017

 したたかに、それでいて気丈に栗色の彼女は立ち上がり、よたよたと覚束おぼつかない足取りだけを確かに少年の姿を思い描いていた。意識を手放せば今すぐにでも斃れてしまう肢体を構わず駆動させる。荒い息を繰り返す。口内に不快感を取り残したまま、幸いというべきか、大きな外傷と呼ばれる傷はない。釜罪は凄まじい速度のなかであっても絶えず禍力を肉体へと纏わせることによって衝撃を減少させることに成功していた。それでも擦り傷が如実に柔肌へと刻まれていたが、僥倖というより他ない。彼女は何よりも彼のことを心配していた。激痛のなか目覚めた彼女が確認したのは傷の有無ではなく、柚乃下潤という存在だった。これまでの歩んできたじんせいに必ずといっていいほど傍にいた人物。失うことなど到底考えられない。地面から少し顔を覗かせた木の根に足を取られ、がくりと本人に寄りかかる。ずるずるとそのまま腰を下ろした。

 ――――だめよ。休んでいる暇なんてないの。私がしっかりしないと。

 こんなにも走り回る日が来るのなら、もっと鍛えておけばよかったと文学少女はくすりと笑った。《私を見ろアイムデンジャラス》を発動し、顕現した眼球を掴んで立ち上がった。心配そうなまなこでこちらを覗き込む眼球をひと撫でする。残ったふたつの眼球と撫でている眼球へ命令を下す。三角形の陣形を組む物体の上へと腰かけた。禍力を注力し、森林のなかを滑るように移動を開始した。地面から一メートルほどの距離を水平に動く彼女は、吹き飛ばされた際に確認した柚乃下の方角へと急いだ。

 轟音が彼女の向かっている方角から聞こえた。一瞬身を竦む思いで肩を震わせたが、ぎゅっと拳を作り再度移動を開始する。時速にして八十キロ前後といった速度である。視界の端々へ月光を浴びた緑が線となり――――と。彼女が気を取られた瞬間の出来事であった。

 華奢な肩の関節部へ強い衝撃を受けた。勢いがある最中に起こった予測不能アクシデントに驚愕する間もなく、彼女は地面を転がった。呻く彼女にひとりの女性が声をかけた。嘲笑するような、侮蔑するような、そんな印象を持つ声音だった。「あなたの目玉って、そういう風にも遣えたんですね……知りませんでした。おかげで様であなたを探すハメになりましたよぅ」漆黒の闇よりぬるりと現れた人物は、普段なら綺麗に埃ひとつ付着してはいないであろうスーツを砂まみれに汚し、あまつさえ肩口が破れなかから白いシャツが見えていた。《私を見ろアイムデンジャラス》を発動し続けながら、釜罪は衝撃のあった肩を一瞥した。少しでも力を籠めると酷く痛む肩は、小さく赤い染みを浮かべていた。現れた女性は小さく震える掌にすっぽりと収まる拳銃を向けていた。成程撃たれたのかと納得する。「どこかの阿呆が来る前に間に合ってよかったです」西室はひとつ深呼吸をし、両手で持つ拳銃の震えを抑えた。重心が一本整っておらず、重さ一キロにも満たない小型拳銃でさえかたかたと震わしている。それだけで銃を扱うことが初めてだと容易に想像できた。西室はそのあと何度か深呼吸をした。「依頼者から報酬をもらわなくてはいけない身分ですので……任務達成率を下げるわけにもいきませんしぃ。あ。動かないでください。傷つけたくないですから、そんな責任を負うのは嫌です」釜罪は這いつくばる体勢を変えたく、顔を西室へ向けようと動いた。まず感じたのは右肩甲骨への衝撃、間髪入れず耳を劈くような発砲音だった。痛みが新たに発生し、今度こそ釜罪は地面へ倒れた。日常生活ではまず感じない拳銃という重圧に加え、吹き飛ばされた際に負った傷にプラスされ、たった今右肩を前後から撃たれた。死への恐怖が増幅する。元々釜罪という人間は重圧には強く、逆境には決して挫かない人間だった。そんな彼女が変わった原因が、嘗て所属していた狂った研究者が支配する施設だった。柚乃下と他愛のない会話をするときより心音が爆発的に上昇していた。尚もまだ鼓動音が速まっている。こめかみ辺りの血管がどくどくと脈打つのを感じた。「……淑女に対して発砲って、常識疑われるわよう」「ご心配なく大嫌いなにも開口一番に疑われたもので」続けて二度、西室は引き金を引いた。発射された銃弾はそこそこ肉付きが良いぷにぷにとした太腿裏へと残酷に命中した。「私の言うことが聞こえなかったのですかあ。抵抗しなければ撃たないって言っているのですよぅ」熱した鉄を当てられたような激痛が太腿から感じた。痛みによる肉体的な苦痛を彼女は唇を強く噛むことで制した。顔を上げたい、そう釜罪は思った。彼女の《アンロック》は対象者と視線を交わすことによってのみ条件を満たせる。視界内に見える黄土色の土などを見ても、何の効力も発揮しない。西室はかちゃりと銃口を向けたまま伏している釜罪へと近づいた。後頭部へほんのりと熱を持った鉄が宛がわれる。上昇する心音のせいで、まともな思考ができない。西室は言った。「あなたの能力は理解しているつもりですよ。《私を見ろアイムデンジャラス》を破壊すればあなたへフィードバックされることも、ふわふわと浮いている眼球を突貫させることもできると」ただし、と彼女は言った。「この状況下に於いてですが、どちらが速いですかねぇ。私は引き金を引くだけであなたを殺せます。あなたは禍力を操作しなければなりません。禍力量が尋常ではないあなたであっても、零距離から放たれる銃弾を無傷に抑えることはできないですよねぇ」見せつけるように勝利宣言するかのように、西室は強く後頭部へ銃口を押しやった。小さく嗤う女性に、釜罪は苛立ちよりも恐怖心が勝った。既に抵抗するつもりなど毛頭ない。引き金を引かれないように懇願することしかできない。さて、と女性は言うなり後退した。地面に伏している状態では音で判断するほかない釜罪だったが、二メートルほど離れた場所で彼女は立ち止まる。「《汚らわしいローリングゴーランド》」ひと言西室は呟き、ポケットから絆石をじゃらじゃらと取り出した。瞬間釜罪の肉体は何者かによって無理やり立ち上がらされる。掴まれたという感覚ではなく、まるで。

 ――――念動力の一種。

 足先が地面から少し浮いたまま、釜罪は空中で磔にされた。身動きひとつ取れない。指先から足先までを何かに包み込まれているかのような圧迫感を見せつけられる。しかも彼女にとって最悪なことに、真正面を向いたときには既に西室は薄手のサングラスをかけていた。《私を見ろアイムデンジャラス》を駆動させて奪ってやろうとも考えたが、使用されている能力のせいで禍力を注力してもびくともしない。彼女にはただ眼前で優位に立つ西室を睨むことしかできなかった。

「いやはや。怖いですねぇ……目玉、潰します?」西室は次の絆石へと禍力を注いだ。彼女の肩辺りに氷柱のような禍々しい切っ先が顕現した。西室はその穂先を撫でる。小型拳銃は役目を終えたのか、懐へと仕舞っていた。指先で触れると鋭さを相まって指先の皮膚が裂けた。半透明な氷柱に赤黒い血液が一本道を作った。釜罪は小さく首を振る。「言うことを聞いてくださるというのなら、これ以上の手荒なことはしませんよ」ただ、と西室は続けた。「歯向かったり抵抗するようなら、あの男の子を殺します」ひゅ、と息を呑んだ。これ以上はない早鐘を打つ心の臓が次々と血液を全身へ流し込んだ。

「――――さ、い」

「…………はい?」意地悪な口許を歪ませて、西室は分かり切ったことをきちんと発言させる。

「――――て、くださ、い」

「ラストチャンスね」

「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。やめてくださいやめてくださいやめてください!」大きく息を吸った。「私が殺されるのはいいの、だけれどジュンくんだけは見逃して!」「見逃して?」「見逃してください」間髪入れず懇願する。一瞬の躊躇すら感じさせない覚悟だった。西室は薄く笑みを浮かべたまま「仕方ないですねえ、泣きながら、鼻水垂らしてお願いされちゃったら、聞くしかないですよねえ。困った困った」引き金を更に二度引いた。左肩と左膝に二発の弾丸が肉を抉り出血を引き起こす。絶叫が無意識の内に発声された。静かな森に木霊するか細く高い声は、木の葉がざわざわと揺らめく音とともに消えていった。「うるっさい。もー、耳痛くなっちゃったじゃないですか。どうしてくれるんですかぁ」頭をとんとんと叩く西室は、涙を浮かべ絶叫しているはずの釜罪へ対し、既に能力を遣っていた。「――――」「あなたは本当に愚かですねえ、天才や神童の末路というものは得てして無様なものですよ」ちなみに、と西室は言った。掌に握りこまれている五つの絆石をあえて見せつけるようにして、尚も叫んでいるはずの釜罪へ視線を向けた。「弔い合戦っていう柄じゃないんですけれどねぇ。勝つために利用させていただいております」あえて、絶望感を与えるためだけに彼女は続けた。「《汚らわしいローリングゴーランド》は知っての通り念動力の一種です。人間ひとり程度しか拘束できない陳腐なものです」言いながら彼女は禍力を操作し、《汚らわしいローリングゴーランド》を行使する。小枝が折れたような音が、釜罪の綺麗な中指と人差し指から聞こえた。目を見開き絶叫を続けている。「ふたつ目は今も体験している通り、《動物的攻撃ノイズキャンセル》対象者が引き起こす音、声を完全に遮断しています、使い勝手は良くないですが、隠密向けの能力ですねぇ……下らない」そして、と禍力を操作した。直後に釜罪の四肢、両腕と両膝から先が消えた。激しい痛みが脳へと伝達される。断面には暗い闇が存在し、手足の感覚はなくなった。「これが結構面白い能力で、名前を《いってらっしゃいバイバイ》って言うんですよ。対象の肘、膝をどこかへ飛ばす能力らしいです。結構面白い能力ですよねぇ、試しにどこまで闇を進めるか試しますかぁ?」焼けるような痛みが断面から発生している。しかも痛みの境界線がじゅくじゅくと徐々にだが確実に肩や太腿へと上ってきている。必死に首を振り、発声できない声を上げ続けた。

 いったいどのくらい叫んだのだろう。磔にされている体勢が苦ではなくなってきていた。咽喉がれ果て、痛みがいつまでも消えないことにおかしくなりそうだった。途中何度か嘔吐をし、咽喉に流動物が詰まろうものなら《汚らわしいローリングゴーランド》によってスムーズな嘔吐を半ば無理やりさせられていた。朦朧とする。抵抗するつもりは初めから釜罪にはなかったが、それとは別の理由で、これ以上耐えられない。だが、舌を噛み切ろうとしても《汚らわしいローリングゴーランド》によって動きを強制停止させられてしまう。正に万死急すといったところだった。

 ふと前へ視線を移す。西室は自らが持つスマートフォンを、《汚らわしいローリングゴーランド》を器用に活用し、土の土台を完成させていた。不必要なほど禍々しく制作された見れば磔にされた釜罪の全身が映るような角度でスマートフォンを設置している。彼女は掠れた声で、なにを、と呟いた。西室は、ああ、とにこやかに嗤いながら答える。「依頼者様からのご希望でしてね。苦しんでいる様子が見たいんですって。ほんと気持ち悪いですよねー」彼女は指を振るった。緩んでいた拘束の念動力が強く釜罪の四肢を磔へと停止させる。手で作った長方形のなかへ被写体を映し込み、満足気に頷いた。軽い電子音が一度鳴ったあと、思わずステップを踏んでしまいたくなるような発信音が小さく聞こえた。スピーカー機能を使っているとはいえ、おおよそ二メートル離れている位置からでは音量が自然と小さく聞こえてしまう。それでなくとも釜罪の鼓膜は、精神的負荷と肉体的負荷の二重苦を帯びてしまっており、普段はしない耳鳴りが先ほどからやけにうるさく感じていた。何度目かのコール音が続き、真っ暗だった画面が切り替わる。

「おせえぞ! おまえらにいったいいくらつぎ込んだと思ってんだよ!」画面いっぱいに映り込んだのは、釜罪の感性からはありえないような趣味の悪い椅子へと座り込み、こちらの様子をより鮮明に確認したいのか、覗き込んでいた少年とも青年とも似つかわしくない男だった。画面の向こう側から乱暴な口調で捲し立てる姿が確認できる。

 ――――誰だったかしらあ。

 頭痛が酷く脳内の処理が追い付いていない。釜罪は念動力によって顎先をくいっと持ち上げられた。一切抵抗する気持ちはない彼女は、見えない力に従った。子供が新しいブリキ人形でも父親から買ってもらったかのような黄色い声が聞こえた。薄く開いた視界には、画面のなかで両手を叩いて、足もばたつかせている男がいた。もっとやれ、だの、痛めつけろ、だの。悍ましい言葉が聞こえる。ああ、と釜罪はようやく思い出せた。

 ――――役立たずのロクデナシか。何歳になったのかしらあ……十歳程度にしか見えないけれど。

 釜罪が過去に在籍していた【Nu7】の【第二十五棟禍力研究室】と呼ばれる機関の元室長、氷室恭二が老いたあと身籠らせたひとり息子、名を――――

 ――――氷室、幸太郎だったかしら。

「聞こえているか釜罪ィ! ざまあねえなあ! ひゃっはっは! いーっひっひ」歪んだ愛情を一身に受け、酷く顔面を歪ませているこの男こそ、今回グリーディ率いる西室や燃杭をこの村へと派遣させた張本人だった。氷室は毛虫が這い寄るかのような気色の悪い嗤い方をしながら椅子の上で転がっている。「……氷室坊ちゃま。ご依頼通り、任務を達成いたしました」凛とした声で西室が言った。電話を繋げる前の明るさはいったいどこへ消えたのかと思うほど、冷徹で冷淡な物言いだった。伏し目がちになりながら、彼女は画面の端に少し映るような角度で入り込む。「うるさい! どけ! 見えねえだろうが! グズ! のろま!」「――――…………はい」ぴくりと西室は片眉を反応させた。釜罪にしか聞こえない音量で歯ぎしりをひとつ落とすと、影のようにすうっと画面から消える。ひと頻り抱腹絶倒の最中にいた氷室だったが、大きく息を吐くと乱暴な言い回しで氷室を呼んだ。「なにしてんだよ! サボんなよグズが! 早くやれよ! おい! 聞こえてんのか!」椅子の上で団栗どんぐりのような体形を揺らしながら肘置きを叩く。「――――…………呼ばれましたか、失礼いたしました坊ちゃま」「おっせんだよ! おめえらにいくらつぎ込んでると思ってんだ!」「……そちらに関しては坊ちゃまへ事前に確認した通りの予算内で収めております」「そういうことを言ってるんじゃねえんだよ頭ついてんのかダボが!」「――――……申し訳ございません」氷室は傍らに置いてあった薄く芋を揚げた駄菓子の袋を手に取り、口いっぱいに放り込んでいく。咀嚼音が耳障りだ、と釜罪は徐々に回復しつつある思考のなか舌打ちした。氷室は憎たらしい口調のまま、続きは、と西室を促す。「――――…………その前におひとつよろしいでしょうか坊ちゃま」肺一杯の酸素を全て入れ替えるような呼吸を繰り返した西室が続けて言った。「……ご依頼内容はここまでにございます」「…………あ?」一本西室は指を立てた。「ひとつ、釜罪いちごを生きたまま捕獲し、且つ痛めつけてほしい」二本目を立てる。「ふたつ、その様子をビデオ通話で見せてほしい」三本目。「みっつ、前述ふたつの目的を達成した場合、報奨金が支払われる」「……あ?」氷室は顎先を掻いた。「……なんだよ金か? っていうか! まだおれは痛めつけられている姿を中継されてねえし!」三本立てた指を一本に戻し、しいっと息を吹いた。「中継するとはご依頼にはございませんでした」ほら、と西室は言う。磔にされている釜罪を指差して。「芋虫の如き恰好で、且つ肩へと銃弾を撃ち込まれている釜罪氏、どこからどう見ても、依頼達成ということでございましょう」ぽかんと口を間抜けにしたまま氷室は数秒黙った。額に血管が数本浮き出る。手にしていた駄菓子の袋を地面へと叩きつけた。「っふっざけんな! そんな御託が通じると――――」

「御託を突き詰めなかった貴様が悪い」

 唐突。に。若い、声。が。画面越。しに。響い。た。そ。れはまる。で。耳元。で聞こえた。よ。う。な。嘗て。遠い。過去。に。聞いたこと。のある。声音。で。画面外。の。男性。が。言った。

 後ろ。を。振り向く。氷室。憤った。表。情。が。一変した。

「やあ。御曹司。ご無沙汰だったね」

 瞬きを。した。頃には。。黄金。を。携えたひとりの。男性。が、画面のなかに。現れていた。男性は。軽い調子で。ぽんと。氷室の肩へ。と。掌を。置いた。

 こちら。まで。聞こえそうな。息を呑む音。が。やけに。耳に。障った。

「貴様も釜罪と同じ姿になれば、幼気いたいけで気丈な振る舞いをしている彼女が、如何に勇敢で、高尚なのか、解かるのかね」

 瞬間。画面越しの氷室は。宙へと浮き、見えない力を以てして磔にされた。釜罪と唯一違うところは、彼女の場合は暗闇が四肢を消し飛ばしているが、氷室の場合は。

 絶叫。絶叫。絶叫。

 瞬時に現れた四頭の獅子が、その豪快な咬合力を以てして指先から喰らっていた。

「おっと。気を失っちゃあいけないよ。ついでだ。死なないようにしてやろう」

 明らかに出血性ショック死を併発する勢いで噴き出る鮮血が、床に落ちてはビデオの逆再生のように元へ元へと舞った。絶叫絶叫絶叫。頭を大きく振るい、涙を流し、大口を開けてただ絶叫。かたかたと、釜罪は震えた。この男性を見たことがある。

 こちらの不可侵入領域プライベートゾーンへと悠々這入り、尊厳や気持ちを踏み躙り、嬲り殺し、気にせず去っていく。この男を、釜罪いちごは知っていた。

 彼こそ、そう。

「――――グリーディ様。ご帰還心よりお待ちしておりました。西室でございます」

 音割れすらしそうなほどの絶叫をまるで背景音楽バックグラウンドミュージックを聞き流すような素振りで振り向くと、ぱっと表情を変化させた。

「我が愛しの下僕にしむろよ。改めて名乗らなくとも良い良い。楽に話せ、獅子オレが赦そう」

「――……滅相もございません。我が愛しのあるじよ。そのような無礼を――」

オレの決めたことに対し、意見をするのか?」

「ぶっちゃけまじでだるいんでぇ! ちょりーっす」

「くは。い。道化らしく乱痴気な恰好で踊れ踊れ」

 グリーディは静かに嗤う。「――――飽きたな。もう死んで良いぞ」彼の背後で咀嚼されている磔姿の氷室が、どさりと床へ落ちた。尚も絶叫は轟いている。骨が割れるような、血が滴るような、肉が嚙み切られるような。そんな四重奏カルテットがひとつ、ひとつと音が消えてゆく。最後に残ったのは、ぴちゃぴちゃと肉を削ぎ落す不快指数が上がる音だけだった。彼は背後の出来事を一瞥することなく、んん? とニヒルな笑みを浮かべた。画面越しで磔になっている釜罪へ気が付いた様子だった。釜罪は画面越しに目が合っただけである。たったそれだけの行動で、圧倒的な恐怖が心に芽生えるのを自覚した。先ほどまでの激痛とは非にならぬ恐怖感だった。画面越しの彼は言った。「貴様は確か釜罪いちごか。大きくなったなァ……どうだ、元気にしていたか?」「……これが元気に見えるのかしらあ」「――――っ! あなた!」

 黒スーツに身を包んだ黄金は、垂れ下がった前髪を搔き上げながら一笑する。鋭かった眼光が細くより研ぎ澄まされた。搔き上げた手をぱたぱたと振る。

「いちいち反応するな西室。ヨイヨイ。勝気な娘は我が好みだ。どれ其方へ行こう」

「どれ、んん? 顔をもっと見せろ」

 釜罪は理解できなかった。一瞬前まで画面の向こう側、距離にして数百キロメートルは離れていた場所でいた人物が、間隙縫う瞬間には眼前で、あまつさえ自らの顎先を持ち上げていたのである。近く匂う薔薇の香料が酷く。グリーディが現れたことにより、恐らく反射的にではあるが、《汚らわしいローリングゴーランド》の力が強まった。特に痛みを感じる箇所は、銃弾が残っている肩と太腿だった。グリーディは咀嚼するような視線を釜罪へと落とし、小さく微笑んだ。

「立派に躰を成長させて、苦労しただろう。そういえば、あのいけ好かない女は一緒ではないのか? 貴様らはいつでも一緒にいただろう」「――――西城さんのことかしらあ」「おお。そうだそうだ。そのような名前だったか。矮小過ぎて記憶にすらなかったよ」「――――記憶になかったのに、私と一緒にいたという記憶はあったのねえ。随分とご都合主義な脳みそだこと」躰を外側から押さえつけている力が急激に強くなる。今回の強化は反射的にではなく、意識的に行ったものだろう。「誰がそのようなことをしろと言った。目に余る言動だかまつ――――」

 ふと、釜罪の肉体は地面へ落下した。胸元から落ちた痛みを感じるも、急に自由となったことに戸惑いを感じる。見れば、先ほどまでこちらを睨んでいた西室の姿がなかった。ぞくりと背筋が凍った。軽い様子でグリーディは芋虫の如く這い蹲る釜罪の髪の毛を掴んだ。まるで本当に虫を掴み上げるかのような、こちらの痛みなどを考慮しない力加減だった。「どこを見ている。今、貴様が、見上げるべきは、獅子オレただひとりだろう」きゅうっと咽喉が詰まった。全身を羽虫が這い上るかの如き恐怖が彼女の肉体を蝕む。知らず内に奥歯が擦り合ってかたかたと音を立てた。後頭部辺りから全身にぴしゃりと冷水をかけられたような錯覚に陥った。ぐるんぐるんと視界が安定しない。これほどまでに強く感じた恐怖は、きっとこれから先感じることがないだろうと彼女は思う。軽口すら叩けない。震える口でなんとか言葉を振り絞った。「あ、あなた……どうやって」青年は年不相応な笑みを浮かべると、恐怖しているな、と言った。

「得体の知らないことが起こると、ひとは恐怖するものだ。だがしかし残念だよ釜罪いちご」グリーディは顔を覆いかぶりを振った。広げられた五指の隙間から冷徹とも取れる目線を感じる。「瞬間移動だよ瞬間移動」「え」彼から聞こえた言葉は、人類史上未だ誰も成し得ていない能力の名前だった。世界を構築している物体は全て素粒子でできている。水であれ空気であれ動物であれ人類であれ。その全てが例外なく目に見えない大きさの物体で構築されている。瞬間移動とは、それら素粒子の数を一切狂わせることなく、別地点の場所へと送り届けるという能力。あり得ない、と釜罪が言った。

「あり得ない? なんで。実際にこうしてだろう。視野が狭いことをひけらかすなよ一般人かまつみ。貴様程度が知り得ているものが世の総てではないぞ」

 ――――じゃあさっきまでスマホの向こうにいたグリーディが実際に瞬間移動、してきたっていうの。

 にしても、とグリーディは前置きした。「見るに堪えない姿になっているなァ。見苦しいことこの上ない。見下ろす快感に浸るほどチキンじゃねえしな」

 はっと釜罪は西室の姿がないことに気が付いた。目玉を左右へ動かし、周囲を探るもどこにも存在していない。いったいいつの間に。極限状態の最中だったが故に、気が付かないほどグリーディという存在に注視していたと考えるべきか。それとも柚乃下潤を探しに向かったのだろうか、とそこまで考えたとき。

獅子オレ下僕みぎうでが気になるのか天才もどきかまつみいちご」とくつくつ嗤いながら零した。嫌な嗤い方だと辟易する。実験動物同士の交配の様子を、嘲るような嗤い方だ。先ほど画面の向こう側で死んでしまった人物も、よくそのような嗤い方をしていた。結局グリーディも氷室幸太郎も、同じ位の存在だった。人間的に最底辺に位置する存在。グリーディと氷室幸太郎との唯一にして絶対的な違いといえば、その特異性だけだった。

「寂しいのなら戻してやろう」たったひと言呟いただけで、「――――み! 殺してやる!」と強力な禍力を注力しようとしている西室が、瞬きひとつする間に顕現した。驚愕している場合ではなかった。躰中に見えない力――《汚らわしいローリングゴーランド》によって拘束、圧迫された。呼吸すら困難になるほどの力加減だった。こめかみがきーんと鳴り、呼吸器官が圧し潰され、釜罪がその場でそれこそ芋虫の如くのたうち回ることしかできない。

「止めろ」とグリーディが言う。

「――――ですがッ! こいつは」握り込んだ絆石が掌の肉を裂き、ぽたぽたと滴る血液を顧みず、西室は禍力を注力し続ける。一秒でも早く、一刻よりも正確に、今この場で釜罪いちごという人物を圧し潰そうとした。

獅子オレが止めろと言っている。それでも塵屑オマエは否定をするのか」

「滅相もございません」瞬間的に注力を停止した西室は、びしりと屹立した。

「……まあ。久方振りに楽しむことができた」グリーディは続ける。「獅子オレがいない間、組織内が請け負った依頼はいくつある。列挙しろ」

 は! と敬礼をしながら、西室は両手を背中へ回し、肩幅に足を広げ、できる限り大声で次々と言っていく。アフガニスタンで敗戦濃厚と言われている部族への武装幇助及び能力者の貸し出し、南極下に置いて行われている地下帝国への資金援助及び能力者の貸し出し、反【Nu7】を密かに掲げている組織の根本的な排除、などなど。

 ふむ、とひと言。グリーディは全ての依頼内容を聞き終えると、「下らん内容しかないな。よもや雑用として獅子オレの組織を遣われるとは。まったく嘆かわしい限りだよ」

「は! 申し訳ございません!」

「列挙した依頼は、まあ、良いとしよう」だが、と黄金は目線を釜罪へと落とす。「今回のこれはいったいなんだ。凡そ理解しているが……」「は! 元氷室室長が長男、幸太郎様のご依頼でございました。依頼内容は――――」「っている。そういうことではない」「――――は」「……はあ。まあ良い。特段気にしない方向で考えよう。貴様に任せると全ての依頼を聞くものだから、頭が痛くなる」

「釜罪いちご」グリーディは言った。「残念だが、貴様とて獅子オレの顔を見たのだ。生きて返すわけにはいかないこと、重々理解できるな」

「随分勝手な言い草ね……」彼女は混乱を極めていた。突如として顕現した西室の処理が追い付いていない。様子を見る限り、彼女自身という認識すらないように思える。だが、と釜罪は汗が滲むなか考えた。グリーディが先ほど言った瞬間移動という単語。素粒子をそのままに別地点へと同じ時間軸へと移動するという能力。そして噂に聞くグリーディが所有しているという禊石という鉱石。人類史が始まってから一度も顕現されていない瞬間移動という能力が、世界に十しかない鉱石の能力なのか。知らず内にごくりと不安を嚥下した。

 ――――それだと腑に落ちないことがある。

 釜罪が脳裏に浮かべていた先ほど氷室幸太郎へと行った一連の所業。獅子を生み出す、顕現させることは確かに瞬間移動という能力を使用すればできないこともないだろう。だが、氷室幸太郎がなにもない空間に磔となったあの能力がどうにも腑に落ちない。瞬間移動を行使するということは、時間と空間の両方を支配するということに他ならない。つまりは、一度物体を空間支配の能力で持ち上げ、それから獅子を遣って喰らわせた。そういうことか、と無理やり納得をした。

 ――――時間と空間を支配するってことは、私逃げられないじゃない。

 もっとも、現状の姿を直視するに、這って逃げられるような間抜けではない。少なくとも、瞬間移動、念動力、消音、暗闇を使っての肉体排除、この四つの能力を搔い潜らなければならないということだった。

 諦観、といった言葉が似つかわしい。

「逃げもできない奴を殺したところで、獅子オレはすごく寝覚めが悪くなるだろうな。どれ、ひとつ好機チャンスをやろう」

 グリーディは予期せぬ言葉を吐いた。

「なくなっている手足を修理し、逃げ惑えよ釜罪いちご」

 瞬間、腕と太腿にあった暗闇が雲散霧消し――――どこからともなく四肢が復活していた。否――まるで初めからあったかのような感覚だった。ぞくりと悪寒が彼女を包む。

 見下すグリーディは、西室が新たに創った趣味の悪い椅子へ腰を下ろし、大仰に足を組んで肘をついた。

 か。れは。おう。と。して。くんり。んしゃ。としてい。った。

「精々闇夜の烏に見つからぬよう、獅子オレを愉しませろよ」

「ライオンは見てないけれど――――間抜けは見つけたわあ」

 彼らが意表を衝かれたのは、直後のことである。

 釜罪いちごの《アンロック》が起動し、そして視線の保持を《私を見ろアイムデンジャラス》が担当した。瞬時にふたりの視線と交差させることにより、グリーディと西室の肉体への支配権を取得するとこに成功した。びたりと停止してしまったグリーディは表情を変えることができないが、何故だか釜罪は違和感を覚えた。

 ――――私の能力をっているのに……何故こうも容易く取れたのかしらあ。

 釜罪は間髪入れず、真っすぐに向かうことはせず。敢えて拘束することができた故の後退をした。現在進行形で彼らふたりの行動は、彼女自身の制御下に置かれている。つまりは逃げも隠れもできるということだった。だが懸念点がひとつ。それはというところだった。禍力の消費問題、《私を見ろアイムデンジャラス》の有効射程距離、そしてふたり同時に拘束し続けることに対しての集中力というみっつの要因が原因だった。故に釜罪は大きく後退することはできない。だからといってこのままこちらも身動きができないままでは致し方ない。

 肺にあった空気を無理やり全て吐き出す。膝へ手を置き、躰をくの字に曲げながら吐き切った。そして左右の腕を思い切り広げて夜空を仰ぎ見ながら新鮮な空気を吸い込んだ。所謂深呼吸という呼吸法だった。よし、と彼女は掌をぐっぱーと握ったり広げたりを繰り返した。問題なく動作は行える。指先に震えがまだ少し残っているが、気に病むほどではない。よし、と再度強く頷いた。栗色の長髪へ手をかける。今日は何度も全力疾走をしたせいもあって、風呂上りだというのに砂埃や木の葉の屑が絡みついてしまっていた。手櫛である程度整えた。彼女にとって、髪の毛を整えるということは、精神的な安らぎを求めるということと同義であり、他人にとってはつまらない挙措かもしれないが、精神的な安定感を得ることができる。最後に毛先を二、三度叩いて「ようやく、私のターンになったということよねえ」と得意気に口を開いた。その場で無意味にくるくると回る。その間ずうっと《私を見ろアイムデンジャラス》を展開しており、やはり彼らは身動きの一切を封じられている。停止とまった状態のままであることには変わりなく、グリーディは自信満々な表情を浮かべており、その傍らに立つ西室は少し驚いたかのような表情を醸し出していた。今すぐにでも能力を解けば、釜罪の躰は西室が手に入れたばかりの能力、《汚らわしいローリングゴーランド》によって圧死させられてしまうだろう。釜罪は、ふふん、と自然に上がる口角を、指先で戻しながら、腰へと手を当てた。

「ジュンくんも心配なことに変わりはないし。西城さんもいったいどこをほっつき歩いているのかわからないし、ましてや姫ちゃんなんて不規則イレギュラーを制御できるわけもないし……」ねえ、と釜罪は続ける。「あと三十分くらいしか私はあなたたちを停止とめれないのよう。残念ながら最大出力を続けている以上、拘束時間が大幅に短縮しちゃっているのよう。その間にあなたたちを、どうしましょうか」

 ねえ、と釜罪は零し、ポケットの中にある鉱石を握り込んだ。彼女にとって、初めての使用である。禍力の発生源である心臓へ集中し、ひとつの能力さいのうを呼び起こす。それは彼女が対策、攻略した能力であり、使用方法は充分に既知となっているものだった。小さく息を吸い込み、自らの中から代償が支払われた。

「――――《偉大なる手引きザ・マルチタスク》」

 瞬間的に現れたは禍力の発生源である釜罪にしか目視することができず、が持つ膂力的数値は使用者である釜罪に起因していた。が繰り出す攻撃は、釜罪いちごの膂力とイコールである。人体には重さが存在する。前述の通り、空気人形は釜罪いちごとイコールの力と表現したが、唯一違うところが存在した。体重、重さというものだった。重さが違えば重力が違う。質量は禍力によって顕現するが、同時に重さといった概念が《偉大なる手引きザ・マルチタスク》の前には価値がない。

 彼女はを操作し、ゆっくりと空気人形を西室へと向けた。まだ彼女は加減をまだ知り尽くしていない。どれほどの禍力を注力すればどのような挙措を繰り広げられるのかは詳細に知らない。彼女は胸の前に腕を突き出した。彼女にだけは視認できる空気人形も連動するかのように腕を上げた。その掌の内側には細く華奢な首がひとつ。釜罪は躊躇なく、むしろ楽し気な表情すら浮かべた。対する西室は身動きひとつ取れない状態ではあるが、その内心では酷く狼狽していた。西室は知っていた。《偉大なる手引きザ・マルチタスク》の能力を。戦闘員たちから奪ったものより、彼女は釜罪がいつの間にか所有していたこの能力がほしかった。共に引き連れてきた能力者のなかで一、二を争う水準レベルの能力だった。見えない空気人形という応用性、使用者にしか視認できない特異性、正に隠密起動と不意打ちを生業とする西室にうってつけのものだった。故に彼女は狼狽している。ぎゅうっと。釜罪は見えない筒を握り込むように掌を動かした。同時に西室の首へと空気人形が手をかけ、同じ力で首を絞めつけた。気道の位置を的確に抑え込むことによって、西室の呼吸が停止する。《アンロック》の術中に嵌っているいる人物が起こせる行動は、ふたつ。ひとつは呼吸。ひとつは思考だった。空気人形の指先が、完全に気道を潰した。釜罪は生まれて初めて殺人を犯す。偶発的なものではない。ほんの少しだけ、釜罪は吐き気を催した。瞬時に先ほどまで自らが体験した地獄のような痛みを思い出す。奥歯で固いものを磨り潰したような音が響いた。そして明確に、きちんと、責任を以て――――ほんの少し力を籠めた。

 ぽきりと鳴った正体は、西室さいかという女性の小首を折った音なのか、釜罪いちごという少女の精神が折れた音なのか。

 それは世界中探しても、きっと、釜罪いちごという少女にしか知り得ぬことだった。

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