013

 眼前で泣きじゃくる少女を柚乃下は激怒した眼で見下ろしていた。ついかっとなってしまい女性に対して暴力を振るってしまった。右の拳は衝撃によってじんじんと痛み、殴った彼ですら、何故か大粒の涙をぽろぽろと流していた。殴ってしまったことに対する贖罪ではない。彼が怒っているのは釜罪いちごという人物が柚乃下潤という人間を憐れみ、尚且つ見下していたからに他ならない。積もりに積もった友情とも形容できる感情が粉微塵になってしまったかの如く衝撃だった。無論、彼が知る限り釜罪という女性はそういった感情の下、会話をしていないということは重々承知の上ではあるが、それでも尚、激怒の感情が止め処なく溢れていた。釜罪は殴られた頬を摩りながら、ごめん、と言った。「言い過ぎたわ……本当にごめん」「……いや。俺の方こそ。……殴って悪かった。ごめん」掌を緩め、頭を下げた彼は、続けて、でも、と前置きした。「……ありがとうな。お前の過去、教えてくれて……ひとりで抱え込んで辛かったろ」大丈夫だから、と言った彼は、涙を流す釜罪を正面から抱きしめた。やめて、と言っていた彼女だったが、力強く抱き締めたことにより安心したのか、まるで子供のような大声で、腹の底から大泣きした。後頭部を撫でながら何度も彼は大丈夫と呟く。ぎゅうっと彼の背中に腕が回された。やはり震えていた。先ほど精一杯の勇気を振り絞って話してくれた積もった恐怖感が、一気に流れ込んでいるのだろう。泣きじゃくる彼女は、しばらくの間、二人きりの宿直室で寄り添っていた。

「ただいま! あったよー。これがいちごのサイズで、こっちが潤の……?」勢い良く扉を開けた恋染が目にしたのは、床に転がる柚乃下と、宿直室のソファで座っている釜罪だった。小首を傾げながら少女は左右に持つ上靴を見せる。「ありがとね姫ちゃん。っていうかそれどこにあったのかしら」「潤といちごって一年生なんだね。昇降口行って探していたらふたりの上靴を見つけたから、これだったら間違いないよね」はい、と言いながらふたりへと上靴を投げる。受け取ったふたりは、素足のまま靴を履く違和感を覚えながら「ありがと。確かにね、そんなことにも気が付かなかったとは……我ながらなんて浅ましい」「だな。普通に考えりゃ誰しもそうする話だったわけだ……ありがとうな恋染」「律義だねえ。もがーの関係者らしいね」恋染は宿直室の冷蔵庫を開けると、入っていたペットボトルの水をがぶりと飲んだ。ひと口で半分ほど飲み干した少女は、そういえば、と言った。「当直のひとってどうしたの? ここにきたときにはいたよね」きょろきょろと辺りを見渡す少女はふたりへと投げかける。ああ、と言った柚乃下は続けた。「佐藤さんな。いやあのひとは近所のばあさんの息子でな。いろいろと融通が利くんだよ。まあ都会でもあるまいし、この辺り全員と家族みたいなもんだからな……今回は学校で泊まってみたいってごり押ししたら、しょうがないかって言って帰ってくれた。まったくしょうがなくないって言うの……仕事しろ仕事」自らを棚に上げての発言ではあったが、今回に関しては好都合というより他なかった。宿直室から笑顔で帰った佐藤は既に自宅へ戻っていることだろう。もう一度来てくれといった日には、焼酎赤くなっている頬を携えてくるに違いない。佐藤さんのことは置いといて、と柚乃下は言う。「で、いったいいつまで待機なわけ? 西城さんのことだろうから、終わり次第なんらかのアクションを見せてくれると思うんだけど」「そうね……スマホも持ってないうえに私達が近づいただけでも邪魔だろうしねえ」ふーん、と曖昧な相槌を打った彼は、宿直室の一角でごろりと寝転がった。当直のひとが仮眠をできるよう配慮して作られた三畳分ほどの空間。先ほどまで敷いていた布団は折り畳んで収納スペースへ入れてある。所謂雑魚寝というものだった。脚を組み、後頭部と畳との間に雑誌を入れた格好のまま、彼は大きくあくびをした。「……夜の学校って始めてきたけど、やっぱり静かなんだな」「……まあ。昼間は雑多しているけれど、違和感が凄いわよねえ。怖いっていうイメージと遜色ないわあ」「ぼくは学校に来るのが初めてだから、誰もいなくとも面白かったよ! 等身大の骸骨も見れたことだしね!」「遅いと思ったら探検でもしていたのか。まったく元気な奴だよお前は」えへへ、と照れ笑いをした少女を無視して、なあ、と自分の分の飲み物を冷蔵庫から漁り、適当なコップに注いでいた釜罪へ、声をかけた。釜罪は小さく嚥下したあと、水道の水で手洗いしながら、なあにと返す。「あいつら【Nu7】の人間なんだろう。お前とそこのガキが目的で、……それ以外の人間はいったいどうするつもりなんだろうな」「————そうね」「普通に考えるなら……口封じだよなあ。一応顔も所属も割れまったわけだし……」「————そんなことさせないわよう」はっきりとした口調で、彼女は言う。「そんなこと……絶対にさせない」

「だったら」言いながら柚乃下は起き上がる。ちょうど宿直室にあるたったひとつの窓から、妖しげな月光が差し込んでいた。「足手まといにならないよう、ちゃんと作戦を考えるのが無難だな。……おい恋染」呼ばれた恋染は、現在宿直室にある食器棚の中を物色していた。おそらくは何かしらの食事にありつこうとしての行動だろう。うん、と元気に返事をした少女は立ち上がり様に頭を棚へとぶつけた。「お前の能力ってなんなんだ?」「————?」きょとんとした眼差しで、少女は柚乃下を見据える。彼は、いや、と前置きした。「西城さんが負けることはない……それは大前提だ。だけれど万が一、億が一、京が一の確率で負けてしまった場合のことも考えようと思ってな」「そうね」同調したのは釜罪だった。彼女は柚乃下の近くへ腰をかけ、隣をぽんぽんと叩く。「こっちにいらっしゃい、それで話し合いましょう」純粋な、子供らしい瞳のまま少女は思案した。瞳の奥に影が見えた。彼は首を傾げると、再度名前を呼ぶ。しゅんと項垂れているかのような姿に、柚乃下は捨てられている仔犬を連想した。ため息を吐きながら立ち上がる。恋染へと近づき、横腹を乱暴に掴み上げ、半ば強制的に釜罪が叩いていた畳の前まで移動させた。「辛気臭い顔しやがって……いいから早く来いって。時間ねえんだから」「ちょっと乱暴よう。姫ちゃんが嫌がっているでしょう。ごめんね、この子阿呆だから言葉足らずなの」「だあ! うるせえ」痴話喧嘩に等しいやり取りを間近で見た恋染は、ううん、と首を振った。「ごめん、あんまり優しくされたことないから……びっくりしちゃった。……よし! いっぱい喋っちゃうぞ!」おー、とひとり拳を上げた少女は、釜罪の膝の上へと腰を下ろした。子供をあやすかのような挙措で、釜罪は鮮やかな紅色の髪を手で梳かす。嬉しそうに表情を緩ませた少女は、そのまま釜罪へと背中を預けた。

獅子オレを前にして、仔兎共が作戦会議って奴か? なかなかいいシチュエーションじゃアねえか。舐めてやがんのか?」

 突然。柚乃下の背後から聞き慣れないイントネーションでの日本語が響いた。彼は振り向くことと退避することを同時に選択する。彼が取った行動は————振り向き様の左上段回し蹴りだった。ほとんど瞬時に反応した彼は、ぐるりと風景が線になる中、的確な位置を定めて振り抜いた――――はずだった。本来であれば左足の甲へ痛みを伴う衝撃が発生するはずだったが、そういったものを感じず、左足は虚空を無造作に蹴り抜いただけだった。

「あア。あンまり……日本語っつウもんは得意じゃねえンだわ。んっんん……どおだこれ。上手いモンか?」あアん、と青年は柚乃下を無視したまま、恋染の前へと立った。またしても背後を取られたと柚乃下は、ちょうど一周するかのように反転した。どこか神々しい、そんな感想を彼は胸中思った。無造作に伸ばされた金色の髪は青年の腰辺りまで伸びており、どこかの民族衣装に身を包んだ姿はより青年という存在を際立たせている。着崩した衣装から伸びる手足は、褐色がかっており、日に焼けた色だけではなく、もとよりそういった肌の色なのかもしれないと、柚乃下は感じた。そして彼は青年が見下ろすふたりの窮地を見過ごせない。即座に行動へ移し――――

「うざってエな子兎オマエ。お呼びじゃねえンだわ」青年は肩越しに柚乃下を睨んだ。そして「死————」行動を遮ったのは、恋染だった。少女は背もたれにしている釜罪を一瞬で抱え、言葉を言い終える前に柚乃下を抱えて宿直室を飛び出した。時速にして三百キロメートルは発生していただろう。弾丸のようなスピードで扉を破り、構内を多角的に移動する。抱えられている両者の視界はまるで洗濯機に入れられているかのような目まぐるしく回転していた。突然のことで声すら発することができないふたりは、そのまま恋染の三次元的な跳躍に対し、歯を食いしばって耐えるしかなかった。

 室内に土煙を舞わせた本人たちの爆速的な退室に、青年は唖然とした表情を浮かべていた。片眉が上がり、鳩が豆鉄砲を食ったようである。沈黙すること数秒間。青年は、くつくつと肩を震わせる。大口を開け、腹の底から哄笑した。身を捩って腹痛を誤魔化す。掃除をしているとはいえ、ひとによっては抵抗があるだろう床へ寝転がり、脚をバタつかせながら笑う。正に抱腹絶倒であった。一頻り笑い終えた青年は、片膝を立てながら目尻に涙を浮かばせた。「あア……最高だ」と言って、やはりくつくつと嗤う。扉の前でぬるりと動く影があった。その影は哄笑をしていた彼を気遣って、自分に気付くまでずっと屹立していたのである。影は青年の視線を感じると、綺麗な角度で頭を下げた。

「————この度は私の不始末を」

「誰だお前、消えろ」

 男性は瞬きひとつする間に、薔薇ような香料と共に雲散霧消した。痕跡ひとつ残さず消えた男性に対し、何の興味もない青年は、ぐっと大きく伸びをした。意味深に歪んだ口角がひとりだけになった部屋で月光に照らされていた。

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