006

「今日は本当にありがとね助かったよ! いやあエミの奴が急にデートとか言い出してさあ! ほんっと困っちゃうよね! で、私は四苦八苦考えたわけ! 他の部活動やってる奴らにももちろん声をかけたさ! だけれどみんながみんな暇じゃなかったんだよ。そこで私のウルトラCが発動したってわけさ! そうだ、そうだよいちごがいるじゃないかと。私の親友がいたじゃあないかってね!」加茂美香子は自分の汗で重たくなった体操着をロッカーの中に投げ捨てる。汗が原因でとにかく臭かった。昨年長野県の地区予選を決勝で敗退した。今年の地区予選はあと数日で開催されるが、肝心の自他共に好敵手と認める叶エミが大会前に彼氏を作り、練習もそこそこに本日もいちゃいちゃと帰路についてしまった。叶とは違い、将来オリンピックを目指す彼女にとってみれば、その行為は半ば裏切りとも見れるものであったが、しょせん他人の人生だと彼女は怒ることもせず、代替の人物を探した。その結果、白羽の矢が立った相手こそ釜罪いちごなる人物だった。二年連続同じクラスメイトではあったが、プライベートなことでは一度二度くらいしか口を利いてはなかった。無所属の彼女は学校中の注目となっている。頭脳明晰、容姿端麗————小説や漫画にしか存在しないとされている完璧超人だったからである。加茂にとって釜罪の存在は注目を浴びたい彼女にとって目の上のたん瘤ともいえる存在だった。加茂は下着姿になり、スポーツブラジャーに吸収され不快指数急上昇のまま、厚手のタオルで身体を拭く。人一倍新陳代謝が激しい加茂は、本来ならひとりで更衣室を独占したいのだが、今日自分の我儘でさしたる報酬もない中、競争相手になってくれた釜罪に対し、強気に出られるわけがなかった。嫌々ながら加茂は釜罪と共に帰宅の準備をしている。相変わらず釜罪からのレスポンスがない状況であった。ふと横目で観察すると、釜罪も加茂と同様に汗で滴った体操着を脱ぎ始めていた。加茂は続けて言う。「でね、ついでっていうわけじゃないんだけど! 親睦を深めるっていう意味を込めて、帰りにどこか寄っていかない? 奢っちゃうからさ」

 大きな嘆息。加茂はぎょっとした。加茂は着替えを大方終了していた。だからこそ先ほどの発言があったのだが、ふたつ分ロッカーを挟んだ釜罪が、酷く冷めた目線でこちらを一瞥していた。ため息のことなどいつもなら腹立たしいと唾を吐くであろう自分が、まさかこんなにも動けないなんて、と加茂はいつもなら折り畳んで仕舞う衣類を乱雑に袋へと押し込み「そ、そうだよね! あんまり喋ったことないんだもんね、気持ち悪いよね! ご、ごめんごめん。鍵ここに置いとくから! じゃ、じゃあ!」そう言って部室を飛び出たのであった。

 生まれて初めて誰かから逃げ出した、と加茂は陸上部で鍛えた脚を行使しながら胸中思った。今までだって暴漢に襲われたことや、性質の悪い男に捕まりそうになったときなど、そういうときには現状のように走り出して事なきを得たことはある。心の中でざまあみろとさえ思ったものだ。だが、と彼女は息を思い切り吸い込んだ。

――――殴られると思ったわけじゃないし、危害を加えられると思ったわけじゃないのに……なんで怖かったんだろ。

 あと数秒あの場でいたら自分は取り返しのつかない傷を負っていた、と加茂は思う。自らのレッドシグナルを瞬時に理解し、脱兎の如く逃げ出した彼女。ぞわぞわと羽虫が身体の表面を動く感覚が確かにあった。今思い出しても震えてしまいそうになる。

 加茂は部室棟の角をほぼ九十度の鋭利な角度で曲がり――――切れなかった。

 正確には曲がったときに足の感覚がなくなり、そのまま地面へとぶつかったのである。

 ————ったく。予選もあるのに怪我なんかしてる場合じゃないでしょ。

「ちょっと! 危ないでしょ!」加茂は倒れた態勢のまま、曲がり角へと目を向けた。加茂が倒れる寸前、視界の端には誰かがいたのである。接触したという認識こそなかったが、見えた人物のせいで自分は倒れたと加茂は思った。全速力の自分が誰かとぶつかれば、双方大怪我をするということは理解している。だからこそ接触する前に本能で倒れたと思っていたのだ。

「ああ」部室棟の角で立ち、未だ前方を向いている女性は短く乱暴に切り揃えた髪をしていた。一見すれば男性にも見えたかもしれない。女性だと判断できたのは、胸部にある膨らみと、掠れてはいるが女性特有の高い音質の声だった。女性は尚もこちらを見ない。「すみません。これは事故です」女性は掠れた声で続けた。「だから私は悪くありません」黒目がこちらを射抜く。心の中まで見透かされているようなまなざしだった。

「あなたが見通しの悪い曲がり角を全速力で走っており、私はぶつかりそうになりました。よってこれは規約違反ではなく、あくまでも事故に該当いたします」

「…………は? あなたがそんなとこにいたから、私は転んだんでしょうが」

 ええ、と女性は肯定の意を示す。ですので、と続けて加茂の利き脚を指差した。

「二度とこのような事故が起きないよう、先手を打たせていただきました」

 女性は、加茂の右脚を指差した。指の動きに連動する。加茂は自らの右脚を見て、は、と短い声を上げた。校則ギリギリを攻めた丈のスカート。鍛えに鍛えた自慢の脚。その片割れから煙が立ち込めていた。否、燃え尽きていたと表現するほうが正しいだろう。血色の良い肌の色つやから一変、黒く罅が発生していた。

「————あえ」なにが起こっているのか理解ができない。加茂はめまぐるしく変わった状況を整理する前に女性が、ただ、と言葉を紡いだ。自然と目線はそちらへと向く。

「そのままでは私のことを誰かに言ってしまわれるように見受けられます。通報は勘弁願いたいところではありますので、致し方ありません」

 激痛というほどの痛みはなく。加茂の煤塗れになった右脚と、その生足の境界線上がじりじりとした感覚に陥る。ぞくりと焼け焦げ炭となった右脚と相反するように背筋が凍った。後にも先も彼女がこういった感覚を持つのはこの一度きりのことだった。だからこそ、彼女の反応は迅速で、且つ最適手ともいえる行動だった。胸元からかけている絆石へと禍力を注いだ。加茂の唯一所有する異能は掌や足の裏を地面に接触させ、触れた場所を柔らかくする能力——《行ったり来たりブランコ》である。能力の対象である地面がぐにゃりと沈んだ。沈み切ったところで、能力を解除する。解除された対象物は元の形状へと凄まじい速さで変形をし、加茂の身体を弾いた。

 紅蓮の火柱が彼女の身体を包み込んだのは、その直後であった。反応をするよりも前。彼女が最期に感じたものは、釜罪のことでも対面していた女性のことでもなく、いつも釜罪の横に並び立っている少年の後ろ姿だった。

 ————ちゃんと、好きだったんだけどなあ。

 彼女の呟きは、紅蓮の炎によって搔き消された。



 まったく、と釜罪は着替えを畳みながら誰にともなく呟いた。おそらくは自分に対しての苛立ちが言葉になったのだろう。加茂美香子に関しては入学当初より気付いていた。むしろ文武両道といったポテンシャルを持つ彼女に対し、何も思わないことはなかった。同学年でのテストでは常に二位をキープしており、昨年インターハイ間近で敗れ去り、今年こそはと奮起していた加茂を見て、釜罪は非常に羨ましく思っていたのである。だが、彼女の小さなプライドが少しの称賛すら投げかけることを許さなかった。天才と持て囃されていた彼女は、陰ながら努力を続け、友人らが遊び惚けている間に青春をかなぐり捨てた彼女の生き様は釜罪にとって自分以外見たことのない種類の人間だった。加茂が頑張っていたからこそ、釜罪は頑張れたといっても過言ではない。

「————過言でしょそれは」口許に笑みを浮かべた彼女は、汗を拭く清涼剤が浸透された紙で身体を拭いた。いくつもの香料が重なり合った冷たいシートは、熱く火照った彼女の身体にとってとても心地の良い瞬間だった。

 ————全然予想外だったから、下着の着替えなんて持ってきてないのよねえ。多分ジュンくんは忠犬みたく待ってるんだろうし、汗臭いわよねえ。

 腕から首、胸部腹部、そして脚、順々に汗を拭き取り、何枚ものシートを使用済みにしていく。着用している上下の下着周辺は念入りに、幾枚ものシートを使い拭き上げる。加茂に誘いをかけられた時点で、汗まみれになることは彼女の想定内であった。故に彼女は教室を出るときにクラスメイトがもう使わないと言ったナイロン袋を貰ったのである。元所有の男子高生は酷く挙動不審になっていたが、さしたる問題は釜罪にはなかった。厳重に折り畳んだ衣類の全てを、袋へと入れた。入口をきつく縛り付け、学生鞄の奥へと仕舞う。ここでひと段落ついた彼女は、未だ下着姿で行動していたことに今更ながら思い至ると、ロッカーの中にかけていた上着の裾を通す。

 がちゃり。

 ————加茂が戻ってきたのかしらあ。さっきはごめんねって伝えるべきかしらねえ。

 釜罪は入口を横目で見た。黒服の男性がひとり、黒いサングラスをかけたまま立っていた。

「《偉大なる手引きザ・マルチタスク》」ひと言。男性が呟いた。咄嗟に彼女は禍力を顔面と四肢へ全力で籠めた。正体不明の一撃が釜罪の禍力を一番注力した顔面へと突き刺さる。これに関しては幸運と言わざるを得なかった。ロッカーのひとつに激突した彼女は、嘔吐感を堪えた。続けて右耳のピアス――絆石へと禍力を注ぐ。顕現するボーリング玉ほどの眼球。出入り口から一歩だけ入室した男性は、それ以上部室の中へ進むことをしなかった。扉を後ろ手で閉めた状態で言う。警戒しているのにも関わらず扉を閉め、それ以上の踏み込みをしなかった男性に奇妙な違和感を覚えた。「驚いたな。今の一撃でお前の首は折れる算段だったんだが……情報との差異があるな。修正しておこう」「————そうね。力不足っていう情報が抜け落ちているわよう」「…………お前程度の人間に、私が力不足だと」「現に、私は攻撃自体には反応できたわけだし? っていうことは、あんたの力及ばないってことじゃないのかしらあ。いやいやまったく。たまにいるのよねえ、大きなプロジェクトに抜擢されたからって自分の力を過信するお馬鹿さん。そうそう、見た目とかにもこだわっちゃって、なんならサングラスなんてもんかけちゃったりして――――」次の一撃は予想していた通りだった。釜罪は顕現した眼球を駆使し、見えない正体へと眼球のひとつをぶつけた。男性は小さく呻きながら一歩下がる。サングラスが邪魔で釜罪からは認識できないが、おそらく視線は足場の確認のために一瞬こちらから外れているだろうと想定した。もし仮に違った場合にでも対処できるよう、彼女は自らと男性との直線状へ目隠しのためにふたつの眼球を配置した。脚へと禍力を注力し――――一足飛びで膝蹴りを男性へと放った。一瞬虚を衝かれた男性だが、飛び掛かったときには意識をこちらへと戻していた。彼は自らの異能を行使する。空中で膝蹴りのモーションのまま、釜罪は眼球のひとつへ命令を下し、男性の背後へと回した。そしてもうひとつの眼球を自らの左わき腹のあたりに配置した刹那————正体不明の衝撃が彼女の右わき腹へと突き刺さる。予見していた通りだったと釜罪は衝撃の部分へ禍力を集中させることでほとんどのダメージを無効化していた。だが、衝撃はどうしようもない。だから彼女はあらかじめ眼球のひとつを左へと配置していたのだった。そうすれば、衝撃の進行方向へ叩きつけられることはカバーできるうえに――――男性を巻き込むことができるのだから。

「これは誰にも言ってないことなんだけれどね」釜罪は寄りかかった眼球を撫でる。眼球はあくまでも眼球、喜怒哀楽を表現できないが、どことなく嬉しそうに釜罪を見上げていた。釜罪と同じ方向へと衝撃を受けた男性は、ロッカーをへしゃげたまま、苦しそうに呻き声を発している。男性の背後には眼球がひとつ、注視している。「私の能力って結構リアリティを持っているのよう。眼球が浮いているように見えて、ふわふわと浮かんでいるだけじゃあないわあ」彼女と同様の速さでロッカーへと激突した彼は受け身を取れていなかった。だからこういうことだってできるのよう。彼女が男性の背後へと配置していた眼球を上へと動かした。かけていたサングラスがぽろりと落ちる。落下し始めたサングラスを急いで受け取った男性だったが、彼女が重要視していたのは————一瞬だけでもサングラスを外すことだった。彼女が誇るもうひとつの異能、《アンロック》が男性と視線を交差することによって発動条件を満たした。不格好な態勢のまま、男性の動きは停止した。釜罪の持つ《想》と眼球をみっつ顕現させる異能、《私を見ろアイムデンジャラス》は併用が可能となっている。それぞれの能力には一定の禍力消費が存在するものの、彼女自身一度でも《想》によって拘束された人間は、自力での脱出はできないものと確信している。そして《想》の発動条件は視線を合わせること。先ほどまでのようにサングラスや眼鏡などの不純物が混ざってしまっては発動さえもできないものだが、釜罪の機転を利かせた立ち回りによってサングラスを外すことに成功していた。本来の《想》であれば、拘束し続けるのに視線を常に交差させ続けなければいけないが、その弱点を《私を見ろ》によって疑似眼球を作り出すことにより、効果範囲を広げると共に半ば永続的な効力を発揮する。

「————ま。頑張ったほうじゃないかしらあ。だけれど、詰みよう」

 男性は禍力を行使した。自らのポケットにしまい込んでいる絆石へ禍力を注力した――――はずだった。

 ————禍力を練れない!

「————気付いたかしら」口許に指をあて釜罪は宣言するように言った。「私の《想》は相手の禍力の放出すら止めることができる」つまり、と彼女は言った。「あなたの能力は既に全て無意味なものになっているわ」

 一度でも通ってしまえば禍力の放出や身動きを封じることができる彼女の異能だが、唯一の弱点として、既に放出されてしまった禍力や、展開し終わった異能に対してはまったくの無意味なところである。とは言っても、全ての能力の根幹には禍力といったエネルギーでの操作が大前提であり、又、大前提である以上はおおよその異能に関しての絶対的な支配すら可能である。

 だが、と男性にとって腑に落ちないところがひとつだけあった。それは何故サングラスが勝手に落ちたという点。あまりにも不自然で、釜罪が何かをしたということはわかっているが、何をされたのかは理解できていなかった。能力者同士で戦闘となった場合には、相手の能力を解読解析する必要があり、ほとんどの能力者は自らの能力を説明しない。中には弱点を曝け出すことによって強化される異能はあるが、それも希少種となっている。

 ————あの時何があった。

 男性は硬直したままの状態で思い出す。

 ————背後にはあの目玉がいた。能力を使って衝撃を出す前に、釜罪は私の背後を取っていた。

 背後を取らせたのはあえての行動だった。彼女の能力に関しては上司から開示された情報には、目玉はさして問題性が薄いとの報告だったためである。あくまでも目玉は《想》の効果範囲を向上するためのもの。力不足とは言われてしまったものの、男性は釜罪との戦力差はないとさえ感じていた。むしろ自分のほうが優れているとさえ自負していた。相手はたかだか高校生であり、【Nu7】についていけなかった脱落者だと聞かされていたからである。彼女の能力は視線を合わせたら強制的に動きを止める《想》と、目玉みっつの顕現である《私を見ろ》だけのはず。そのふたつとも直接攻撃性が著しく低い能力————補助の能力だったはず。何かの法則や見えていないものがあるはずだ、と男性は逡巡した。

「いい線いってると思うわよう。ご名答とは言わないまでも、近しいところまでは理解できているんじゃないかしら。もっと根本的なところであなたは負けたのよう」

 ————心を。

 そう、と言って彼女は男性から背を向ける。《想》の発動条件である視線の合わせる役割は既に《私を見ろ》が代替している。彼女はロッカーから制服の下を取り出し、少しついてしまった埃を払う。「私の《私を見ろ》の能力は眼球の顕現————でも眼球だけでは何も見えないわよねえ。あくまでも眼球は眼球。レンズでしかないもの」隣のロッカーから拝借した陸上部用のシューズを返却し、履き慣れた靴へと履き替えた。

 ————視神経。あの目玉には見えない神経と同じ役割のものが存在するということか。

「見えるようにしてあげましょうか」掌へと眼球を配置し、彼女は濃く禍力を調節する。眼球の裏側には無数の紐のようなものが見え、その全てが彼女の頭へと繋がっていた。「普段なら弱点ともなるものは見せないのだけれど……阿呆な子には正解を見せないといけないでしょう」

 ————つまりは私のサングラスをずらしたのは、あの部分か。

 釜罪は普段神経部分までは顕現しない。神経の長さを明確に知られることで、射程距離や弱点を曝け出すことになるからである。神経部分とはいっても、実際に人体の神経とは違い、元は禍力で練られているため切れたところで痛みなどは存在しない。だが一度切れてしまったものを繋ぎ直すのには一瞬でも時間がかかる。その一瞬すら消し去るための透明化である。とはいえ、と彼女は大きなため息を吐いた。

 ————禍力の流れを熟知している人間相手にはブラフにもならないのだけれど。

 彼女はあえて不必要ながら、男性の能力について言及する。

「あんたの能力もだいたい予想がつくわ。————空気を圧縮して放つってとこかしらねえ。だけれどおかしいわあ、私の《私を見ろ》には破壊力といったものが一切存在しない能力、一度当てて相殺したからって屈強なあんたが後ずさりするほどの威力はなかったはずよう」問題はこの後ずさりのポイントだった。彼女は顎へ指を添えながら続けた。「相殺したときの衝撃で後方へ下がった? いやいやそれはないわあ。あんたは見るからに筋肉もりもりって感じだしい。となれば――――明らかなフィードバックによるダメージと考えるほうが妥当よねえ」フィードバック現象が起こる条件は左程多くはない。釜罪が使用する《私を見ろ》が破壊されたとしても、彼女の視界はフィードバックによって乱れる場合がある。だが、彼女が仮定としていたものは空気の圧縮。フィードバック現象が起こる大きな目安は————人体を模した能力であること。釜罪の《私を見ろ》は釜罪自身の眼球とそれに連なる視神経を模した能力、故に本体のほうへと深くリンクしているのである。「そこで私はもうひとつの仮説を立てた」添えていた指をぴんと立てる。「あんたは空気を圧縮して放つ能力ではなく――――自分の身体の一部を模した能力だということ」だけれどと彼女は得意気に続ける。「それなら遠く離れた場所から、なんなら部屋の外から能力を放てばいいのに、わざわざあんたは一度目の能力使用時に吹っ飛んだ私に合わせるよう、一歩中へと踏み入れた」確実な違和感は、男性が釜罪の動きに連動して部室へと侵入したという一点だった。「あんたは実際に目視できる距離内でしか能力を発動できない、もしくは――――自分がもし動くとしたら、という前提でしか攻撃を放てない」

 ————だいたいは、合っている。

 男性は抵抗を諦めていた。彼の能力は《偉大なる手引き》有する能力は、自身と同じ分身を空気によって生み出し、操作すること。能力とはいえ、自分ができないと思ったことに対して空気人間は操作できない。腕を数本に増やしての攻撃や、脚を特異な形へと変形させることすらできない。あくまでも自分と同じ質量体を持った空気で作った人間を操作することだった。

「そしてあんたの能力、ただ空気を固めて自分の形にしているだけじゃないのよねえ。それにしては力が強かったのよう。だからもうひとつ考えたわあ」彼女は続ける。「自分と分身が近ければ近いほど能力の質が向上するのよね。だから、あんたは一歩でも近づくために部屋に入ったのよ」身動きができていたならば、男性はおそらく驚愕しているだろう。ものの五分も経たない戦闘の間に、能力の本質、形状、射程距離を見抜く彼女に対し、畏怖の念すら感じていたのかもしれない。「まとめると、あんたの能力は自分と同じ形の人間を創造し、自分ができる範囲内での動きを再現する能力。そして有効射程距離はせいぜい五メートルもないんじゃないかしらねえ」釜罪はひとつ伸びをした。仮説は立証してのみ真実となる。元研究者としての彼女にとって、未知を既知にしないと気持ちが悪いのだ。

 おおよそ彼女が理解した内容を説明した彼女は、じゃあ、と前置きをしながら右手の拳へ禍力を流し込んだ。

「一方的になってしまったとはいえ、答え合わせはもう済んだし……たぶん、死んじゃうと思うけど――――私を殺そうとしたのだから、構わないのよねえ」

 男性が呆気に取られている間に、彼女は作った右拳を男性のがら空きとなった腹部へと捻じ込んだ。

「————せっかくのいい男だし顔は勘弁してあげる。だけど、あんたが死ぬまで殴り続けるわあ」

 次は左拳で同じ箇所を、その次は右膝、左足、肘鉄、《想》を使用中のため、あくまで視線が途切れない位置へと配慮をしながら彼女は殴打を繰り返す。ふわりと彼に近づいた際、薔薇の香料が男性の汗と混じって柔らかな匂いを発していた。殴打をしながら彼女は香水のセンスは悪くないと密かに称賛していた。彼女の想い人である少年にもこのくらいの気遣いをしてほしいものだとすら思う。構わず彼女は行為を継続する。

 禍力を練ることができない人間にとって、むき出しの部分を強化された拳や足で殴打されるということは、つまるところ就寝中の人間相手に攻撃するに等しい。事前準備ができない状態での攻撃というものは、深くダメージを負うものである。ましてや《想》によって意識すら固定化されてしまっているこの状況。

 ——————やめてくれ! やめてくれ!

 殴られる直前まで意識があり、痛みがあるなかで次の一撃が発生する。見えるからこそ意識がなくならないこその攻撃だった。殴打する音はそれから十分前後、仲裁に入る人間がひとりもいない更衣室の中から響いていた。

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