014

 本日二度目の逃走となってしまった柚乃下、釜罪、恋染の三名は現在、部室棟がある校舎へと身を潜めていた。彼らが潜伏に選んだのは、夕刻釜罪がいた陸上部の女子更衣室だった。「やはは。危なかったね! あいつほんと容赦ないんだから」恋染は椅子に腰かけたまま朗らかに笑う。振り回されたふたりは緊張の糸を緩めることはできず、警戒態勢に入っていた。少女は続けて言った。「どこか痛いところとかない? 本当にぎりぎりだったから、最初からフルスピードで走ったからね。鞭打ちとかない?」「いや大丈夫だ。何度もありがとな」「私も問題ないわあ。ありがとう姫ちゃん」釜罪はみっつの眼球を既に展開している。それぞれの眼球はひとつは更衣室の出入り口を、ひとつは小窓を、ひとつは釜罪の肩あたりで浮遊している。「これがいちごの能力なの?」「そうよう」釜罪はひとつの眼球を自らの胸元へ移動させた。「さっきは言いそびれちゃったけれど、私の能力はふたつあるの。ひとつはこの子達、《私を見ろアイムデンジャラス》、この子達が見ている景色は私の脳へ共有しているわ。無論、頭の中では同時によっつの視界が展開されているわけで……はじめはうまく使えなかったけれど、今ではそのあたりうまいこと処理できているの」「……? よっつ?」釜罪は小さく笑い、自らの瞳を指差した。「私も見えているのだから、合計でよっつ、でしょ」「そっか。でも一緒によっつの景色を見ているのって、難しい能力なんだね」ええ、と釜罪は相槌する。「そしてもうひとつ《アンロック》。これは私と視線が合った人間を――――」彼女は禍力を《想》へ流し、現在進行形で視線を合わせている恋染へと行使した。笑顔のまま硬直する。《想》によって拘束された人間は、眉ひとつも動かせないので表情すら変えることはできない。「————こうして拘束することができるの。おっとっと、禍力を籠めても無駄よう。一度でも術中にはまってしまったら後出しじゃんけんはできないの。でも弱点はあるわ……今もそうしているように、常に視線を合わせ続けなければいけないの」だから、と彼女は続けて、視線と視線の間に掌を翳した。視線が交差しなくなったことにより《想》の効力が強制解除される。恋染は慌てて視線を下へと向けた。ごめんごめんと彼女は言った。「もう遣わないわあ。びっくりしちゃったでしょう。言葉で説明するより体験したほうが早いかなあと思ってね」「…………自分が動けないって怖いんだね」「生殺与奪の権利を握られるからねえ。と言っても、《想》は日常的に遣えない能力だけれどね。精々できて嫌いな奴を交差点のど真ん中で停止させることくらいかな」おいおい、という言葉を柚乃下は堪えた。そういった悪趣味なことをする人間ではないと重々理解しているが、あっけからんと口に出されてしまえば最悪の姿が思い浮かべてしまう。対して恋染は然して気にしていないような口調のまま言った。「いちごが言ってた弱点って……視線が遮られちゃったら駄目ってことなの? たったそれだけ?」そうよ、と彼女は言った。腕を組み長椅子へと腰を下ろす。周囲の警戒は解いていなかったものの、ふたつの眼球と柚乃下にほとんど任せてしまっている状態だった。「あの能力は厳密に言うと、対象者の瞳へ私の禍力を送り込むの。そして相手の脳へ私が命令するのよう、動くなってね。だから動けない。能力の発動タイミングは初めの数瞬だけよう。目が合って、禍力の道が対象者との間で出来上がってしまえば、能力を使用し続けなくともいいの」「禍力の道?」小首を傾げる少女に向かって、釜罪は、ええ、と相槌を打った。「一本————二本か。左右の目から見えない道をかけるのよ。その道が完成したら相手の脳へ私が干渉できるの」「…………」まったくわかってない様子の少女に、続けた。「目が合ったら相手、動けない、目と目の間に邪魔者が通過する、私能力、遣えない」「おお。成程!」何故に片言で話したのだろう。そう半笑いで思った柚乃下は、釜罪の眼球へと視線を向けた。相変わらず大きな物体だなと思った彼は、こちらを見たものに対してぞくりと背筋を凍らせた。「……たとえば? あ! でももうぼくには遣わないで!」「言葉で説明するだけよう」下を向いていた恋染は、声の主へと顔を上げる。《想》は継続中であったため、再度恋染の肉体は硬直命令を下した。口角をゆっくりと上げた彼女は、眼球のひとつへと命令する。《想》を使用し、眼球本体と恋染の瞳を共有した。ふう、と彼女は目頭を押さえながら後ろを振り向く。「共有っていうのはこういうことよう。《私を見ろ》へ引き継がせたことにより、私は自由に行動できるってわけ」お分かり? と締めた彼女は、今度こそ《想》を解除した。肩越しに少女を見下ろすと、不貞腐れた表情が垣間見えた。もう一度踵を返しながら近づき、頭をぽんぽんと二度撫でる。「ごめんねえ。実際に味わったほうが落とし込めると思って。意地悪しちゃったわあ」「……嘘つきはいけないんだ」はいはい、と言いながら釜罪は少女を抱き締める。「説明するのはいいんだが、呑気に構えてるのは如何なものと思うぜ。奴さんが言ってたグリーディって男か」扉の影に隠れながら気を緩めることができない。先ほど相対した際、唯一反応できたのは恋染だけだった。柚乃下は空を切ることしかできなかったのである。そしてあの眼————自分を見ていなかった。強く噛んだ唇が切れ、口内が鉄の匂いでむせ返りそうになる。ううん、と恋染は左右へ首を揺らしながら振り向いた。「グリーディはあのひとじゃないよう」「へ。俺はてっきりあいつがそうなんだと思ったんだが……」「ううん。グリーディはもっと、こう、なんていうんだろう。オジサンというか、なんというか。うーん……とにかく全然顔が違うんだ」「別人ってことか」柚乃下はそう言って想起した。あの異質な存在感を纏っていた青年は、いったい誰なのだろう。「あのひとはグリーディじゃあないけれど、本物は【Nu7】の守護を任されるほどの実力者には間違いないよ。しかも世界に十個しかない楔石をひとつ、持っている。本当なら一個人が動かせる人間じゃないんだけれど……今回は色々と面倒なことが重なっちゃって」「面倒なこと?」「うん。本当なら世界で未だ達成できていない楔石の複数持ちになれる予定だったんだけれど、ぼくが邪魔しちゃって……楔石を探しているんだよね。いやあ参った参ったえへへ」抱き締めていた釜罪は、少女を解放する。「邪魔って……いったいなにをしたの?」「特別なことはしていないよ」ただ、と言いながら少女は吐き出した。絶句する釜罪に対し、柚乃下は少女の掌にすっぽり収まる大きさの鉱石を指差す。確かに、と彼は思った。今まで見たことのない、存在感を放っていた。月明かりに照らされ不思議な光を表面に見せている。「……お前。それ」「そだよ。これが本来グリーディが得るべき報酬だった、禊石さ」「あなた、奪ったっていうの……信じられない。自殺行為よ」「自殺なんて考えていないさ。ぼくは至って真面目に、世界を救ったつもりなんだからね」だって、と少女は続けた。「いま世界が曲がりなりにも平和を保っていられるのは、世界中に散らばっている禊石の均衡があってのことなんだ。ひとつ持つだけでも国くらいなら終わらせられるっていうお墨付きなのに、ひとりがふたつ持っちゃいけないよ」ぬめりを残す鉱石を衣類に押し付け二度三度と擦った。釜罪の腕から恋染は放れ、すくりと立ち上がる。軽い調子で貴重な鉱石をぽんぽんと掌で遊ぶ。「ぼくがふたつ持つのも正直ありえないし、だからもがーに小勇者になってほしかったんだけれど、断られちゃったし。どーしよっかなーって思っているのさ」「先に言っとくけれど」そう前置きしたのは栗毛色の釜罪だった。彼女は冷ややかな視線を見せる。脚を組み腕を組み、よく見かける体勢になった。「私も潤くんもいらないからね。特に潤くんにはあげないで……それ危険なものよね」射竦める視線を向けられた少女は、歯切れの悪い言葉を咽喉の奥から発した。「あなたにも言っているのよう。ちゃんと聞いているのかしら」「え。ああ、……うん」びくりと反応した柚乃下は、バツの悪そうな表情を浮かべた。時折釜罪には自らの行動を先んじられていることがあると多々思う。好奇心すら向けることを嫌っているのだろう。睥睨とした眼を向ける彼女に対し、嘆息しながら両手を挙げた。恋染も歯切れの悪い言葉をやめ、やはは、と言って誤魔化した。さて、と釜罪は言う。「本腰を入れて話を進めましょう。こんなことをしている時間はないのだから」と彼女が言い切った直後のことである。

今までそこにいたはずの部室が――――消失していた。

会話のやり取りで気が緩んでいたのは間違いない。現に三者全員が呆気に取られた。柚乃下が瞬きをした刹那の間に、椅子も、ロッカーも、誰かが置いて行ったタオルも、一切合切塵もなく雲散霧消していた。見開いた目で辺りを見渡す柚乃下だが、どうやら消えたのは部室だけではないらしい。見れば彼らが通学を続けていた高校までもが、塵ひとつ残さず消失していた。残ったものと言えば、周囲を見渡す柚乃下と恋染、それに椅子から転げ落ちたような恰好で尻もちを地面についている釜罪――――そして。

「やァっぱこれが一番だよなァ。かくれんぼでも良かったんだがじゃねエし。ファッキンするなら、邪魔なモンは排除しなくちゃなア」

 数十メートル離れた場所で、両手を広げ口許切り裂く――獅子の如き青年だけだった。

 全身が総毛立つ。先ほど対峙したときとは明らかに纏う覇気が違った。恐ろしく鈍い動きで一歩、一歩と距離をつめてくる青年は、くつくつと嗤った。

「さて。仔兎チャン。退屈で退屈で仕方ねえんだ……」

 ぴたり、と青年は歩みを止めた。広げていた腕をだらりと脱力した。柚乃下は震える膝を横から思い切り殴りつけた。痛みなど、今この瞬間にはどうでも良いことだった。未だ尻もちをついた格好で、彼と同じく青ざめている釜罪の服を掴もうと、恋染を押しのけ腕を伸ばす。一歩踏み込み、微かに彼女の衣類へ指が触れた。指先を器用に動かし、やっとのことで端を指先に引っ掛けた。

 とりあえず。と。青年は。前。置きし。た。

 まるで背骨が氷柱へ切り替わったかのような錯覚。全身の産毛に至るまで総毛立った。

 釜罪は引っ張られた感覚を知り、柚乃下へと顔を向けた。恋染は既に彼らの近くにはおらず、青年へと向かって走り出している。柚乃下は釜罪の名前を――――。

仔兎オマエら三方向へ吹っ飛べ」

 かくして柚乃下潤、釜罪いちご、恋染初姫の三名は、散り散りにちょうど青年を中心に正三角形を描くように決められた場所へと刹那の最中には吹っ飛んでいた。残像すらも残るような驚異的な速度を保ちながら、彼らは大木や地面へ激突しながら彼方へ消えゆく。

 ひとり残ったのは金髪の青年だけだった。だが先程までとは状況が違った。

 逃げられた、のではなく。狩りのために、敢えて放ったのである。

 猛獣が小動物を狩る際、全力を尽くす。

 これはすなわち、そういうことである。

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