015
ぼんやりと焦点が定まらない。世界にひとつだけにしか存在しない人生の書物が頭から零れ落ちそうな錯覚に陥る。背中に感じる物体は地面などではなく、樹齢数百年はあろうかという大木だった。ご丁寧に注連縄まで飾り付けられている。左肩に感じる激痛の他、柚乃下が現在負傷している箇所は数多くあった。右肩から前腕にかけての擦過傷及び裂傷、左肩関節部骨折、左五指の複雑骨折及び裂傷、右肋骨四本の複雑骨折、右足首剥離骨折及び裂傷、前頭葉を守る頭蓋骨の線状骨折及び裂傷。お陰様で柚乃下潤は再起不能はおろか生命活動すら満足に継続できないような状態となっている。全身に駆け巡る骨折や裂傷による激痛が、柚乃下という個の意識を未だ手放さない。まるで脳が手放せば最期だと認識しているかのような不可解な事象だった。呼吸すらままならない柚乃下は、ぼんやりと今にも暗闇へ飲み込まれそうになる意識を保ちながら眼球をゆっくりと動かした。自らが高速で飛んできた方角の木々は一本の道を作ってこの場所へと続いていた。大地には夥しい血液が飛び散った様子が今も尚描かれている。周囲の状況を見るに、一緒にいた彼女らも違った方向へと飛ばされたらしい。指先すら動かせない状況のなか、ふとこれまでの道程を思い出す。彼は無能力者なりの知恵を振り絞って今まで生きてきた。【Nu7】では在籍した小学校で様々な才能を開花させてゆくなか、単純な
それが、柚乃下潤の
だからこそ、彼は諦めない。諦観を以てすれば現状これ以上苦しむことなく、これ以上の痛みを増やすことなく
――――いやだ。
ぽつりと。誰にともなく呟いた決意は。
「ぎゃっははははは」
圧倒的な強者の
満月を背に一匹の獣は悠然とした足取りのまま、大木へ寄りかかる柚乃下へと言った。「これからだろォ? 遣いたくもねエ日本語を遣ってんだ。
呆気なく。躊躇なく。感慨なく。彼の物語は一旦幕を閉じたのであった。
地面へと絶えず流血する
「だめだよう。もがーのトコには行かせてあげない。きみはぼくが全力で止めるよ」
長髪携えた
「ってェなア! 仔兎如きが! 世界の王が誰なのかを思い知らせてやる!」
「そんな大きく言わなくても聞こえてるよ」青年の背後。一本の大木の裏から聞こえた声は、凄まじい速度で地面と平行に飛んでいる彼の鼓膜へ、涼し気に響いた。大木までの接触時間は残り零点零零零――――「きみはここで終わらせる。このあとにグリーディが控えているんだ。余計な時間をかけている暇は」
――――ない。「甘エよ、クソ兎」喋り過ぎだ、そう言った彼は、背中へ受ける衝撃を――――「じゃあな。交代の時間だ」――――。
太くて大きい木がへし折れる音というものは存外呆気ない。木には水分が多量に含まれている。軽快な響きではなく、まるで人体の骨が綺麗に折れたかのような、そんな音が響いた。少女は対象者を大木ごと撃ち抜く。真っ二つに裂けた向こう側で恋染の蹴足を受けた人物は、少女が口も交わしたことのない、むしろ見たことのない人間だった。「――――え」と思わず口を出たときには既に青年と入れ替わっていた黒服の男性は背骨から真っ二つに引き裂かれていた。上体と下体がぐるぐると左右へ散って森の中へと消えて行く。彼は既に事切れていた。下体は鬱蒼と生い茂る雑草の上へと滑り、上体は十数メートル先にある枝へと絡まって赤黒い液体を周囲に絶え間なく落としている。恋染は周囲を探るためにきょろきょろと首を動かした。が、既に青年の姿は目視できる範囲にはなかった。あー、ともうー、とも聞こえない得体の知れない声を絞り出した少女は、数瞬考えたあと、横目でとある地点を見た。そこに転がっているのは一日二日だが共にいた、西城と自らを引き合わせてくれた人物の亡骸だった。遠目で見ても生命活動の停止は明らかであり、ひとの情は持ち合わせているが、感極まって駆け付けるほど親睦な関係性ではない。恋染にとって西城こそが世界の中心であり、振り回されたい人物だった。彼女の周囲に存在する人間は、須らく同一のものであった。恋染は柚乃下の存在を嘗て誰かから聞いたことがある。それは西城本人だったのかもしれないし、【Nu7】で自分の肉体へ禊石を埋め込んだ科学者の発言だったのかもしれない。今となっては定かではないが、その人物に彼の詳細を聞いたことがあった。曰く、類稀なる
「……可哀想なひとだよね」少女は光を失った少年の亡骸へと近づき、既に止まった心臓へと手を添えた。やはりと言うべきか、鼓動音のひとつも感じ取れなかった。ねえ、と恋染は問うような口調で、口を開く。その心に巣食う化け物の言葉を紡いだ。「一回死んじゃったらさ、もうあとはぼくの好きにしていいってことだよね」少女は大口を開け、おえっとひとつ取り出した。それは柚乃下や釜罪にも見せたことのある世界で十しか存在しない鉱石だった。名を――「まだ少しでも可能性が残っているのなら、生きたいっていう執念が残っているのなら、これに禍力を流し込んでね。ぼくにできるのはそれくらいしかないから」恋染は躊躇なく拳大の鉱石を、亡骸となった柚乃下の心臓部へと穿った。引き抜く際には彼のねちゃりとした血液が、少女の掌を汚す。「覚醒しなかったらそれはそれで、ぼくはいいんだよ……一時的な避難場所として選んだっているのが本音だし」まさか死んじゃったひとの中に隠しているとは思わないでしょ、と少女は言い、黄金の青年を探しに走り出した。目的地へと決して辿り着くことはないという代償など、少女にしてみれば関係のない話である。土煙と亡骸だけを残して、周囲には誰もいなくなった。
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