008

 姫っちは相変わらずテレビを見ながらけたけた笑っていた。余程面白いのか涙まで浮かべてやがる。つーか、笑うたびに髪の毛がこしょばくて敵わない。後ろから強く抱きしめる。尚もこちらを見ない姫っちは、あたしを無視したまま笑い続けていた。つい先ほど軽トラで出かけていたあたしたちは、明日ここを引っ越すために荷物を次の物件へと運び、大半の荷物を運び終わっていた。それこそ最低限の調理器具と着替えくらい。ああ、あとタオルが数枚か。部屋のなかはがらんどうになっている。テレビと冷房機器はこの部屋に元々備え付きであったものだし、綺麗にするくらいで問題ないだろう。

「なあ、姫っちよお……この芸人? おもしろいか?」当たり前じゃんと姫っちは言った。「面白いから笑ってるんだよ、つまらなかったら笑わないって」ほおん。あたしはまだ腹抱えるほど笑える芸人とか見たことねえんだよなあ。「でも芸がおもしろいっていうか。なんだろ、たぶんそういう能力なんじゃないかなあのひと」テレビ越しで能力を遣えるっていうのはなかなかな出力だな。尊敬するわ。「何言ってるの、もがーもできるじゃん」まあな。ただあたしができることをできている時点で高水準だと思うけどな。「やーい、じかじょー」うるせえ。ぽかりと頭を叩いておく。じかじょーっていうのが何かはあまりわからなかったが、たぶん自信過剰だと思う。だからムカついた。だからおっぱいの刑だ。谷間に包み込んでやる。どーだどーだがっはっは。こら暴れるな! あたしのおっぱいを鷲掴むな! 暴れる姫っちを左右で挟み、なんなら上から手で押さえつけてやる。潤にしてやればあいつ喜びそうだな。あいつあたしのこと好きだから、絶対。…………こういうのが自信過剰ってやつか? 「そろそろあいつらも帰ってくる時間だよなあ」「むぐ! むぐが!」「今何時だ、ほっほーん七時半か。いつもより遅いな」どうしよ。今晩はあたしが飯作るか。いつも釜罪にしてもらってるし……でもちょっと疲れたんだよなあ。まあ肉体労働なんざあたしにとっては屁でもねえが。あんまりこういう発言はいかんのかね。一応女子だし、一応女子だしな。おいそこ、年齢の話はするな。ぶっ殺すぞ。…………うん。作るか。

 抵抗していた姫っちをぽーんと放り投げ、あたしは台所に立つ。備え付けの冷蔵庫の中身もほとんど捨てた状態だったが……うん、なんとかなるだろ。

「ただいま」その時、玄関から聞き慣れた声が聞こえた。「よお、遅かったじゃねえか」いちごはごめんごめんと言ってから「ジュンくんが遅くって……はあ。とろいのだけが取り柄なのかしらねえ」ん? 潤はどこに? 「ジュンくんはもうすぐ着くと思うわ。汗かいたしお風呂入って――――あ?」今気づいたのか。がらんどうになった部屋。「こうしてみるとやっぱこの部屋って広かったんだよなあ」あ。言ってなかったっけ。「あした引っ越すぞ。急だけど荷物はもう運んだから」ぐっ。とサインを出すあたし。ん、どうしたどうした。めっちゃ怒ってない? そんな猫みたいな目でこっち見んな。「なんで急に引っ越しなんて……ああ、思い当たる節あるわあ……そういうこと」そんな頭抱えるなって。ため息吐くなって。そんな泣きそうな顔すんなよ。玄関先で立ち尽くすいちごに、あたしは近づき頭を撫でる。くしゃりと撫でながら「別にお前が悪いってわけじゃねえって。気にするな。友達には別れの挨拶は言えないが、住所くらい知ってるだろ」抱き寄せたままいちごが呟いた。「住所? なんのために」「ほら、手紙とか。引っ越した後出せばいいじゃん」「時代錯誤も甚だしいわあ」そういうもんか。やっぱりスマホとかいる? 「いらないわよう私は。そんなものがなくたって不便を感じないから」そっか。ぐいっと胸を押された。「てか、邪魔よう。お風呂に入るっつってんでしょう」つかつかと浴室に向かって歩いて行った。扉を開けたままの姿で止まった。ん? どうした。「ジュンくんにはきちんと説明してあげて。あの子、やっと友達できたみたいだし」「いやあいつは誰でも友達みたいな雰囲気出すじゃん。ヘタレだけど」「まあ。確かにねえ。だけれど、それでもよう。全部言ってもいいと思うわ。七年前のこともそろそろ話してあげないと……朝それとなく言われちゃったし」そう言ったいちごの横顔はどこか儚げで、嬉しそうでもあった。気遣いできんじゃんあいつ。やるぅ。「なに言われたんだ?」小さく笑ったいちごは年相応の少女のように見えた。ありていに言えば可愛らしく見えた。お前のそんな顔久しぶりに見たな。だらしのねえ表情しやがって。「えへ」と笑った釜罪は、続けて「隣にいる俺に言ってくれって。私の一番は俺じゃないといけないって」すげえなあいつ。いつもは言わねえのに……男の子の成長って早いのね、お母さん嬉しいわ。そう言うなりいちごは浴室へと入った。多分顔真っ赤にしているのを気付かれたくなかったんだろうが、最後耳まで真っ赤だったからな。

 にしても潤がなあ。しみじみと思っていると、背後の扉ががちゃりと鳴った。振り向くとそこには、汗まみれの潤が立っていた。ってなんだその袋……「た、ただいま」「おう。どうしたんだそれ」あたしが指差した袋を潤は「ああ」と言いながらあたしへ手渡した。「佐藤んとこのばあちゃんから……」ああ。佐藤さんか。どーりで無茶苦茶な量だと思ったよ。「あとで電話入れとくわ。潤も大変だったな、こんな重さ」潤は疲れたと言いながら靴を脱いで冷蔵庫へと直行した。扉を開けてペットボトルの麦茶を口づけで飲む。まだ二本置いているから問題ねえんだけど、口付けて飲むなよ。小学生じゃねえんだから。二リットルもの容量を、半分まで一気に飲んだ潤は大きく息を吐いた。「聞いてくれよ西城さん、学校からここまでひとりで持ってきたんだぜそれ。いちごに持たせるわけにもいかねえし……まったくって感じだよ本当」「このくらいなんでもねえだろ? むしろお前の力がねえんだよ」「いやそれ重いから。……あー。西城さんにとっては軽いのかもしれねえ」いや普通に軽いと思うぜ。潤はペットボトルを持ったまま「あれ? 引っ越し?」と周囲を見て言った。いちごとは違った反応だなあと思う反面、こいつはこんなもんだなとも思う。あたしは「ああ」と前置きし、「急ですまんが明日の朝一番で引っ越すことにした」「わかった。それでいいよ」二つ返事で了承した潤は、テレビを見て笑ってる姫っちの横に座った。一緒に笑ってる……おもしろいのかあれ。つーか理由は聞かなくてもいいのか? そう聞いた。潤はこっちを見ることなく「興味ねえ」とだけ返してきた。恰好いいんだか、悪いんだか。良くも悪くもお前らしいってわけね。自然と笑顔になっちまう。誰のことかはわからねえが、誰かのためになにも訊かずに動ける人間だもんな。さすが男の子だ。

 それじゃああたしはこいつらを料理して、明日の引っ越しに備えるか。

 ぴんぽーん。

 チャイムが鳴る。

「あーい」俺が出るわと続けて潤が扉へと近づいた。内鍵はしていない。田舎だもんな。泥棒に入られる心配はしてねえ。いや、そうじゃなくって――――この感じは。既にドアノブへ手をかけた潤に声をかけても間に合わない。気が進まないが。仕方ねえか。

 あたしは潤の身体を引っ張った。手じゃないぜ。能力でだ。

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