015

 ぼんやりと焦点が定まらない。世界にひとつだけにしか存在しない人生の書物が頭から零れ落ちそうな錯覚に陥る。背中に感じる物体は地面などではなく、樹齢数百年はあろうかという大木だった。ご丁寧に注連縄まで飾り付けられている。左肩に感じる激痛の他、柚乃下が現在負傷している箇所は数多くあった。右肩から前腕にかけての擦過傷及び裂傷、左肩関節部骨折、左五指の複雑骨折及び裂傷、右肋骨四本の複雑骨折、右足首剥離骨折及び裂傷、前頭葉を守る頭蓋骨の線状骨折及び裂傷。お陰様で柚乃下潤は再起不能はおろか生命活動すら満足に継続できないような状態となっている。全身に駆け巡る骨折や裂傷による激痛が、柚乃下という個の意識を未だ手放さない。まるで脳が手放せば最期だと認識しているかのような不可解な事象だった。呼吸すらままならない柚乃下は、ぼんやりと今にも暗闇へ飲み込まれそうになる意識を保ちながら眼球をゆっくりと動かした。自らが高速で飛んできた方角の木々は一本の道を作ってこの場所へと続いていた。大地には夥しい血液が飛び散った様子が今も尚描かれている。周囲の状況を見るに、一緒にいた彼女らも違った方向へと飛ばされたらしい。指先すら動かせない状況のなか、ふとこれまでの道程を思い出す。彼は無能力者なりの知恵を振り絞って今まで生きてきた。【Nu7】では在籍した小学校で様々な才能を開花させてゆくなか、単純な身体能力スペックだけで学年首位の実力を叩き出せた幼少期。いくつもの障害はあったと今にして思う。周りの評価を別段気にしていなかった頃は、無邪気に首位という浪漫を求めて日々奮闘していたが、高学年になった頃、友人と思っていた人間からはある日迫害され、物を隠され、孤立した。その時、こう思ったものである。「ああ。世の中には頑張ることよりも、他人を蹴落とすという下らない方へ力を向ける奴もいるものだ」と。当時一番話の合った釜罪が同室ではなくなり、彼はひとりぼっちの部屋でただ漫然と過ごしていた。毎日が退屈で、休日などは部屋にこもって肉体強化のトレーニングを独学で行っていた。そんな折、数十年寮を管理している人物から、ひとつの打診があったのだ。それは世界史始まっての天才、西城もがみという人物を人為的に創り出す計画プロジェクトがあると。ひと筋の光が差し込まれた瞬間だった。齢六十にもなろうかという管理人に後光が見えたのは錯覚ではないと今にしても思う。彼女は極秘裏に計画されているものだということを幼少期の彼へと告げ、一日の猶予を与えた。だが彼は躊躇なく、自らを実験体とする実験を申し込んだ。彼の分岐点は正にここであった。その計画プロジェクトは僅か半年で予期せぬ――又は予定調和な―――結果を算出し、破綻した。人類史始まっての鬼才、西城もがみの模造品を創造つくることは不可能という結果だった。ある意味、零から人間を創り出すより困難であると論理であった。計画プロジェクトは見事失敗に終わった。取り残され、施設を追い出された柚乃下は、中途半端な力を手にした形となり寮へと舞い戻って来たのである。彼は人体実験の後遺症とし、絆石を使用した場合、その膨大な禍力が暴走し、絆石の暴発、もしくは人体で禍力を司るといわれている器官――――心ノ臓が破裂してしまうという傷痕を残したのであった。故に彼は絆石を受け付けない。万が一にでも自らが爆死してしまう可能性がある以上、取捨選択の余地はない。それから月日が流れ、一度違う寮へと移動した釜罪が戻って来た。その後西城もがみという人物と顔合わせをした時に思ったものである。「今目の前にいる人間は、人間という枠内カテゴリには収まらない人物だ。このような人間を創り出すことは今の技術では不可能だ」と。こちらの事情を見透かしてか、西城は共に人生を歩む道筋を示し、彼はまるで初めから決められていたような錯覚に陥り、逃避行を許諾した。

 それが、柚乃下潤の物語じんせいである。彼は西城という人間に救われ、釜罪という友に救われた。今の自分が世界に存在しているのは、きっとふたりの努力が実ったからである。

 だからこそ、彼は諦めない。諦観を以てすれば現状これ以上苦しむことなく、これ以上の痛みを増やすことなく物語じんせいを終わらせることができる。踏ん張って堪える意識を、手放せば恐らく二度と目を覚ますことなく、休むことができる。安眠とは正にこのことだろう。

 ――――いやだ。

 ぽつりと。誰にともなく呟いた決意は。

「ぎゃっははははは」

 圧倒的な強者の哄笑ことばによって掻き消された。

満月を背に一匹の獣は悠然とした足取りのまま、大木へ寄りかかる柚乃下へと言った。「これからだろォ? 遣いたくもねエ日本語を遣ってんだ。獅子オレの努力を踏みにじるなよ」なあ、と言って左頬を全力で蹴り抜かれる。あわや頸椎圧迫骨折すら引き起こされかねない威力だった。ぶつけられた力を受け流すことなく、彼は勢いそのままに地面へと倒れ込んだ。丁度、額の部分へ石が突き刺さり、彼は痛みをふたつばかし増やすこととなる。全てが激痛で、今更ひとつふたつ増えることに大差はないと判断していたが、やはり痛みは痛みだった。新たな刺激を甘受するような気持ちのまま、目を閉じる。混濁とした意識は獣の一撃によって泥沼の渦中へと引き摺り落された。開いた疵口がどくどくと心音に呼応するかのような鼓動を流していた。

呆気なく。躊躇なく。感慨なく。彼の物語は一旦幕を閉じたのであった。

地面へと絶えず流血する一般人ゆのしたを見下ろしながら、青年の苛立ちは頂点へ達しようとしていた。その証拠に疵ひとつない額には太い血管が数本浮き出ていた。青年は思う。一度目の対峙の際に異様な速度――否。反射的とも取れる身のこなしを見せつけた少年が、よもやたった一撃の名の許に沈むとは。大地に伏しぴくりとも停止している少年の脇腹を彼は思い切り蹴り上げた。無抵抗のまま、筋肉繊維の一本すら駆動せず、人体に存在する反射すら行うことなく、だらりと仰向けになった少年は、半開きの目に半開きの口を見せ、明らかな絶命を迎えていた。心音を核にするまでもない。乱雑に伸ばした黄金の長髪をがしがしと掻き毟りながら、青年は先ほどから聞こえる聞き慣れた部下の言葉へ怒鳴るつもりで、懐にある超小型無線機へと手を伸ばした。「なんだ――――」「急に能力を遣わないでください。私のかんっぺきな計画が水泡の泡ですよ!」鼓膜すら突き破らんばかりの怒号を受けた青年は、予見していた通りの反応だったので、超小型無線機を耳から離していた。しばらくそのままの恰好で放置していた彼だったが、やがて似つかわしくもない「きゃあ」という素っ頓狂な声が聞こえたので少しわくわくとした気持ちのまま、超小型無線機を傾けた。「日本語を話す日本人相手にこンなこというのも阿呆な話だガ、水泡は帰すもンであって水泡の泡は日本語としておかシいけどナ」「外国人の分際で日本語のこと詳しく言うのやめてもらっていいですかね」「じゃあちゃんとした言葉喋りやがれ」「ふぁっきゅー」「ア?」こほんと向こう側から咳払いがひとつ。彼女は続けて言った。「――――そちらの戦況は如何ですか」無線機からは絶えず爆発音や木々が倒れるような音が聞こえている。成程な、と青年は思った。「どこかで戦闘中かァ。空中歩行あるいて行ってみるか」青年は禍力を注力し、その場から跳躍する。足裏を叩きつけた地面は大きく罅割れ、次の瞬間には青年は上空数十メートルまで移動していた。存在しないはずの空間で立ち、きょろきょろと見下ろしている。見ると現時点から数百メートル以上離れた場所から硝煙が立ち上り、空間内の木々がまるでミステリーサークルのような倒れかたをしていた。「見えねエな……よく視ねえと」青年が能力を行使し数百メートル先を見透かす。揺らめく影がひとつあった。影は両手を広げて哄笑をしていた。肩に乗っている小猿が演舞のような動きをしていた。一歩踏み締める度に大地が震動するような錯覚を影は産み落とす。そのはず彼女は真っ当な生き方を選んでいれば、人類史にその名を刻むこととなった人物なのだから。黒髪の悪魔は無意識の内に流している禍力の陽炎を背後に、眼前へとへたり込んでいるひとりの女性へと歩いていた。面白ェ、と青年が口に出した刹那――――彼の肉体はありえない速度を以てして降下した。「――――ッ」自らの意思で降り立つのではない。視界内を過った深紅の一撃が、漫然と戦況を把握していた彼の躰をくの字へ折り曲げたのである。「――――ッハッハ! 獅子オレは死なねえからよオ! 存分に来いよバケモン!」直後のことだった。空間すら切り裂く深紅の稲妻が彼を父なる大地へと磔にした。膨大な量の土煙が森林を覆う。小動物たちは挙って避難を開始し、周囲の木々は爆心地を中心に扇状へ倒れた。土煙が晴れた中、そこに存在していたのは――――

「だめだよう。もがーのトコには行かせてあげない。きみはぼくが全力で止めるよ」

 長髪携えた深紅あかよりもあかく、レッドよりもレッドの悪魔だった。少女は足蹴にしている青年を一層強く踏んだ。青年の口が大きく開き、赤黒い塊を吐き出す。それが血液だと常人が理解するには、幾分時間がかかる。塊となって舞う喀血。ひと薙ぎの風が少女の髪を慈しむように撫でた。突如として爆発的ともいえる衝撃が、青年の脇腹を破壊する。唾液なのか胃液なのか不明瞭な液体を吐き出しながら、青年の姿は先ほど爆発が起こった箇所と逆側へ向かって飛んだ。木々を薙ぎ倒しながらも青年は苦しそうだが大きく嗤う。

「ってェなア! 仔兎如きが! 世界の王が誰なのかを思い知らせてやる!」

「そんな大きく言わなくても聞こえてるよ」青年の背後。一本の大木の裏から聞こえた声は、凄まじい速度で地面と平行に飛んでいる彼の鼓膜へ、涼し気に響いた。大木までの接触時間は残り零点零零零――――「きみはここで終わらせる。このあとにグリーディが控えているんだ。余計な時間をかけている暇は」

 ――――ない。「甘エよ、クソ兎」喋り過ぎだ、そう言った彼は、背中へ受ける衝撃を――――「じゃあな。交代の時間だ」――――。

 太くて大きい木がへし折れる音というものは存外呆気ない。木には水分が多量に含まれている。軽快な響きではなく、まるで人体の骨が綺麗に折れたかのような、そんな音が響いた。少女は対象者を大木ごと撃ち抜く。真っ二つに裂けた向こう側で恋染の蹴足を受けた人物は、少女が口も交わしたことのない、むしろ見たことのない人間だった。「――――え」と思わず口を出たときには既に青年と入れ替わっていた黒服の男性は背骨から真っ二つに引き裂かれていた。上体と下体がぐるぐると左右へ散って森の中へと消えて行く。彼は既に事切れていた。下体は鬱蒼と生い茂る雑草の上へと滑り、上体は十数メートル先にある枝へと絡まって赤黒い液体を周囲に絶え間なく落としている。恋染は周囲を探るためにきょろきょろと首を動かした。が、既に青年の姿は目視できる範囲にはなかった。あー、ともうー、とも聞こえない得体の知れない声を絞り出した少女は、数瞬考えたあと、横目でとある地点を見た。そこに転がっているのは一日二日だが共にいた、西城と自らを引き合わせてくれた人物の亡骸だった。遠目で見ても生命活動の停止は明らかであり、ひとの情は持ち合わせているが、感極まって駆け付けるほど親睦な関係性ではない。恋染にとって西城こそが世界の中心であり、振り回されたい人物だった。彼女の周囲に存在する人間は、須らく同一のものであった。恋染は柚乃下の存在を嘗て誰かから聞いたことがある。それは西城本人だったのかもしれないし、【Nu7】で自分の肉体へ禊石を埋め込んだ科学者の発言だったのかもしれない。今となっては定かではないが、その人物に彼の詳細を聞いたことがあった。曰く、類稀なる才能スペックを所有しているのにも関わらず、その才能スペックを引き出すことができない凡人。世の中の凡人は絆石と呼ばれる鉱石を媒介し世界へと存在証明を図るものだが、彼の場合は人体実験の後遺症があり、絆石そのものを所有することができない。

「……可哀想なひとだよね」少女は光を失った少年の亡骸へと近づき、既に止まった心臓へと手を添えた。やはりと言うべきか、鼓動音のひとつも感じ取れなかった。ねえ、と恋染は問うような口調で、口を開く。その心に巣食う化け物の言葉を紡いだ。「一回死んじゃったらさ、もうあとはぼくの好きにしていいってことだよね」少女は大口を開け、おえっとひとつ取り出した。それは柚乃下や釜罪にも見せたことのある世界で十しか存在しない鉱石だった。名を――「まだ少しでも可能性が残っているのなら、生きたいっていう執念が残っているのなら、これに禍力を流し込んでね。ぼくにできるのはそれくらいしかないから」恋染は躊躇なく拳大の鉱石を、亡骸となった柚乃下の心臓部へと穿った。引き抜く際には彼のねちゃりとした血液が、少女の掌を汚す。「覚醒しなかったらそれはそれで、ぼくはいいんだよ……一時的な避難場所として選んだっているのが本音だし」まさか死んじゃったひとの中に隠しているとは思わないでしょ、と少女は言い、黄金の青年を探しに走り出した。目的地へと決して辿り着くことはないという代償など、少女にしてみれば関係のない話である。土煙と亡骸だけを残して、周囲には誰もいなくなった。


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