一本で支えていた釜罪が、形状変化した柚乃下潤の右腕に喰われる。
「――――あ」
小さく零れた言葉は、どこか憐憫を含んでいて、いったいどこの誰が零した言葉だったのか、発動してしまった《
一切合切躊躇なく、《
彼女の意思は、もう、どこにもない。
別れの言葉すら伝えられなかった。柚乃下潤――――柚乃下潤の中に眠る、嘗て《
誰も彼も、彼方から此方まで。彼岸から此岸まで。
あなたと私は違う。
ふふふ。ふふ。
あなたも此方へおいで。おいでよう。皆待ってるよう。
生きていてずるい。死なないなんて理不尽だ。あなたは私と同じ。同じなのに、違う。羨ましい。あなたの躰がほしい。全てほしい。ほしい。この世の総てが妬ましい。なんで! なんであなたは! ずるい!
もう、みんなみんな食べちゃおう。ひとつになろうよう。
柚乃下潤の孔に潜む禊石から幾重にも紫電が迸った。泣いているような、啼いているような。そんな色を辺りへと放出した。
《
禊石保有者を止めるということは、心臓の位置にある禊石を剥奪することに他ならない。
うふふ、と少女のような少年のような中年のような老年のような。どこの誰だかわからない嗤い声が、柚乃下の躰が形を失い暴虐する刹那、一同の耳へと響いた。
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