009

 ありえない方向への力を感じた頃には、柚乃下の身体は玄関から拒絶されたかのような速度で引っ張られていた。呼応するように玄関の向こうから乾いた音が三度連続して聞こえた。三発の鉛玉は先ほどまで立っていた彼のちょうど顔の位置を通過すると、そのままベランダの窓をも貫通した。遅れて硝子が割れ、引っ張られる力によって九死に一生を得た柚乃下は、使用者の胸元へとすっぽり収まる。「危なかったな潤。よかったよ間に合って」顔を上げると西城はニヒルに笑い、彼を自らの背後へと下がらせた。テレビから目を離した恋染は、俊敏な動きで玄関へと向き直る。「あれ。おかしいですね。位置情報的には間違いないと思ったのに」この場には似つかわない声が玄関の向こうから聞こえた。声質で判断するに女性だろうと柚乃下は思った。続いてドアノブが回り蝶番が鳴く。

「ほら、言ったじゃないですか。やっぱり合ってましたよぅ」現れた人物は小さく手を振った。「知り合いか?」「そんなんじゃねえよ」彼はそう返すが、確かに見た顔ではあった。夕刻校舎の前で会話した女性だったのだ。短く切りそろえた髪を振りながら柔和な笑みを浮かべた女性は柚乃下へ向けて手を振る。柔和な笑みから大人の女性が見せないであろう崩れた笑みへ変貌した彼女は、黙って睨みつける柚乃下を見て尚も黄色い声を発した。状況が異常であり、うまく呑み込めない柚乃下を庇う形となった西城は、あのさあ、と前置きをした。「ひとん家の物壊すなよ。常識ねえのか?」切り揃えた女性は表情を戻すと「すみません。こちらの都合でとある人物を探しておりまして」と言った。柚乃下の背後、浴室の扉が開いた。飛び出てきた釜罪は、湿った髪をそのままに状況を一瞥する。「姫っち! いちごの傍へ行け!」西城が言い終わるよりも速く、少女は既に釜罪の前へと移動を終了させていた。さすがと言った西城は改めて眼前の女性へと向き直る。「探してるから物ぶっ壊してもいいっていうのか? そりゃまたずいぶんと、自己中心的な考えだな」「いえ。別にこちらの都合に合わせていただく必要はないですよ」女性は返す刀で言い放つ。「私達が探しているのはそちらにいる、釜罪いちごさんと恋染初姫さんの二名です。ああ、個人的にはそちらの男の子も一緒に連れて帰りたいですが……私用になっちゃいますので」「そんなことは聞いてねえ」こほんと女性は咳払いをひとつ。「申し遅れました。私【Nu7】所属の者でして。名前を」

「聞いてねえ」西城は己の能力を爆発的に解放した。対象となった女性が自らの名前を言い出す前には、彼女の姿は目視できない速度で吹き飛ばされていた。軽トラックの側面に背中を打ち付けた女性は、そのまま身動きができなくなったのか痙攣を起こしていた。能力者であろうがなかろうが、彼の知る西城もがみという女性は常に先手必勝を掲げている。今回も一瞬にして最大出力を放出していた。出し惜しみはせず、叩きのめす。これが西城もがみが掲げる勝利への戦術であった。西城は後ろで守っていた柚乃下の服を持つと、「姫っち、一旦逃げろ。潤といちごは死んでも守れ。あとで合流する」と言いながら、ゴミを投げ捨てるような気軽さで恋染へと柚乃下を投げた。放り投げられた柚乃下は、恋染に片手でうなじ部分の服を掴まれ、片方の手で釜罪のしっとりと湿る衣類を掴んだ。「潤、いちご」禍力を脚へと集中させた恋染。その彼女を見た西城はふたりを呼ぶ。呼応し西城を見つめるふたり。状況が呑み込めない柚乃下と、状況を理解している釜罪は、それぞれに違った表情を西城へと向けていた。「大丈夫だ。とりあえず姫っちについていれば問題はないから。とにかく身を潜めろ。いいな」返事をする前に、恋染がふたりに向けて言った。「口開けないでね。舌嚙んで死んじゃったらぼくがもがーに怒られちゃうから」瞬間。恋染は常軌を逸した速度で、ベランダの割れた部分を器用に回避してその場から跳躍した。柚乃下の視界は急激な酸素不足によって強制的に閉じられる。血流が急激な速度の変化によって偏ってしまったからである。

 視認するよりも速く彼方へと跳躍した恋染を横目に、西城は小さく嘆息した。彼女が脳内で想像するに周囲には約十名ほどの人員が配置されているのだろう。ふんと彼女は息を吐いた。おいおい、と言いながら髪を後ろ手でひとつに縛る。長髪の黒髪はさすがにこういった状況に於いて相応しくないとの判断だった。瞬間————開け放たれた玄関とは真逆。恋染が跳躍の際に通り過ぎた場所から男性が飛び出してきた。彼は構えた拳銃を二度三度と発砲した。「出番だぜお前ら」西城は体内で保管している絆石のひとつへ禍力を大量に流す。一匹の薄桃色の小猿が目の横に顕現した。機嫌良くひと鳴きする小猿は禍力で作り出した眼鏡を西城へとかけた。禍力によって強化された眼鏡は、映るもの全ての情報を西城の脳内へと送り込む。弾道予測、対象物への到達時間、射角など。言い換えてしまえば数瞬先の未来を視ているかのような能力だった。合計三発の鉛玉を左右の動きを交えて紙一重で躱した。続けて男性は能力を発動した。西城は既に男性へと飛びかかっていた。男性が発砲し躱された弾丸へ能力を行使する。真っすぐ直線状に飛来していた銃弾は、見えない壁に跳弾し、方向を予測不能ランダムへ変化させた。禍力で具現化した眼鏡の効果範囲内は視界内というありふれた条件がある西城は、次々と顕現する小猿へ命令を下す。耳の横には薄緑の小猿が幾何学的な模様の円盤を耳へと装着した。周囲の聞き取りたい音がクリアに聞こえ、予測点を導き出すことにより、眼鏡を行使せずとも回避することが可能となった。乱舞のような流動的な行動をとりながら、西城は困惑する男性の前へと辿り着いた――――殴打のための踏み込み。踏み締めた畳から突如として無数の針が現れた。

 ――――ああもう。うざってえな。

 剣山化する針の筵を彼女はそのまま踏み抜いた。頬を殴られた男性は慣性の法則に従い、その圧倒的な力によって吹っ飛んだ。無数の銃弾はあらぬ方向の壁へと突き刺さり、効力を停止する。直径数ミリにも満たない針の山から足を引き抜く。振り向くついでに彼女は常時発動下である五つの能力に対し、最大限の禍力を流し込んだ。直後に西城の肉体は《陽気な連中フルモンキーズ》によって次々と強化されていく。予想未来が見える眼鏡を装着し、耳には特定の音を聞き分ける円盤、鼻には動物のようなマスクをしており、そのマスクの下には狂暴な犬歯が備わっている。そして極めつけは両腕両脚に施された鋼鉄の装甲だった。「うっき」「うきっき」「うっきっき」「うきゃ」「きょーう」桃、緑、青、赤、黒の五匹の小猿はきゃいきゃいと彼女の周囲に浮かんで激しく乱舞していた。

 ————周囲の人間はざっと二十人か。予想よりいたな。……まあ姫っちがいるからだろうな。むしろ他の処で待機している連中もいるか……めんどくせえなあ。

「さあ行こうぜ踊ろうぜ。ここは世界一熱い場所だ。存分にディスコろうぜ猿たち」一斉に猿叫を発した猿たちは、自らが生み出した能力の道具へと吸収された。五指にまで施された装甲を握り込む。約七年ぶりの五体同時顕現。やりすぎてしまわないか心配だったが、微調整すら必要なかった。円盤が急速回転し、周囲の音を鮮明に彼女の脳へと送り込む。玄関の壁側に配置されている男性たちは、胸元から拳銃を取り出し、身を乗り出して銃口をこちらへと向けた。西城は冷たい指先で髪の毛をかき上げる。「つーか。あたしの能力を調べもせず来てんのか? だとしたら奪還どころかこの場から無事に逃げることすらできねえぜ」

「…………あなたの能力は全部で五つです」満身創痍、額にできた大きな切り傷からは大量の出血を見せた未だ名乗れていない女性が立っていた。彼女はふらふらと足取り覚束ない状態のまま続ける。「……引力と斥力を操作する《天地を繋ぐ鎖リパルアトラ》……身体能力を向上させる《触らぬ神に祟りなしアンタッチャブル》……五感に属する箇所を強化する《陽気な連中フルモンキーズ》……超速再生、《破戒レザレクション》」女性は出血多量のせいもあるのだろう、一度大きく深呼吸した。こちらを睨む瞳には強く憎しみが籠められていた。西城は久しく感じなかった敵対されるという圧迫感を、ニヒルな笑みで返した。「そして一番厄介ともいえる能力————対象にならない能力、《かくれんぼうアンサーチ》」そして、と女性は続けた。「私の名前は西室さいか、あなたの足止め部隊のリーダーとして、ここに参りました」西室は合図を出す。直後に連続した銃声が玄関の壁を貫いた。西室が待機させていた戦闘員約八名による一斉掃射の銃声だった。

 は、と西城は笑った。彼女の能力を理解して、なぜ対人対象である銃を撃つのかが理解できなかった。《かくれんぼう》の能力により、能力者相手だろうが銃口だろうが、西城目掛けて振るわれた暴力は必ず当たらない。飛び交う銃弾すら、奇跡的な確率が底上げされかすり傷すら負うことはない。だが、と西城は薄く笑う西室の笑みを見て、あえて見へ回る。次に何をするのか、これまでの敵対者は全員西城の能力を知るや否や脱兎の如く逃げ出したものだが、眼前で震えて立つ彼女は逃走どころか敵対の意思を向けている。逆らう相手は屈服させる。西城の心の中にある信条が、数瞬ばかり彼女の行動を停止させた。刹那のなかの一刹那。西城の肉体は一瞬にして業火に呑まれた。熱いとか痛いとかそういった反応ではなく、彼女は息ができないことに対して焦りを見せる。

「————本来私の力ではあなたに対して効力を持たない。一方的な片想いのようなものです」背後から氷のような声が銃声の中に響いた。彼女は青く装飾した爪を触りながら、禍力の出力を強めた。連動して獄炎の威力が増す。呼吸を止め、焼き爛れる皮膚の痛みなどを無視して、西城は声の主へと振り向いた。短く刈られた短髪、女性らしからぬ見た目に反するような大きな胸部を携えた女性は「————燃杭と申します。協定内での攻撃にとどめておりますので、どうか安心して死亡してください」と言い、更に禍力の出力を増した。もはやがらんどうとなった室内にすら炎の手は伸びており、あちらこちらから炎が上がる。「あなたの《かくれんぼう》は確かに強力ではあります」西室はスーツの袖で口元を塞ぎながら言った。だけど、と西室は前置きした。「対象に取ることができない。言ってしまえばその程度の能力ですよね」完全無欠な能力などありません、と彼女は続けた。「要は、あなたを対象にしなければ有効ということでしょう」「差し当たり、私が対象を取ったのは————西城もがみの周囲一メートル範囲。そして炎があなたを包み込んでしまった」燃杭は冷たい視線を崩さない。「まあ言葉遊びのような、ルールの裏をかくやり方は気に食わないが、仕事に私情を挟みません」銃声は鳴り止むことはない。

 ————成程。銃声は燃杭って奴から気をそらす手段ってことね。血塗れの奴があえて無防備に立つことで、あたしの心理を逆手に取ったのか。

 かか、と西城は笑う。

 あっははははははははははは! 肺に残していた酸素を吐き出す。炎が口内へと侵入し喉や肺が焼かれる。体の内側を焼かれたのは初めてのことだった。哄笑する西城を見て、西室と燃杭は瞬時に同じ判断を下した。西室は力を振り絞り、振り向きながら掃射している男性たちへと退避を命令した。燃杭は既に窓から外へと背後を振り向くことなく走っていた。

 哄笑が誰もいなくなった室内で寂しく反響する。焼け爛れていた皮膚や臓器が《破戒》によって再生していく。《愉快な連中》の猿たちはそれぞれ象徴する道具から飛び出し、猿叫を上げていた。そして彼女は————驚異的な力を以て、床を一度蹴った。

 それだけだった。

 七年間過ごした平屋が崩壊した。治癒と熱傷が繰り返し行われている。大口を開け未だ堪え切れぬ笑い声を響かせながら、次々と落下している天井を仰ぎ見た。

「いいじゃねえか。上等だ」嘗て参加した争奪戦が鮮明に脳裏へと過る。嘗て相対した敵との戦闘を夢見ていた。【Nu7】に所属するよりもずっと前、彼女が年端もいかない年齢で参戦を強制された第三次争奪戦の戦闘。誰彼構わず敵だった。草木すら彼女にとっては名状し難い相手であった。眼球の水分すら蒸発する。激痛すら今の彼女にとっては嬉しい誤算であった。家屋の支柱が大きな音を立てる。崩壊の進行はもはや誰の目にも明らかだった。笑いながら彼女は続けて言った。「あたしを斃してえなら、弱点を衝け。不意打ちだろうが真っ向勝負だろうが一切合切構わねえ! ちょうどいい! 退屈していたところだった!」轟音と共に全ての落下物が彼女へと降り注いだ。

 数十メートルは距離を取った西室。崩壊し終えた家屋が燃杭の炎によって焼かれる様を凝視していた。通常の任務であれば既に達成しているような状況だったが、西城のことを今回の禊石奪還作戦に於いて一番厄介だと分析している。崩壊し、未だ尚炎上している家だったものを見て、何故か心拍数が急上昇していた。おかしいと思ったのはなにも彼女だけではなかった。西室を護衛する肉壁となっている戦闘員たちですら、心身共に緊張していた。そんな彼女らと別の処へと退避した燃杭は、禍力の出力をやめない。

 ————私が知っている人間であれば、これで終わりのはず。

 そう思いながらも燃杭は、奥歯へと仕込んでいる絆石へ注力する。

 彼女は、そう、と胸中前置きしながら。

 ————私が知っている人間というカテゴリ内での話なら。

 この場に於いて、誰よりも早く退避行動を起こした西室は、送受信機トランシーバーで燃杭へと命令した。

「にとりさん。一時撤退しましょう、退避行動のまま《炎を見るよりも明らかメプロテウス》を維持してください」「了解」「こちらも一度離れます。たぶんあのひとは————」

 轟音。発生源は燃え盛る家屋だった。周囲数十メートル規模で瓦礫が西城を起点に放射状へ爆散した。巻き込まれてしまった男性のひとりが近くの大木へ激突する。銃口を構え、対象物を警戒する戦闘員。退避命令が言語化するよりも前に、西室は爆発があった箇所を見てしまった。

 幽鬼の如くふらりと立つ化け物の姿を。

 声帯が震える。西室がやっとの思いで絞り出した言葉は、きっと彼女が言うべきでなかった言葉だった。

「————化け物め」

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