016

 世に蔓延る悪であっても、視点を変えれば善となる。Aという人物が世界征服を画策し、又そのような思想を世界へ押し付けることは悪ともいえるが、一方で支配者がひとつに絞られることによって経済問題や外交的戦争といった不透明な戦争を行わずに済むと言う善的観点も考えられる。世界は常に均衡でなくてはならない。嘗て調整者として君臨していた人物が、自らの法則に従い、堕落していった。救世主は常に世界へ求められるまま誕生し、そして世論の意見に左右される形で救世主から大悪人として祭り上げられる。弱肉強食といえばそれまでなのだろう。あらゆる観点に於いての善は存在しない代わりに、全てに於いての悪も又存在しないのだ。人類は常に進化を待っている。それは日常的にふと現れる幸運のなかにもあるだろうし、非日常のなかでしか生まれない悪運のなかにあるのかもしれない。運とは即ち準備を怠る者の前には決して現れない。頭を空っぽにして思考停止で生きている一般人よりも、常に夢のために思考を張り巡らせている一般人のほうが、確率的に成功する。流れ星が見えた瞬間に三度願いを言うと叶うといった言い伝えは、つまりはそういうことを言っている。見てから願うのではなく、常に願い続けているからこそ、願いへの到達点は近く、実力が伴えば叶えることは造作もない。思考を百八十度切り替える必要はない。言われても実行できなければまるで意味はない。胸の中に燻る燃え切らない、燃えにくい心の炎へ問いかける。

 ――――私は常に。最果ての理想へ思考できているのだろうか。

炎を見るよりも明らかメプロテウス》を振るい、崩壊しつつある展望台へ次々に炎を発生させる。標的となる相手は全身を爛れさせながらも歩調が一切変動しない。その気になれば一瞬で間合いを詰め、矮小な存在である自分を抹消することができるというのに。燃杭にとりは歯噛みする。

 ――――私如きでは、足止めにもならないのですか。

 鍛錬は常に怠らなかった。そういう誓いだったから。

 一切合切躊躇なく。彼女は持てる力を最大限放出した。

 夏になれば帰郷した家族に連れられ子供たちの遊び場となる展望台の風物詩は、どうやら今年以降見られなくなることは、炎を見るより明らかだった。実際に倒壊している展望台からは電気設備が引火を発生させ、周囲の森林まで赤く揺らめく悪魔のような掌が伸びようとしていた。燃杭は倒壊した中心点で再生を連続して行う化け物と呼ぶべき人物へその異能を行使する。彼女が操る熱は温度すら自在に操作することが可能であり、必要があれば近隣一帯を焼き尽くすことは造作もないことだった。今回それをしないのにはいくつか結ばれた協定が関係している。そのなかでも最も重要視するように言われている事項こそ、釜罪いちごの生存であった。故に焼き尽くすということはできない。万が一にも周囲にまで接近している可能性がある以上、無茶苦茶ともいえる波状攻撃は控えるべきである。奥歯を噛み締めた彼女は爆炎の渦中で立っている女性へ向けて舌打ちをした。

「撤退を望みます。これ以上は協定を著しく違反してしまう」言いながら燃杭は哄笑続ける怪物から目を離すことなく、それでいて確実に後ずさりした。革靴の中にまで届かんばかりの熱気を肌に感じながら、燃杭は送受信機トランシーバーからの返答を待つ。刻一刻と火炎の中で嗤う怪物は炎を生み出す人物を探すように、辺りの融け始めた鉄屑や、燃え滓となっている木屑を方々へと蹴り上げている。すぐ近くに落下した融解化が始まっている鉄屑を一瞥し、更に彼女は退いた。送受信機から声が聞こえる。「だめです、もう少し耐えてください」苛立ちを隠せない。「もう少しとは具体的にどのくらいか。回答求める」暫しの沈黙のあと、がさりとした音が送受信から聞こえた。続けて向こう側の西室は言う。「あと三十分弱といったところですね、それくらいの時間があれば任務は完了となりま――」

「見つけたぜ」はっと視線を上げた。眼前には未だ尚燃え続け再生し続けている怪物が、夥しい火傷と共に君臨していた。咄嗟に後ろへと跳ぶ。「もう逃がさねえよ」燃杭は本能のままに能力を行使した。《炎を見るよりも明らかメプロテウス》の能力は炎を生み出し操作する力。酸素がないと使用できないが、汎用性の高さは組織内に於いても群を抜く。出力はその気になれば鉄屑であろうが一瞬で融解させてしまえるほどである。但し、彼女自身には炎に対する耐性は一切ない。反対に《炎を見るよりも明らかメプロテウス》を使用するにあたっての代償が、能力との相性が悪いといっても差し支えなかった。彼女が能力を開花させた際に架せられた十字架は、炎に対する根源的恐怖の増幅である。つまりは能力を使用すればするほど、彼女の心には精神的な苦痛が伴う。よって彼女は自分の近く、半径四メートル以内での能力使用は禁忌としている。だが、時には根源的恐怖と呼ばれる恐怖感を凌ぐものが現れる。燃杭は決死の覚悟で眼前に立つ焼け爛れた怪物へ、禍力の全てを注ぎ込んだ。赤というよりも白と表現すべき炎の末端が、燃杭の肌を撫でる。心臓がきゅっとなるような恐怖が湧き出た。構わず彼女は業火に対し背を向けた。とてもじゃないが――――これ以上の接近は彼女自身の寿命を終わらせることとなる。間抜けともいえる悲鳴に似た音を響かせながら、転んでは立ち上がり、立ち上がっては転ぶ。数メートル離れたところで背後を振り向いた。あかよりもあかく、純白しろよりも純赤しろいその場所で、相変わらず怪物は立っていた。

「お姉さん嬉しくて濡れちゃうぜ」怪物は、右の腕を水平に伸ばし――――一閃。たったそれだけのことだった。燃杭が全力を以てして繰り出した、自分の精神的苦痛を犠牲に振り絞った一撃は、その程度の造作もない挙措によって掻き消された。躰を焼き続けていた本能を呼び起こすような熱は一切の余力を残さず消え去り、残ったのは焼け爛れた皮膚を外界に晒しながらもへたり込む燃杭を、恍惚な表情で睨む怪物さいじょうだった。爛れ落ちてしまいそうな腕や指が、徐々にだが血色の良い色つやへと再生してゆく。残っていなかった黒髪の長髪に至っては既に戻っている。勝気な表情のまま、彼女は生まれたままの姿で君臨していた。西城は回復した躰を捻り、曲げ、伸ばす。ぽきぽきと小気味の良い音が鳴り、ひとつ大きく背伸びした。大型の猫を見るような仕草だった。大口を開けてはしたない姿を隠すことなく、彼女はあくびを嚙み殺す。目尻の先に涙すら浮かべ、西城はへたり込む燃杭へ視線を落とした。「なに腑抜けたツラしてんだよ、にとり。あたしをぶっ殺すんじゃねえのかよ」嫌だ、と呟いた彼女を見て、西城は乱雑に頭を掻いた。つまんねえ、と西城は口にする。「もっと死ぬ気で来いよ。仕事だろ? 協定だかなんだか結んでんだろ? あの西室っていうあたしのの指示でお前はここにいるんじゃねえのかよ」なあ、と言いながら怪物は燃杭の肩をぽんと叩いた。「なんであのとき一緒に来なかった? あのとき来ていればお前はこんなことを」「黙れ」叫んだときには未だ自分が感情的になれるということを初めて知った。研究施設で独りだった。周囲の人間は全て敵だった。唯一の遊び相手は研究施設のゴミ捨て場に落ちていた小汚い熊のぬいぐるみだけだった。肩に置かれた手を力任せに叩いた。呆気に取られた表情を見た燃杭は「そんなことを言うべきではありません……私は私なりに考え、そして幸せになるほうを選びました」七年前のあの日。彼女にとって忘れもしない親愛なる人物と袂を分かつ最悪の日。これまでの人生はあの日の選択を肯定するために生きてきた。正に血の滲むような努力の果てに【Nu7】随一と謳われる組織へと入隊し、数年という短い期間で西室と同じく副隊長とまで言われる役職まで上り詰めた。上って、上がって、駆け抜け振り向いた過去には、無数の屍が斃れていた。自らが選んだ人生。後悔などあるはずもない――――否。あってはいけない。彼女が彼女を認めるために組織に這入り、嘗て相手の誘いを断ってまで手に入れた現在を否定することは、燃杭にとって炎を見るよりも明らかな根源的恐怖を感じる考えだった。今更後悔など、してはいけないと固く思う。ふらりと立ち上がりながら、情熱的に、感情的に、溢れ出る言葉を紡ぐ。如何にして自らが西城を選ばなかったか。何故【Nu7】という国に固執したか、どうして本音を言えなかったか。七年間堰き止めていた感情が決壊してしまった。何人もの人間を殺害してきた。中には事情の知らない一般人すらいた。公式記録以外では何人殺害したかなんて今となっては知る由もない。

 怪物は聴いていた。彼女の涙を。怪物はきちんと聴いていた。彼女の怒号を。

 肩で息を切らす燃杭の脳内は、既にミキサーにかけられた果物のように、様々な思考が混ざり合い、ひとつの感情として渦巻いていた。その全てを――――

「貴女を殺すことで片づけます」

 彼女が指定したのは西城の周囲三十センチメートル。炎による陣が敷かれた。怪物は言った。「――解かった」黒髪長身の彼女は、五体に宿る《愉快な連中フルモンキーズ》へ更に禍力を注力した。その他の絆石にも最大限の禍力を施す。圧倒的な禍力の重圧に、眼前で構える燃杭は唇を強く噛み締めた。

 ――――やっと向き合ってくれましたね。

 彼女が西城へ求めていたものは護られるという安心感ではなく、並び立つという自信だった。今にしてきちんと向き合うことができた。西室にもグリーディにも言っていない自らの過去、関係性。今まで殺した数百人の人間は、たった今、この瞬間のために灰となったのだ。

 人骨でできた灰を被った哀れなる放火魔は、自らの体内に宿る禍力の全てを懸けて、抱きしめるように、慈しむように、そのぬくもりを放出する。

「連れて行けなくてごめんな」

 溢れ出る両の目からの雫。その一滴が地面に落ちる刹那。

 燃杭にとりという人物の人生は終わった。

 具体的に表現するならば――――木っ端微塵に吹き飛んだ。

 脳漿が西城の頬に付着し、飛び散った臓腑が数瞬のあと異臭を放ち始める。温かい血液を前面に受けた西城は、瞬きすらしていないことに気付いた。視界が真っ赤に染まり、どろりと温かい肉片がぼとりと音を立てて地面に落ちた。焼け焦げた西城は、状況を理解できない。彼女にしては珍しく酷く混乱していた。固く握り込めた拳を構え、確かに彼女は燃杭を屠ろうと攻撃を放った。だが、彼女の拳が目標に当たる前に、燃杭にとりの肉体は弾け飛んだ。理解不能。理解不能。理解否定。理解否定。否定。否定。否。否。ひ。ひ。ひ―――。

「なんだかんだ言ってもよオ。いい奴だったよなァ」ぬるりと。嘯くような声が上空から聞こえた。西城は見上げる。「成績優秀な部下を失ってよオ、悲しいったらアリャアセンゼ。マッタクもって悲しいよなアアア」存在しないはずの空間に立ち、こちらを見下ろす青年は、小馬鹿にするように、吐き捨てるように、続けた。「燃杭の奴ァずうっと仔兎オマエを探していたんだぜ。莫迦もそこまでいきゃア見世物としては一流だよなあ。自分では隠せていると思ってやがるンだからよオ」けだものは、まるで階段を下りるような足取りで、歩き始めた。西城は現状脳の処理が追い付いていない。「しィかも、獅子オレの部下になった経緯も、結局のトコロは仔兎オマエに成長した自分を見せつけるためだってよォ、ホンットーニ、下らねえよなア」

 黄金のけだものは地に降り立った。丁度西城と真正面に位置する場所だった。彼は血と臓物でできた血溜まりに一歩踏み込む。靴の裏からぐちゃりとした音が聞こえた。ぷちぷちという千切れる音が響いていた。

「この獅子オレを利用したつもりだったンだろうが――――」けだものである人物が言った。心底莫迦にするような声音で。「仔兎オマエ程度の夢が叶うワケねえだろ。身の程を知れ、痴れ者が」

 音速すら超える怪物の一撃が、月光が照らす森林のなか放たれた。亜音速にまで達する拳はひゅるりと。常人であればまず認識すらできない速度での一撃。「なァに。獅子オレに求愛行動ってかァ」思い上がるな、と続けた。「ババアに求愛されたって、こちとらなんの反応もできねエよ」「――――初めてだ」西城は言う。「自分の手でこんなにも人を殺したいと思ったことは、初めてだ」「殺人衝動処女オメデトウゴザイマスゥ。そのまま独りよがりなオナニー見せつけながらぶっ飛べよ」直後、西城の躰は後方へと見えない力を受けて吹っ飛ぶ。水平姿勢のまま西城は自分の後ろ数十メートル先にある大木を指定した。「こんなもんで止められると思ってんじゃねえよ」《天地を繋ぐ鎖リパルアトラ》を発動し、斥力の力を以てその場で停止する。躰を前後反転させ、再度斥力の力を行使した。空中で再度態勢を立て直し、勢いそのままに足を突き出す。対する青年も乱暴な調子で拳を振り抜いた。激突と共に衝撃波が森の木々を過度に揺らし、青々と茂った木の葉が舞った。

「満足にひとりでデキねえってンなら、初めからイキがってんじゃねエよ」

「気分が悪くなる。臭え息振りまいてんじゃねえよ黄金野郎」

 けだものと怪物が交じり合う。両者全く純度は同じだった。掲げる思想も同じだった。

 唯一にして絶対的な違いは――――特になかった。

 利己主義エゴイスト同士の衝突が始まった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る