007

 校門を出る頃には爽やかな夏らしく涼し気な夕暮れだった。橙色の空が徐々に青みがかってきていた。柚乃下の隣を歩く釜罪は、酷く疲れた表情をしていた。栗色の髪からは少し汗の匂いと清涼剤の匂いが混ざっており、どこか彼にとっては落ち着く匂いがしていた。「なあ。なんかお前疲れてないか? 俺にひと言もなしでこんな時間まで、一体なにしてたんだよ」柚乃下は授業が終わってから約三時間、ひとり校門前で待ちぼうけを食らっていた。スマートフォンを持たない彼らにとって、口約束こそが全てであり、又、文字通り約束だった。彼は待ちぼうけ中も何度か校舎の中に戻り、釜罪の姿を探そうと思ってはいたのだが、その際偶然にも入れ替わりとなってしまうリスクを考えてしまうと実行ができなかったのである。釜罪は彼の言葉に対し、ごめんとまず謝罪した。「ジュンくんのことをまったく考えていなかったわ。本当にミジンコのような存在のくせに、私に気を遣わせるだなんて……何様のつもりなのかしら」「…………よくもまあ、そんなひどいことを言えるもんですな」「加茂がね」彼女がぽつりと出した人物のことを、柚乃下は知っていた。ああ、と彼は空を見上げた。「あのコインみたいな奴のことな」「せめて裏表があるって言いなさい。失礼よう」「……どの口が」加茂美香子。常に誰かから逃げている人間だと、柚乃下はそう位置づけていた。クラスメイトや教師、果ては月に一度のボランティア活動に至るまで、全ての行事を網羅していた。品行方正という言葉がしっくりとくる、そんな女子だった。だが柚乃下にしてみれば前述の通り、何か目標に対して心の底から向き合ったことがなさそうな女生徒という認識である。陸上部で活躍していることや勉学に関しても釜罪と三点差の学年二位をとっている。彼の友人たちも品行方正ながら活発的な加茂を見て、よく交際を申し込みたいという声が多発している。それでも柚乃下にとっては魅力的というよりも逃避的という認識でしかなかった。周囲に振りまく笑顔を見ても仮面をかぶっているようにしか見えない。数度ほどしか会話はしていないが、逆にいえば数度会話をしただけで底が知れてしまう程度ということだろう、そう彼は認識していた。「で。加茂がどうしたんだ? あいつ陸上部じゃなかったっけ?」「あら」釜罪は柚乃下を見上げた。どことなく冷徹な視線だった。声の質が先ほどまでとは打って変わって冷たくなっていることに彼は気付いた。「加茂、って呼び捨てにしているのねえ。はーん、仲、よかったんだ」「で。加茂さんがどうしたんだ? あいつ陸上部じゃなかったっけ?」同じ文章、同じ口調で、彼は繰り返す。数秒釜罪は彼の表情を見上げた状態だったが、やがてひとつのため息を吐いて続けた。「あの子が私に短距離走を一緒にしようって誘ってきたのよう。運動は得意じゃないからって一度は断ったのだけれど、しつこくて」なるほど、と彼はひとり頷いた。要するに断り切れなかったのだ。普段は誰も寄せ付けないような雰囲気を見せている釜罪だが、その雰囲気は自他共に傷つけないためのカモフラージュである。ひとは何か作業をしている人間には話しかけづらい。常に釜罪はクラス内では読書をし、勉学に励むことで所謂話しかけないでくださいという雰囲気を纏っているのである。加茂は何度もその雰囲気を打破しようと画策していたのだが、たまたま本日は釜罪以外の人間に用事があったり、好敵手と認めた相手がデートをしたりと手薄だった。だからこその強行突破を果たしたのである。そんな加茂に対し、少し鬱陶しそうな反応を示していた釜罪だったが、一度入り込まれてしまうと追い出すことのほうが疲れると判断した彼女は泣く泣く引きずられるようにして部室へと向かっていたのである。「禍力とか使わなかったのか? 脚に集中させればある程度は負荷がかからなくなるだろ」馬鹿ねと彼女はくすりと笑って一蹴した。「まがりなりにも、頑張っている子の手助けをするのよう。そんな野暮なこと、私がするわけがないじゃないの」「走ってたら転んだのか?」「————は?」不意に訊かれた内容に釜罪は思わず反応に困った。続けて彼は釜罪の右わき腹へと触れた。彼女は大袈裟にびくりと身体を震わす。反応を見て彼は言った。「歩き方が変だからな、転んでぶつけたのかなと思ったんだけど」ただ、と彼は思った。転んでわき腹を打つ方が難しいのではないのか。膝や肘を擦りむいたというのならばまだしも先ほどの大袈裟な反応は柚乃下のなかで違和感をひとつ生んだ。改めて指先で右わきを触れる。摘まんでみた。思い切り平手で叩き落とされた。手の甲を真っ赤に染めた彼は抗議の声を発する前に、釜罪から肘打ちを当てられる。触られることに対して嫌悪感を感じたわけではないが、釜罪にとって、彼に弱みを見せることはあまり気の進まない行為であった。彼女を横目で追及を許されない柚乃下は、そういえばと話題の方向性の転換を試みた。「珍しい車を見かけたな。黒っぽい……なんてんだああいうの、スポーツカーみたいなんじゃなくって、こう、なんってーの?」「乗用車のこと?」「乗用車……まあ乗用車なんだけどさ」ほら、と彼は続けた。「ここって決まった車しかないじゃん。田舎過ぎてどこの誰がどういう車を持っているのか、だいたいわかるじゃん」要領が得ない彼に対し、釜罪は少し苛立ちを感じた。鞄を持つ掌に自然と力が籠った。「そういうのじゃなくって、こう、見たこともない現代風の車っていうのかな。扉が上に上がりそうなタイプの」「たぶん上がらないと思うわよう。想像でしょう」「いや! まあそうなんだけどさ!」そうじゃなくって、と彼は続けた。「その後部座席に乗ってた奴っていうのが変な恰好をしてたんだよな。民族衣装っつーの? 見たことない文字がびっちりと書かれた袈裟みたいな服着てたんだよ」彼は脳裏で釜罪と合流するほんの三十分前の出来事を思い出した。

 校舎前で中へと入るか思案していた柚乃下のすぐ近く。そこへ一台の乗用車が静かに停車した。彼がふと横目で確認するのと同時に、運転席が開き、「そこの少年」と声をかけられたのである。生憎と周囲には自分ひとりしかいなかったので、呼ばれた相手が自分だと理解した彼は、訝し気な表情を浮かべ、近づいてくる女性に対し身体を向けた。「訊きたいことがあるんだが、少しいいかい?」「まあ。はい、なんすか」女性は柔和な笑みを浮かべながらスーツの内ポケットから一枚の写真を取り出す。「このあたりにこういった男がうろついていませんでした?」見せられた写真には、上半身をはだけさせた男性の姿があった。う、と思わず彼は怯む。そして写真から目を離し、「男の裸は目の毒ですよ。ひっこめてください」と言葉を投げた。女性はやはりくつくつと笑いながら写真を仕舞う。「その様子じゃ知らないかな。いやあ困っているんですよぅ。あのひとは勝手に行動する奴だから……そいつを探したらここに連絡をくれませんか」女性は小さなメモ帳を取り出し、ペンで電話番号を書き連ねると、はい、と言って柚乃下へと手渡した。曖昧な返事をした彼は断ることもせず、柔和に微笑む女性を信頼し受け取った。「ありがとね。きみは本当にいい子だ。弟にほしいくらい」そうだ、と女性は言って「飴をあげる。大事に食べてね」そう言って包装紙をひとつ柚乃下の棟ポケットへと入れた。地方の場所ではあるので、近隣住民からも野菜や夕食の残りなど、お裾分けをされることに抵抗がない彼ではあるが、見ず知らずの女性から口の中へ含む飴を貰うことには少しばかりの嫌悪感があった。しかもこの女性はあろうことか弟にしたいとまで発言したのだ。「じゃ。私たちも探しに行かなくちゃ」女性はくるりと踵を返し、乗っていた乗用車へと戻った。エンジンを回し、静かに柚乃下の前を通って移動をした。目の前を通る際、後部座席にも誰かが乗っていた。表情までは見えなかったが、その風貌がとにかく奇怪なものであった。ひとり取り残された彼は、校舎前の花壇へと腰を下ろす。

 ————英語じゃなかったな。どこの言語だあれ。

 写真に写っていた男性の胸には薔薇のようなタトゥが彫られていた。彼はふうんとひとり考え込みながら、校舎から出てくる釜罪をひとり待っていたのである。

 そんな出来事をどう釜罪へと相談しようと考えていた彼だったが、不意に「こんにちわあ」と声をかけられた。声の主へと彼らは視線を向けた。「あら。佐藤さん。こんにちは」「今帰りけ。近頃の学校はよお勉強しなさるんやね」釜罪は声をかけてきた佐藤に言葉を返す。佐藤の手には大きな袋がひとつ。中は詰まっているのだろう、佐藤の細い腕では補えない重量感があった。「どうされたんですか、その荷物」釜罪は佐藤の年齢を配慮しながら声をかけた。「そんな重たそうなもの……言ってくれればうちのジュンを貸し出しましたのに」ねえ、と釜罪は横目で彼を見た。首を横に振りたかった柚乃下だったが「これね、畑で取れた野菜よお」佐藤は、あ、とわざとらしく声を上げると、柚乃下へと手渡した。意識を向けていただけの彼だったが、軽い感じで渡されたものを持ち直した。釜罪は袋の中を覗き込み、「あら、いいんですか」と返す。柚乃下が想像していた以上の重さが袋にはあった。袋が掌の肉に食い込んで少し痛かった。佐藤と釜罪は年齢差が六十七もある。佐藤が話す内容は主に畑仕事や人生というテーマが多かった。対する釜罪もこちらに引っ越してくる前ならば知識不足で会話へついていけなかったが、現在は臆することなくそのテーマを題材に会話を楽しんでいた。

 ————いやいや。

 柚乃下は徐々に暗くなりつつ辺りを見ながらため息をついた。

 ————あと小一時間はこれ持って歩くのかよ。終わってるってこれ。

 先ほどまで考えていたことを放棄し、彼はただひたすらに会話が早く終わるのを待っていた。

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