017
――――だめよ。休んでいる暇なんてないの。私がしっかりしないと。
こんなにも走り回る日が来るのなら、もっと鍛えておけばよかったと文学少女はくすりと笑った。《
轟音が彼女の向かっている方角から聞こえた。一瞬身を竦む思いで肩を震わせたが、ぎゅっと拳を作り再度移動を開始する。時速にして八十キロ前後といった速度である。視界の端々へ月光を浴びた緑が線となり――――と。彼女が気を取られた瞬間の出来事であった。
華奢な肩の関節部へ強い衝撃を受けた。勢いがある最中に起こった
――――念動力の一種。
足先が地面から少し浮いたまま、釜罪は空中で磔にされた。身動きひとつ取れない。指先から足先までを何かに包み込まれているかのような圧迫感を見せつけられる。しかも彼女にとって最悪なことに、真正面を向いたときには既に西室は薄手のサングラスをかけていた。《
「いやはや。怖いですねぇ……目玉、潰します?」西室は次の絆石へと禍力を注いだ。彼女の肩辺りに氷柱のような禍々しい切っ先が顕現した。西室はその穂先を撫でる。小型拳銃は役目を終えたのか、懐へと仕舞っていた。指先で触れると鋭さを相まって指先の皮膚が裂けた。半透明な氷柱に赤黒い血液が一本道を作った。釜罪は小さく首を振る。「言うことを聞いてくださるというのなら、これ以上の手荒なことはしませんよ」ただ、と西室は続けた。「歯向かったり抵抗するようなら、あの男の子を殺します」ひゅ、と息を呑んだ。これ以上はない早鐘を打つ心の臓が次々と血液を全身へ流し込んだ。
「――――さ、い」
「…………はい?」意地悪な口許を歪ませて、西室は分かり切ったことをきちんと発言させる。
「――――て、くださ、い」
「ラストチャンスね」
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。やめてくださいやめてくださいやめてください!」大きく息を吸った。「私が殺されるのはいいの、だけれどジュンくんだけは見逃して!」「見逃して?」「見逃してください」間髪入れず懇願する。一瞬の躊躇すら感じさせない覚悟だった。西室は薄く笑みを浮かべたまま「仕方ないですねえ、泣きながら、鼻水垂らしてお願いされちゃったら、聞くしかないですよねえ。困った困った」引き金を更に二度引いた。左肩と左膝に二発の弾丸が肉を抉り出血を引き起こす。絶叫が無意識の内に発声された。静かな森に木霊するか細く高い声は、木の葉がざわざわと揺らめく音とともに消えていった。「うるっさい。もー、耳痛くなっちゃったじゃないですか。どうしてくれるんですかぁ」頭をとんとんと叩く西室は、涙を浮かべ絶叫しているはずの釜罪へ対し、既に能力を遣っていた。「――――」「あなたは本当に愚かですねえ、天才や神童の末路というものは得てして無様なものですよ」ちなみに、と西室は言った。掌に握りこまれている五つの絆石をあえて見せつけるようにして、尚も叫んでいるはずの釜罪へ視線を向けた。「弔い合戦っていう柄じゃないんですけれどねぇ。勝つために利用させていただいております」あえて、絶望感を与えるためだけに彼女は続けた。「《
いったいどのくらい叫んだのだろう。磔にされている体勢が苦ではなくなってきていた。咽喉が
ふと前へ視線を移す。西室は自らが持つスマートフォンを、《
「おせえぞ! おまえらにいったいいくらつぎ込んだと思ってんだよ!」画面いっぱいに映り込んだのは、釜罪の感性からはありえないような趣味の悪い椅子へと座り込み、こちらの様子をより鮮明に確認したいのか、覗き込んでいた少年とも青年とも似つかわしくない男だった。画面の向こう側から乱暴な口調で捲し立てる姿が確認できる。
――――誰だったかしらあ。
頭痛が酷く脳内の処理が追い付いていない。釜罪は念動力によって顎先をくいっと持ち上げられた。一切抵抗する気持ちはない彼女は、見えない力に従った。子供が新しいブリキ人形でも父親から買ってもらったかのような黄色い声が聞こえた。薄く開いた視界には、画面のなかで両手を叩いて、足もばたつかせている男がいた。もっとやれ、だの、痛めつけろ、だの。悍ましい言葉が聞こえる。ああ、と釜罪はようやく思い出せた。
――――役立たずのロクデナシか。何歳になったのかしらあ……十歳程度にしか見えないけれど。
釜罪が過去に在籍していた【Nu7】の【第二十五棟禍力研究室】と呼ばれる機関の元室長、氷室恭二が老いたあと身籠らせたひとり息子、名を――――
――――氷室、幸太郎だったかしら。
「聞こえているか釜罪ィ! ざまあねえなあ! ひゃっはっは! いーっひっひ」歪んだ愛情を一身に受け、酷く顔面を歪ませているこの男こそ、今回グリーディ率いる西室や燃杭をこの村へと派遣させた張本人だった。氷室は毛虫が這い寄るかのような気色の悪い嗤い方をしながら椅子の上で転がっている。「……氷室坊ちゃま。ご依頼通り、任務を達成いたしました」凛とした声で西室が言った。電話を繋げる前の明るさはいったいどこへ消えたのかと思うほど、冷徹で冷淡な物言いだった。伏し目がちになりながら、彼女は画面の端に少し映るような角度で入り込む。「うるさい! どけ! 見えねえだろうが! グズ! のろま!」「――――…………はい」ぴくりと西室は片眉を反応させた。釜罪にしか聞こえない音量で歯ぎしりをひとつ落とすと、影のようにすうっと画面から消える。ひと頻り抱腹絶倒の最中にいた氷室だったが、大きく息を吐くと乱暴な言い回しで氷室を呼んだ。「なにしてんだよ! サボんなよグズが! 早くやれよ! おい! 聞こえてんのか!」椅子の上で
「御託を突き詰めなかった貴様が悪い」
唐突。に。若い、声。が。画面越。しに。響い。た。そ。れはまる。で。耳元。で聞こえた。よ。う。な。嘗て。遠い。過去。に。聞いたこと。のある。声音。で。画面外。の。男性。が。言った。
後ろ。を。振り向く。氷室。憤った。表。情。が。一変した。
「やあ。御曹司。ご無沙汰だったね」
瞬きを。した。頃には。。黄金。を。携えたひとりの。男性。が、画面のなかに。現れていた。男性は。軽い調子で。ぽんと。氷室の肩へ。と。掌を。置いた。
こちら。まで。聞こえそうな。息を呑む音。が。やけに。耳に。障った。
「貴様も釜罪と同じ姿になれば、
瞬間。画面越しの氷室は。宙へと浮き、見えない力を以てして磔にされた。釜罪と唯一違うところは、彼女の場合は暗闇が四肢を消し飛ばしているが、氷室の場合は。
絶叫。絶叫。絶叫。
瞬時に現れた四頭の獅子が、その豪快な咬合力を以てして指先から喰らっていた。
「おっと。気を失っちゃあいけないよ。ついでだ。死なないようにしてやろう」
明らかに出血性ショック死を併発する勢いで噴き出る鮮血が、床に落ちてはビデオの逆再生のように元へ元へと舞った。絶叫絶叫絶叫。頭を大きく振るい、涙を流し、大口を開けてただ絶叫。かたかたと、釜罪は震えた。この男性を見たことがある。
こちらの
彼こそ、そう。
「――――グリーディ様。ご帰還心よりお待ちしておりました。西室でございます」
音割れすらしそうなほどの絶叫をまるで
「我が愛しの
「――……滅相もございません。我が愛しの
「
「ぶっちゃけまじでだるいんでぇ! ちょりーっす」
「くは。
グリーディは静かに嗤う。「――――飽きたな。もう死んで良いぞ」彼の背後で咀嚼されている磔姿の氷室が、どさりと床へ落ちた。尚も絶叫は轟いている。骨が割れるような、血が滴るような、肉が嚙み切られるような。そんな
黒スーツに身を包んだ黄金は、垂れ下がった前髪を搔き上げながら一笑する。鋭かった眼光が細くより研ぎ澄まされた。搔き上げた手をぱたぱたと振る。
「いちいち反応するな西室。ヨイヨイ。勝気な娘は我が好みだ。どれ其方へ行こう」
「どれ、んん? 顔をもっと見せろ」
釜罪は理解できなかった。一瞬前まで画面の向こう側、距離にして数百キロメートルは離れていた場所でいた人物が、間隙縫う瞬間には眼前で、あまつさえ自らの顎先を持ち上げていたのである。近く匂う薔薇の香料が酷く心地よかった。グリーディが現れたことにより、恐らく反射的にではあるが、《
「立派に躰を成長させて、苦労しただろう。そういえば、あのいけ好かない女は一緒ではないのか? 貴様らはいつでも一緒にいただろう」「――――西城さんのことかしらあ」「おお。そうだそうだ。そのような名前だったか。矮小過ぎて記憶にすらなかったよ」「――――記憶になかったのに、私と一緒にいたという記憶はあったのねえ。随分とご都合主義な脳みそだこと」躰を外側から押さえつけている力が急激に強くなる。今回の強化は反射的にではなく、意識的に行ったものだろう。「誰がそのようなことをしろと言った。目に余る言動だかまつ――――」
ふと、釜罪の肉体は地面へ落下した。胸元から落ちた痛みを感じるも、急に自由となったことに戸惑いを感じる。見れば、先ほどまでこちらを睨んでいた西室の姿がなかった。ぞくりと背筋が凍った。軽い様子でグリーディは芋虫の如く這い蹲る釜罪の髪の毛を掴んだ。まるで本当に虫を掴み上げるかのような、こちらの痛みなどを考慮しない力加減だった。「どこを見ている。今、貴様が、見上げるべきは、
「得体の知らないことが起こると、ひとは恐怖するものだ。だがしかし残念だよ釜罪いちご」グリーディは顔を覆い
「あり得ない? なんで。実際にこうして目の当たりにし、有って、得ているだろう。視野が狭いことをひけらかすなよ
――――じゃあさっきまでスマホの向こうにいたグリーディが実際に瞬間移動、してきたっていうの。
にしても、とグリーディは前置きした。「見るに堪えない姿になっているなァ。見苦しいことこの上ない。見下ろす快感に浸るほどチキンじゃねえしな」
はっと釜罪は西室の姿がないことに気が付いた。目玉を左右へ動かし、周囲を探るもどこにも存在していない。いったいいつの間に。極限状態の最中だったが故に、気が付かないほどグリーディという存在に注視していたと考えるべきか。それとも柚乃下潤を探しに向かったのだろうか、とそこまで考えたとき。
「
「寂しいのなら戻してやろう」たったひと言呟いただけで、「――――み! 殺してやる!」と強力な禍力を注力しようとしている西室が、瞬きひとつする間に顕現した。驚愕している場合ではなかった。躰中に見えない力――《
「止めろ」とグリーディが言う。
「――――ですがッ! こいつは」握り込んだ絆石が掌の肉を裂き、ぽたぽたと滴る血液を顧みず、西室は禍力を注力し続ける。一秒でも早く、一刻よりも正確に、今この場で釜罪いちごという人物を圧し潰そうとした。
「
「滅相もございません」瞬間的に注力を停止した西室は、びしりと屹立した。
「……まあ。久方振りに楽しむことができた」グリーディは続ける。「
は! と敬礼をしながら、西室は両手を背中へ回し、肩幅に足を広げ、できる限り大声で次々と言っていく。アフガニスタンで敗戦濃厚と言われている部族への武装幇助及び能力者の貸し出し、南極下に置いて行われている地下帝国への資金援助及び能力者の貸し出し、反【Nu7】を密かに掲げている組織の根本的な排除、などなど。
ふむ、とひと言。グリーディは全ての依頼内容を聞き終えると、「下らん内容しかないな。よもや雑用として
「は! 申し訳ございません!」
「列挙した依頼は、まあ、良いとしよう」だが、と黄金は目線を釜罪へと落とす。「今回のこれはいったいなんだ。凡そ理解しているが……」「は! 元氷室室長が長男、幸太郎様のご依頼でございました。依頼内容は――――」「
「釜罪いちご」グリーディは言った。「残念だが、貴様とて
「随分勝手な言い草ね……」彼女は混乱を極めていた。突如として顕現した西室の処理が追い付いていない。様子を見る限り、彼女自身いなくなっていたという認識すらないように思える。だが、と釜罪は汗が滲むなか考えた。グリーディが先ほど言った瞬間移動という単語。素粒子をそのままに別地点へと同じ時間軸へと移動するという能力。そして噂に聞くグリーディが所有しているという禊石という鉱石。人類史が始まってから一度も顕現されていない瞬間移動という能力が、世界に十しかない鉱石の能力なのか。知らず内にごくりと不安を嚥下した。
――――それだと腑に落ちないことがある。
釜罪が脳裏に浮かべていた先ほど氷室幸太郎へと行った一連の所業。獅子を生み出す、顕現させることは確かに瞬間移動という能力を使用すればできないこともないだろう。だが、氷室幸太郎がなにもない空間に磔となったあの能力がどうにも腑に落ちない。瞬間移動を行使するということは、時間と空間の両方を支配するということに他ならない。つまりは、一度物体を空間支配の能力で持ち上げ、それから獅子を遣って喰らわせた。そういうことか、と無理やり納得をした。
――――時間と空間を支配するってことは、私逃げられないじゃない。
もっとも、現状の姿を直視するに、這って逃げられるような間抜けではない。少なくとも、瞬間移動、念動力、消音、暗闇を使っての肉体排除、この四つの能力を搔い潜らなければならないということだった。
諦観、といった言葉が似つかわしい。
「逃げもできない奴を殺したところで、
グリーディは予期せぬ言葉を吐いた。
「なくなっている手足を修理し、逃げ惑えよ釜罪いちご」
瞬間、腕と太腿にあった暗闇が雲散霧消し――――どこからともなく四肢が復活していた。否――まるで初めからあったかのような感覚だった。ぞくりと悪寒が彼女を包む。
見下すグリーディは、西室が新たに創った趣味の悪い椅子へ腰を下ろし、大仰に足を組んで肘をついた。
か。れは。おう。と。して。くんり。んしゃ。としてい。った。
「精々闇夜の烏に見つからぬよう、
「ライオンは見てないけれど――――間抜けは見つけたわあ」
彼らが意表を衝かれたのは、直後のことである。
釜罪いちごの《
――――私の能力を
釜罪は間髪入れず、真っすぐに向かうことはせず。敢えて拘束することができた故の後退をした。現在進行形で彼らふたりの行動は、彼女自身の制御下に置かれている。つまりは逃げも隠れもできるということだった。だが懸念点がひとつ。それは永続的な効力は一切ないというところだった。禍力の消費問題、《
肺にあった空気を無理やり全て吐き出す。膝へ手を置き、躰をくの字に曲げながら吐き切った。そして左右の腕を思い切り広げて夜空を仰ぎ見ながら新鮮な空気を吸い込んだ。所謂深呼吸という呼吸法だった。よし、と彼女は掌をぐっぱーと握ったり広げたりを繰り返した。問題なく動作は行える。指先に震えがまだ少し残っているが、気に病むほどではない。よし、と再度強く頷いた。栗色の長髪へ手をかける。今日は何度も全力疾走をしたせいもあって、風呂上りだというのに砂埃や木の葉の屑が絡みついてしまっていた。手櫛である程度整えた。彼女にとって、髪の毛を整えるということは、精神的な安らぎを求めるということと同義であり、他人にとってはつまらない挙措かもしれないが、精神的な安定感を得ることができる。最後に毛先を二、三度叩いて「ようやく、私のターンになったということよねえ」と得意気に口を開いた。その場で無意味にくるくると回る。その間ずうっと《
「ジュンくんも心配なことに変わりはないし。西城さんもいったいどこをほっつき歩いているのかわからないし、ましてや姫ちゃんなんて
ねえ、と釜罪は零し、ポケットの中にある鉱石を握り込んだ。彼女にとって、初めての使用である。禍力の発生源である心臓へ集中し、ひとつの
「――――《
瞬間的に現れたそいつは禍力の発生源である釜罪にしか目視することができず、そいつが持つ膂力的数値は使用者である釜罪に起因していた。そいつが繰り出す攻撃は、釜罪いちごの膂力とイコールである。人体には重さが存在する。前述の通り、空気人形は釜罪いちごとイコールの力と表現したが、唯一違うところが存在した。体重、重さというものだった。重さが違えば重力が違う。質量は禍力によって顕現するが、同時に重さといった概念が《
彼女はそいつを操作し、ゆっくりと空気人形を西室へと向けた。まだ彼女は加減をまだ知り尽くしていない。どれほどの禍力を注力すればどのような挙措を繰り広げられるのかは詳細に知らない。彼女は胸の前に腕を突き出した。彼女にだけは視認できる空気人形も連動するかのように腕を上げた。その掌の内側には細く華奢な首がひとつ。釜罪は躊躇なく、むしろ楽し気な表情すら浮かべた。対する西室は身動きひとつ取れない状態ではあるが、その内心では酷く狼狽していた。西室は知っていた。《
ぽきりと鳴った正体は、西室さいかという女性の小首を折った音なのか、釜罪いちごという少女の精神が折れた音なのか。
それは世界中探しても、きっと、釜罪いちごという少女にしか知り得ぬことだった。
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