019

 暗く真っ逆さまに落ちてゆく。しっかりと目を開いているなのにどうしても暗闇が晴れない。腕を伸ばしているの彼は指先や躰のどこにも障害物が当たらない状況を濃く恐怖していた。声を上げたくとも発声できているはずなのに、声にならず只ひと頻りの無音が鼓膜に強く響いた。いったいどれほどの距離を落ちていったのだろうか。気付けば彼は地面に立っていた。逆様になっているように頭が重い。蹌踉と暗闇を歩いて、ここはどこだとひとりで吠えた。やがて上下左右すらわからなくなった。転んだと思えば次の瞬間には重力が適応し、足先と頭へ均等に重力が振り分けられた。歩いているのに歩いていない。走っているのに走っていない。叫んでいるのに叫んでいない。だが意識だけははっきりとしている。自分がいったい誰なのか、どこへ行くのかといったことはわからない。きっと今、自分はそれを探しているのだと思うことにした。そして歩いていると忘れた。だからまた思いついたように繰り返す。時間間隔などなく、距離感覚もなく、平衡感覚もなく、きっとルールもない。不思議な暗闇だった。

 ぼぼぼぼう、と無数にもある提灯が、妖しく火を燈した。提灯はどこまでも続いている。きっと見える限りではなく、見えなくなっている向こう側にも、この提灯は続いており、きっと終わりはないのだろう。彼は遥か向こう側へ羨望の眼差しを向けた。自分は目を開いていたのだと漸く気付けた。街頭に集まる蛾のような足取りで確かに感じる温かな光へ向かう。向かってゆく最中にふわりと甘い匂いが彼を覆った。妙に脛のあたりにむず痒い感触がした。ちらりと足元へ目をやるとかちりと表情固めた狐面がこちらを覘き上げていた。大勢の人が小石を投げたような音が、どこからともなく聞こえた。それが遥か後方から聞こえてくる雨音だと気付けたのは、足元で擦り寄って来ていた狐面の少年たちが、高い声を上げながら「雨だ雨だ」と騒いで提灯がある方向へと走って行ったからだ。ふと気づけば数珠のように連なる燈火の上には一律屋根らしきものが敷かれていた。甘い匂いが濃く、腹をすかせた者たちを扇動する。蹌踉としていた彼は、いつの間にやらごった返しとなっていた着物の集団に合わせるような歩調となり、ずんずん地平線の向こう側へと誘われた。寧ろ自分の足が暗闇についておらず、歩くことすらままならない。見れば着物の集団は皆が皆、狐面で顔を覆っていた。かちりと固まった表情は喜怒哀楽のどれにも属さず、彼らは一様に前だけを見て、確かな足取りで進んで行った。彼は脇腹から鎖骨にかけて、ぞくりとした寒気を覚えた。珍妙極まる集団に誘拐されよう者ならば、末代までの恥、彼は無様に藻掻く様を、まるで誰かに見せつけるよう大仰に、振る舞った。声は相変わらず咽喉の奥に逃げ込んだままだった。老若男女の集団からやっとの思いで抜け出した彼は、ひとつ屋根の下と表現するには些か滑稽なところへ躰を落ち着かせた。自分という存在がなにかは相変わらず思い出せず、かといって集団のなかに入るには狐面をしていないことが何故だか無性に恥ずかしくなってくる。立ち並ぶ屋台には凡そ主人と呼べそうな人物が立っておらず、本来であればひとりしかたつことができないような屋台であってさえも、酷く伽藍堂がらんどうに見えた。ひとりでにくるくる回るたこ焼きや、ぺたぺた表裏はっきりさせない焼き物など、屋台の種類は多種多様なまでに多くあった。奇怪ともいえる現象を目の当たりにした彼は、発声できない音で、よし、と言ったつもりになった。相も変わらず目の前を大河が流れゆく様の如し人込みが、今となっては無性に寂しく思えた。狐面の下には表情があるのだろうか。彼は思う。仮面というものは内面を外部へ曝け出せないものが必要としている確固たる物質である。さすれば流れゆく人込みの老若男女には見せるべき本心というものを、きっと誰ひとり、家族にだって見せてはいないのだろう。しばらく水面を見続ける心境で空っぽの瞳を向けていたが、やがて意を決し飛び込むことにした。流れゆく者たちの頭上、今いる屋台の前にある小屋には、大きくでかでかと「きつねお安くしております」と書いていたためだった。この波に乗るためには、どうしてか狐面が必要と彼は思ったのである。掻き分ける人体のなかには、どこかで嗅いだことのある匂いを持つ人物もいた。悪戦苦闘としている途中だったため、その人物の後ろ姿しか見えなかったが、どうやらその相手は女性らしかった。着流した着物から伸びる細く骨ばった手には、透明な袋の世界に閉ざされた二匹の黒赤の金魚がくるくると回っていた。あ、と声にならぬ声を出した彼だったが、後ろ髪引かれる想いを断ち切り、先ほど見た屋台前へと躍り出た。小指の先ほどの大きさしかない狐面をかちりとつけたひとが、演舞を思わせる挙措を繰り返しながら、平坦な口調を繰り返した。

 ――――某が商うはきつね専門店。きつね専門店也。

 声は決して鼓膜からではなく、直接脳へと響いたような気がした。小指の先ほどの小人は、どこからともなく取り出した、自らと大きさ相違ない狐面をぽつりぽつりと出してゆく。これが欲しい、ひとつ欲しい、と言いたいが、生憎声はやっぱり出ない。咽喉を抑えて喋れない様子を見せつけるが、見せたい相手がくるりくるりと舞っていた。

 ――――某が商うはきつね専門店。きつね専門店也。

 繰り返し聞こえる語勢は留まることを知らず。意思疎通のできない彼にしてみれば、只の雑音にしかならなかった。意気阻喪としながらも彼は繰り返される小人の言葉を切り捨てた。ここではない。彼が探している狐面は、きっとここにはない。ふらりと人込み掻き分けて辿り着いた屋台を後にした。だがそうは言っても眼前流れる人込みに戻る気は毛頭なく、はてさて如何されたと言わんばかりに立ち止まる。彼は雑踏を無視して、並び立つ屋台の前をひとつひとつと虱潰しをしようと考えた。香ばしい匂いにつられ立ち止まるもない袖は振れず、ぽつりぽつりと肩を落として歩いて行く。やがて祭囃子が聞こえた。顔を上げるとどこまでも続いていた道なりが大きく開けていた。屋台はぐるりと円を構え、中心点には屹立と豪華絢爛なやぐらが聳え立っていた。離れた場所から見上げる彼の目にも、天高くどこまでも続く櫓の頂を拝むことは叶わなかった。祭囃子が心地良く心身ともに沁みているのが分かった。櫓を中心に音頭を披露する狐面たちは、皆合わせたようにびしりと列を組みながら、一歩一歩と櫓を回る。幻想的なほど酔いしれる空間だったことに違いはない。彼はあまりにも異様な光景を受けることができなかった。ゆったり一歩踏み締めながら移動する彼らの列を乱すように、彼は一歩一歩と後退してゆく。狐面のひとたちにこつん、どん、と肩をぶつけようが、彼は気にできる状態ではないし、又、狐面のひとたちも気にせず機械的に音頭を再生している。蹌踉しながら彼は脹脛ふくらはぎの裏に冷たく硬いものが当たり、動きを止めた。見下ろすと店主のおらぬ金魚たちが狭い狭い世界のなかを悠々自適に泳ぎ回っていた。大小彩り見比べ難い魚は、世界の大きさというものを水槽のなかだけだと信じて回遊していた。紅葉色の一匹は水槽の壁に頭をこつんとぶつけ、気が触れたように転回し世界の中心へと戻る。黒曜色の一匹は同じような場所を、目印道標を定めるように行ったり来たりと反芻する。なかには異形のつらをひけらかすように鎮座する一匹や、見たことのない群青色の一匹もいた。彼は水槽の中身を上から覗き見た。この世界を不平等だと思う奴もいなければ、この世界以外の景色を信じて疑わない奴らも多くいる。彼は咽喉に唾を詰まらせるような音を鳴らした。提灯の笑顔を受けてやや赤面している水面は、ちゃぷんちゃぷんと均衡を映しているかのような動きをしていた。あ、と思わず声が。金魚掬いの水面には窪んだ眼窩のなかに硝子玉を携えた人物が水面からこちらを覘き込んでいた。

 はて、いったい誰であろう。

 波紋と共に毎秒輪郭が移り行くは黄色い歯を薄く見せながら、大小彩り様々な彼らと供にを見下ろしていた。祭囃子のなかから涼し気な音色が混ざっているのに気付いた。音の正体を探すと目に入ったのは大小彩り様々な風鈴だった。それらは夜店からやぐらへ向かって、四方八方伸びている色彩鮮やかな紐に垂れていた。微風すら吹いていないのにもかかわらず、一度気が付いてしまえば常に音が落ちているような気がした。夜の底が明るい夜店で思案する彼だったが、ぴちゃりと聞こえた水面へ再度視線を注いだ。の姿見が変貌していた。もしかすると揺れ動く水面から反射される橙色の光が、をそう見せたのかもしれない。此方が覘けば彼方も覘く。此方が右手を伸ばせば、彼方も手を伸ばしてくる。

 ――――某は商うは色彩魚掬い。色彩魚掬い也。

 姿は見えぬが声は聞こえた。呼応するように優雅に泳ぐ金魚はどことなくこちらを見ている気がした。眼窩から硝子玉が零れ、引っ張られるようにして水面へと沈む。彼は初めて今映像として捉えている光景が、眼球からの視覚情報を元にしているのではないと知った。あるはずもない落とした側の眼窩が酷く痛んだ。を見下ろす。向こう側にいる人物は破顔する。見れば硝子玉がの目に収まっており、徐々にだが確実に色彩を取り戻しつつあった。

 伸ばされた手で手首を掴まれる。一瞬彼はその氷のような冷たさを伴うの温度に驚いたが、気付けば水中引き摺り込まれていた。橙色の光が見上げた先で揺らめいている。大小彩り様々な金魚たちは様子も相も変わらず自由に泳ぎ回っていた。引っ張られる方向を見る。掴んでいる手はいつの間にか温かく優しく包むような力加減でそっと手首を握っていた。ほっと息を吐いた瞬間の出来事だった。

 小さなまとまりをもって吐き出された吐息は、ごぽりと水中を上がってはいかず、引っ張られ落ちる彼の胸元へ零れ落ちた。落ちた先はちょうど心臓と同じ場所だった。生命とも無生命ともいえぬ熱量が、刹那的な速度を以て生まれた。そうか、と彼は思った。命を生むというものは、酷く幻想的で、淡く理想的なものなのかと。握られていた手が離れた。

「――――あ」今度はきちんと声が出た。そうか、俺は、こういう、声、だったな。枯れた大地に雫が落ちてゆく。空っぽの中身が、膨大な書物が彼の頭へ流れ込んだ。一面闇が遥か彼方まで広がっていた場所ではなくなった。鼓動を始めた胸の音色が強く強くなってゆくにつれて、彼の躰を中心に、世界が鮮やかな青へと色付いてゆく。どこかで子供が笑う声が聞こえた。何故だか知らないが、彼にとって、その人物は味方であると感じた。彼は、そっと足先に固いものが当たったのを確認する。それが水面だと認識した彼は、恐る恐るではなく確かな意思を以て、水面へと降り立った。無数の波紋がどこまでも広がってゆく。此方から世界へ響き渡った波紋は、まるで音色のように美しい円を描いていた。かたりと音が鳴る。地平線の彼方まで広がる水面には、平凡な椅子が置かれていた。空はどこまでも青く、水面は空と溶け合うようにして青かった。椅子がかたりと倒れる。近づき起こした。

 ――――後戻りはできなくなる。

 本能的に、この声は先ほどの笑い声の主と同一であると感じた。彼は首を振って応えた。子供のような大人のような、女のような男のような、植物のような動物のような。

 有機物のような――――無機物のような。

 そんな笑い声が聞こえた。

 彼は一度小さく微笑みを零し、ゆっくりと自らの選択をした。

 そして彼は飛び起きる。躰中を巡る激痛も、胸にぽっかり空いた孔も気にすることなく立ち上がった。瞼はしっかりと閉じたまま、胸に宿る鉱石を感じ取った。遣い方は椅子に腰かけた瞬間に本能で理解していた。

「《思想訫惢カジュアルスーツ》」

 月影零れる深閑とした森のなかでを中心に電閃が流れた。発生源はぽっかり向こう側が見えてしまうほど風通しのよくなった孔で浮かぶだった。群青というには薄く、青というには深い、そんな色だった。鳥獣も草木も、流れ出るすみれを彷彿とさせる紫電に優しく慈しむようにひと撫でされれば皆が心奪われ、鳥獣は斃れ、草木は橙色を灯した。濃く、深く、この場に彼以外の人間がいたとするならば、息苦しさに卒倒すらしていただろう。躰中から無条件に流れ出る禍力の奔流は様々な生命あるものに対し平等に、あるいは不条理に与えられた。蕭条しょうじょうと瞼を開けば見える世界が変わっていた。

 彼は――――誰だ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る