010

「歩けど歩けど木、木、木……森って漢字の成り立ちを今になって真摯に受け止められるな」跳躍によって大移動を果たした柚乃下、釜罪、恋染の三名は、適当な場所へと降り立った。周囲には森しかなく、移動してきた場所が自宅から数キロ離れているだろうということ以外、彼にとっては何の情報もなかった。着地してから早二十分。彼らは恋染を先頭に一先ず山を下っていた。今歩いている獣道が人里へと続いているかは不明瞭だが、身を潜めろとの言葉の意味を十重理解している柚乃下は、文句のひとつも零すことなく歩を進める。「で、一旦どうする。西城さんがあいつらを撃退してくれるんだろうけど、俺達はどこかに隠れたほうがいいのかな」そうね、と前置きした釜罪は、現在柚乃下に背負われている形となっていた。所謂おんぶと言われる行為であった。なにも柚乃下が彼女の臀部を触りたいから背負っているわけではなく、彼ら三名は素足であった。彼にしてみれば恋染の足裏が傷つこうが構わなかったが、釜罪に対してはそういうわけにいかなかった。嫌々ながらしゃがんだ彼は、ん、と短く促すことにより、背負う流れとなったわけである。釜罪はしっかりと柚乃下の首へと腕を絡ませていた。「潜めるにしても、場所は限られるわねえ」だよなあ、と彼は相槌を打った。「お前はどうするのがベストと思う?」柚乃下は初めて、前を歩く紅蓮の少女から名前を聞いていなかったと知った。あー、とも、うー、と言葉としても成立していない言葉を口籠りながら、今更名前を訊くのは失礼だなと思いつつ逡巡する。はあ、と大きなため息が柚乃下の耳を擽った。「あなた。お名前はなんていうのかしら」柚乃下の胸中悟った釜罪は、おぶられた格好のまま、前を歩く少女へと訊いた。少女はくるりと踵を返し「ぼくの名前は、恋染初姫。みんなからは姫って呼ばれてるよ」「こいぞめ、はつひめ、ねえ」うん、と溌剌に返事を返した恋染は、前を向きながら「潤といちごだよね。もがーからいろいろ聞いてるよ。【Nu7】でなにがあって、ここに来たのかも。全部」もがーから聞いているから安心して。そう言った恋染は、小さく笑った。にしても、と少女は続ける。「潤って本当に一般人って感じだよね! もう少しスピードを上げてたら死んじゃってたかもしれないもんね」事実、恋染が一足飛びで脱出した際、急な血流の流動により一時的にとはいえ彼は意識を失っていた。それも三十秒ほどで覚醒したが、そのときの取り乱しようはとてもではないが描写できるものではなかった。うるさいな、と彼は言って「あんまり禍力で強化することが得意じゃねえんだよ。常に零か百かだからな。調整とかやってできるものでもねえしな」「あはは。もがーとかに教えてもらわなかったの?」通常の高校生であるならば、もっと言えば小学生にだって禍力というエネルギーを四肢へと流すことにより強化することができる。これは現在の履修科目ともいえる極々当たり前の技術であった。世界的有名なスポーツプレイヤーですら、試合の最中に禍力を調整し自らの性能を引き上げている。全ての競技に於ける禍力での身体能力強化は最もポピュラーなトレーニングとなっている。そして絆石による能力効果も有効であり、例を挙げるとするならば、世界一の野球選手として名を馳せている選手は、自らの能力を行使して世界一と銘打たれている。能力を使用するにあたって様々な規約があるものの、ルールに則って行使する分には構わない。柚乃下は足裏の小岩で怪我をしないよう注意しながら「まあ。できるに越したことはないんだが」「だめよう」耳の横で聞こえた声の温度は低かった。「ジュンくんはだめ。代償なんて支払わなくていいなら、払わないほうがいいわあ」既に自分はふたつもの能力を開花させている釜罪は続けて言う。「それにしても、姫ちゃん? あなたはわざわざなにをしに来たのかしら。そこんとこ西城さんからも説明を受けてはいないのだけれど」うーん、と腕を組む少女。しばしの逡巡のあと、まあいっか、と前置きした。「もがーが言わなかったってことは、ぼくから言わなくてもいいことだろうけど……」傾斜を滑り降りながら、少女は言った。「ぼくの目的はふたつあるんだよね。まずひとつ目」中学生ほどの身長しかない少女は、小さな指を一本立てた。月が出ているとはいえ、森林のなかでは視界が悪い。柚乃下の位置からは指を立てたことすらわからなかったが、少女は構わず続ける。「いちごと潤ともがーの安全の確保」くるりと反転し、歩を止めた。付き従っていた形の柚乃下も同様に停止する。数十キロもある人間を背負った状態での下山にそろそろ休憩と言いたかった彼にしてみれば、この停止行動は救いであった。そんな気配を感知した釜罪は、彼の首筋へ咬みつく。手加減されているとはいえ、犬歯を伴った甘噛みは、少し痛かった。恋染の言葉を反芻した柚乃下の言葉に、うん、と返した恋染。「いちごが所属していた研究施設の室長のこと、覚えてる?」首筋を噛んでいた釜罪は、ああ、と言うと右斜め上へと視線を移動させた。「あのひとよねえ。THE・老害」口が悪い、と思った柚乃下だが、彼は【Nu7】所属時、同施設で育った釜罪の研究施設に関しての知識はなかった。わからない人間が口を挟めば、話は進まないことを理解している彼は、見に回った。恋染も棘のある言葉を聞いて小さく笑う。そして、そうだよ、と言った。「あの自由なのか不自由なのか、研究好きなのか嫌いなのか。あのよくわからない研究をしているよくわからない研究者だよ」「思い出したわ。一応部下だったわけだしい」「なら、話は早いや」少女は続けた。「その息子が組織を追放されかかっているんだよね。というのも、いちご風に言う老害がポカしちゃって……一族郎党皆殺しならぬ、追放というわけだよ」「……【Nu7】から追い出されるっていったいなにをしたらそうなるの?」

「人体実験の結果、被験者を二百名ほど殺しちゃったんだ」

 釜罪の表情が見えない彼は、それでも青ざめているような雰囲気を感じた。あの、と彼は続ける。「それって被験者の合意の上なんだよな。だとしたら相応の謝礼金は支払っているだろうし、こんな言い方は好きじゃないが、自業自得なんじゃないのか?」「違うよ。合意の上ではなかったんだ」恋染は小さく嘆息した。「【Nu7】内に於ける学生寮の一角に、無断で劇薬をばら撒いたんだ」しかも、と続ける。「その劇薬というものが厄介なものでね……吸った瞬間に大半の人間が死んじゃったんだ」「……生物兵器」恋染は首を振る。「違うよ。氷室室長————」ああ、もう違うんだ、と少女は訂正し「氷室元所長が作り出したものは、絆石に代わる異能力を生み出す劇薬だったのさ。しかも動物実験を介したものでもなく、いきなり人体実験を行ったってわけだし……本当に狂ってるよねあのひと」ぼくは嫌いだからすっきりしたんだけどね、と朗らかに言い終えた少女に対し、釜罪が咬みつく。「あなたねえ。ひとがたくさん死んじゃったんでしょ。なんで笑えるのよう」叱責を受けた少女は、きょとんとした表情を浮かべた。だって、と少女は言った。「ぼくにはどうすることもできなかったんだ。みんながみんなゲリラ的な行動に驚いて焦って……でもそれって今更どうすることもできないでしょ。だったら、死んじゃったひとたちを悲しむのはぼくらしくないもん」瞬間的に沸点が沸いた釜罪を彼は宥めながら「お前も本当、おかしい奴だな。まあまあいちごが怒るのもわかるけど、他人のことで怒っても仕方ねえだろ。やめとけ無駄だ」と言った。首筋を思い切り咬みつかれた彼は、小さく呻きながら、それで、と少女へ向けて言う。「その元室長と俺達の安全の確保っていうのがまだ繋がらねえんだよなあ。いったいどういうことなんだ?」「一族郎党追放っていうところだね」恋染はひとつ伸びをした。「氷室元室長が残したひとり息子が厄介なひとでね。彼はまあ、もともと自暴自棄な人間だったんだけど、父親が地下牢獄へ幽閉されたことを知り、そして追放処分を受けたことを、嘗ての天才のせいにしたんだよ」「天才?」そう、と恋染はがじがじと咬みつき続けている釜罪へ指差した。「自分の父親の研究を、一蹴したひとに向けての復讐だよ。つまりは釜罪いちごに対する逆恨みだね」「……意味がわからねえな」「うーん。まあ嚙み砕いて言うと、まだ小さかったいちごが、氷室元室長の研究を見て、馬鹿にしたことが原因かな。小さなプライドを刺激された氷室元室長は、研究路線を半ば無理やりに変更した」「私は別に莫迦にはしていないわあ」そろそろ口の中が汗の味でいっぱいとなった釜罪は、恋染の言葉を遮る。「だって。本当に悪気はなかったのよう。思ったことを言ったら怒られたっていう」「ちなみになんて言ったんだ?」えー、と釜罪は思い出す仕草を見せた。そして、ああ、と前置きすると「時間の無駄だから、路線を変更して研究費を節約したほうがいいんじゃない? だったかしらあ」「……お前その時何歳なの?」「中学生」「…………そりゃ怒る」なんで! と彼女は柚乃下の背中を連続して叩いた。彼は無視して話を進めた。「なるほどな。で。息子がいちごを逆恨みして、俺の不幸はお前のせいだって感じで強襲かけたわけ」小さく笑う柚乃下。「お金持ちの考えることは些か理解不能だな。金と時間の無駄だろう。こっちには西城さんがいるんだ。負けるわけがねえ」「うん。普通なら負けないと思う」今回は普通じゃない、と恋染は言った。「ショッテンパード=グリーディっていうのが指揮を執ってるんだ」あまりにも聞き慣れない人物名を上げられた柚乃下は、戸惑いながら肩越しに釜罪へと視線を向ける。肩に乗せられている彼女の掌はかたかたと震えていた。歯と歯がぶつかる音が鼓膜へと響く。震えているのだろうと認識した頃には、釜罪は、なんで、と声を振り絞っていた。いつもは気丈に振り舞う釜罪が、こうも恐怖している姿を見ることは本当に珍しかった。それこそ彼が知る限り、【Nu7】から脱出をしたあと、引き籠っていたとき以来ではないだろうか。あの頃の彼女は見るも絶えなく、いつも誰かから狙われていると日常にすら恐怖していた。部屋に這入ろうとするだけで、たちまち彼女は泣き崩れたこともある。震える釜罪を宥めるようにぎゅっと背負う腕に力を籠めながら、彼は恋染へと訊く。「誰だそれ。外人か?」「今どき外人だなんて差別的な……人類みな兄弟っていうでしょ」「勝手に言わせとけよ」「ぼくも兄弟だとは思わないけどね。男ばっかになるし」「孔子が生きていた時代はそういう時代だろうから配慮もクソもないな」柚乃下の冗談に恋染は何も答えなかった。彼女は件の名をもう一度呟いた。「潤は知らないだろうけど、そのひとが禊石っていう超ハイスペな鉱石を持っているんだ。まあそれ自体は大したことはないんだけどね。ハイスペ鉱石を持っているのって世界で十人しかいないし。覚えなくともいいよぅ」「絆石とはまた違ったものなのか?」そうだよ、と彼女は続ける。「世間には公表されていないらしいけどね。いわゆる救世主さまの御力の結晶体ってやつだよ」ああ、と彼は頷いた。「英雄様のことね」成程、と彼は呟いた。のちに救世主と呼ばれる存在となった彼らが世界へ言葉を発したのは今から約百年前の出来事だった。世界大戦後の疲弊し切った各国の戦力を見透かしたかのような出現だった。北太平洋に突如として出現した大陸。目撃者であるアメリカ合衆国海軍所属一等兵であったウィリアムという男性は、周囲警戒の演習中に瞬きをひとつすると、怒鳴り散らす軍曹の背後に巨大としか形容できない大陸ができていたと発言した。その場所は北緯三十二度、東経百六十七度というハワイ諸島より北へ約十七万キロの海上であった。北太平洋に現れた大陸へ上陸した彼らは、そこで三人の得も知れぬものと出会う。これこそが世界と三人の英雄との邂逅であった。その後世界へ新たな変革として禊石という鉱石を発表した彼らを中心として、第二次世界大戦が勃発した。差し当たり【Nu7】で受けた授業の内容を軽く思い出しながら、柚乃下は言う。「つっても英雄なのかねえ本当に。あいつらが現れなかったら第二次世界大戦っていうものがなかったんじゃねえの。そう考えれば災厄であっても英雄とは限らねえだろ」「馬鹿だなあ潤は。重要視されているのは世界の常識を根底から覆したという点だよ。彼女らが現れなかったらいちごやもがーも持っている絆石っていう人工鉱石も開発普及されなかったんだし。そういうところがおこちゃまなんだぞ」「俺より年下のガキに言われたくねえわ」咳払いをひとつ。柚乃下は暗闇に慣れ始めた視界を確保しつつ前進した。「こんなところでくっちゃべってる暇はないだろう。いいから早く隠れそうなところに行くぞ」三歩歩いたあたりで、恋染も野兎のようについてきた。「ははん。その口ぶりでは当てがあるということですな。もー、潤ったら」馬鹿、と呟いた彼の言葉は小風吹く森によって掻き消された。

 しばらく下山を繰り返していると、見慣れた道へと出てきた。周囲を確認する三名だったが、追っ手なしと判断すると、「じゃあ。あの学校に行く?」と恋染が約数百メートル離れた高等学校を指差した。正確な時刻は不明ではあるが、当直の人間以外はいないだろうと彼らも同意。次の目標とした。できるだけ開けた道のなかを歩くのではなく、小動物のように影から影へと移動する。その間も釜罪はひと言も言葉を発さず、ただ黙って彼の背中で震えていた。先を行く恋染を視界に入れつつ、彼は言った。「大丈夫か? ずっと震えてるじゃねえか」「————怖いわジュンくん」「……珍しいな。素直に怖いだなんて」「————本当の本当に、怖いのよう」肩に載せられた華奢な掌が、ぎゅっと彼の衣類を掴む。そういえば、と彼は思う。彼女がこうもしをらしく頭を垂れているのは、効き慣れない人物名を恋染から聞いた直後だった。怖いという感情を口にするということは、釜罪は過去にその人物と相対したことがあるのだろう。校門からではなく、宿直室がある旧校舎のほうへと彼らは塀を登って向かった。「聞き覚えがある奴なのか」誰のことを指すのもやめた。柚乃下は自分よりも頭の回転が速く、そして思慮深い彼女に伝わる言い方をしたのだ。彼女は言う。

「————【Nu7】から逃げてきたツケが回ってきたのよう」


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