005

 あたしはあたしをあたしだと思う。と言ってしまえば少しは恰好いいだろうか。潤といちごが学校から帰ってくるよりも大分早く、あたしは帰ってきた。なんてったって現職の上司に上がってもいいと言われたからだ。帰れと言われて帰らない莫迦はいない。世の中にはアルバイトや正社員の人間が、上長に帰れと言われても帰らないらしいが、帰るさ。当然。とまあ、あたしが想像するような言い方ではなかったし、怒られてもいないが。なんてったってあたしだからな。ギアをニュートラルへ入れ、サイドブレーキを引いてから鍵を回す。手慣れた動作だが、今どきの男の子(男とは限らず女もか)は車の免許証を取得する際にオートマ……オートマチックトランスミッションを専攻するらしいじゃん。つまんねー世の中になっちまったものだよなあ。ほんと。あたしが恋焦がれた冴羽だったりルパンだったりっつーのは全員が全員マニュアルトランスミッション車を動かしてたからなあ。ん? だったら今頃のガキ共はオートマチックトランスミッション……ああもうめんどうくせえ。オートマを乗っている主人公達にしかときめかねえのかなあ。恰好いいけれどなあ……ランエボ。公道最強とか言ってみてえ。扉をいつも通り閉めた。ミニクーパーでもなければフィアットでもねえ、ましてやランエボなんてスポーツカーでもねえ。十年以上落ちている軽トラだ。思えばこいつとももう七年にもなるのか。あたしも歳を取ったな。ポッケから鍵を取り出してがちゃりと捻ればひんやりと冷たい空気が肌へ突き刺さった。って。

「おいこら姫っち、あたしちゃんと温度調整しろっつったよな!」

 これ室内温度二〇℃を切ってるんじゃねえのか。いくらあたしが熱い女とはいえ寒いわ、流石に。まだ七月だぞ。玄関を開けるとすぐにリビングが見える。その真ん中で姫っちは未だ寝転がっていた。おいおい、あたしが出る前はちゃんと起きてたのに……昼寝か? 呑気なもんだよまったく。まあ昔からそうだったけれど。仕事用の履き古したスニーカーの踵を潰して脱ぐ。室内の冷気に充てられてか、いつも以上に足裏の蒸れ加減に嫌気がする。泥だらけになった衣類をまとめて洗濯機へと投げ入れ、クーラーの温度を調整する。阿呆かこいつ、なんで十八度なんだよ。二十五度にしてやろう。ついでに布団をかけてやろう。いつも通り生まれたままの姿になったあたしは、遅くなった昼飯を取る前にまずは汗臭くなっちまった身体を洗い流したかった。首元とかしゃりしゃりするしな。

 手短にシャワーを済ませたあたしは、居間に戻った。姫っちはまだ寝ていた。寝る子は育つっていうけれど、こいつに限ってはいつまで経っても小卒くらいのタッパだよな。寝ても育たねえなら寝るな。時間の無駄だ。冷蔵庫に入っていた卵をふたつ手に取り、ベーコンと玉ねぎ、人参と葱を刻んだ。ついでに汁物も欲しいな。卵スープでいいか。炒飯のお供だし。お供だしっていう言葉とお友達っていう言葉って似てるよな。意味も。ささっとできた炒飯を簡単に盛り付けた。姫っちを見たが、まだ寝てやがる。手伝いなんていらないが、こうも寝られちゃこっちとしてはむかっ腹が立つ。部屋の端に立てかけている大き目の机を広げ、その上に大皿二枚と卵スープが入った容器を並べたところで。

「おい、いい加減起きろ。あたしはお前の母ちゃんじゃねえぞ」

 できうる限り思い切り、姫っちの間抜け面のど真ん中へフルスイングのサッカーボールキック。これがサッカーアニメだったらあたしの右足には炎が灯っていたはずだ。「ふぎゃ!」としっぽ踏まれた猫みたいな声を上げた姫っちは、空中で二転三転すると器械体操選手さながら十点満点の着地を見せた。「びっくりした! 相変わらず乱暴な起こし方をするんだね。死んじゃったと思ったよ」

 嘘つけ。お前なかなか死なない身体しているくせに。「飯、できたぞ。炒飯と卵スープだ。女子力高えだろう? 敬え敬え、敬わなかったら食うな」「ははー」「あたしはお前の母ちゃんじゃねえっつってんだろうが」敬ったけど蹴った。

「理不尽が人の形をしているよう」

 昼食終了。

 片付けを終え、テレビを点けた。人をだめにするソファーではなく、姫っちの身体を抱きしめる。ちょうどいい肉付きだ。あたし好みだよ。体温高いからちょっとムカつくが。

「で。本当はなんのためにこっち来たんだ?」

「うん。昨日は言いそびれちゃったんだけど。結構危機的状況だと思うんだ」

 だったら昨日の時点で言えよ。まあ本国からわざわざあたしを探してやってきたってんなら危機的状況以外のなにものでもねえだろうとは思っていたが。

「名前聞きそびれちゃったんだけど、あの子、昔なにかしたでしょ」

「あの子? どっちだよ。でけえのとちっちぇえのがいるけど」

「わかってるくせに」谷間でもぞもぞすんな気持ち悪いだろ。わかったような口効いてんじゃねえよ、わかってるって。「ちっちゃいほうだよ。確か名前はいちごだっけ?」しかもこいつ調べてから来てやがる。阿呆のくせに。

 やっぱりか。むしろ七年間もよく逃げ通せたものだなとも思うがな。

「ほんとだよね。なんでなんだろ。あそこから五体満足で脱出できるわけないのに。もがーがなにかしたのは知ってるけれど、いったいなにをしたの?」

 別に。なんでもねえよ。あたしがあたしたる所以だとしか言えねえ。特別なことはやってないし、特異なやつだったってことだろう。運もあったけどな。

「あそこの奴らには一応一目置かれていたからな。下手に手を出して反撃されちゃああいつらも立場がなかったんだろ」そう、徹底的に小さな組織は潰しながら脱出したから、恐怖感は十分に植え付けたはずなんだが。七年か、やっぱりよくもったほうだよな。

「英雄たちは別にもがーのことを敵視も敵対もすることはないと思う。今もこれからも。ほら、結局あそこって来るもの拒まず去るもの追わずであることにかわりはないじゃん」

 だな。だからこそ違う国からのスパイだったりする奴らが闊歩しやすいってのもあるんだろうけれどな。いったい何人いるんだろうなああの国にスパイなるものは。あたしが知ってるだけでも相当数いたが。全員情報を外へ出すことは叶わなかったけれど。

「だからトップが目をつけて派遣したわけじゃあないんだよう」

 となれば。

「————取り巻き連中か」

「そう」姫っちはもぞもぞしながら答えた。「しかも厄介なことにあの老人はいちごちゃんを恨んでいるんだ」

「ああ。いちごが研究施設に配属になったときの室長だろう」

 まったく。本当にちっちぇえなああいつ。いいじゃねえか生涯かけた研究を、弱冠十歳にも満たない天才が下らないって一蹴したくらい。そのへんの天才で一蹴できるレベルの研究だってことだろうが。名前は確か――――。

「氷室恭二、だったっけ」

「そっちは片付いてるよ」

「あ? 片付いてるって……どういうことだ。あいつもういねえの?」

「うん。あのひとは生涯地下施設で幽閉されると思う。それだけのことをしたらしいよ」

 あー、とも、うー、とも言えない言葉が出てしまった。なるほど、落ちたものだ。

 ん? だったら追う奴いないじゃん。なにが危機的状況なんだ。

「だから、氷室元室長の子供だよ。えーっと、なんだっけ。忘れたけれど、子供のほう」

 いたな。確かに。あのふんぞり返ってる奴な。何回も蹴飛ばした記憶があるよ。もちろん姫っちじゃねえから手加減はしたが。ほほーん、あいつねえ。

「あの子が暴走というか、なんか逆恨みしちゃってるみたい。止めたんだけどね。無駄だったよう」

「お前頭悪いから却って煽ったんじゃねえの?」

「いや、そんなことないと思う。元々なにかのせいにして生きているようなひとだからね。実際あそこで暮らせているのも試験をお父さんが捏造して無理やりいるみたいなものだし」

 あいつ本当に終わってるな。あそこの試験なんて潤でさえ受かるんだぞ。百問中たったひとつの問題を解ければ受かるっていうのに。逆に言えば百問中目的であるたったひとつの問題を解くことができなかったら入国、在籍できないってことでもあるが。

「いやでも待て。なんであいつらはあたしを見つけることができたんだ? 技術の進歩か?」

 ううんと姫っちは首を振った。毛先がこしょばい。

「本格的に組織的に、探し出したんだよう」

「組織的? 【Nu7】全体でってことか? あの英雄三人の指示で? たかだかあたしひとりのために? 無駄だろ」

「違うよ。そんなんじゃない」言ったでしょ。姫っちは言った。「息子の逆恨みだって。父親が参加していたプロジェクトのツテを当たって、あるひとに依頼したんだ」

 とあるひと? 誰だ? このあたしを止められる奴?

「グリーディだよう。正確にはグリーディ率いる組織がもがーを確保しに来たんだ。確保っていうか、捕獲? あはは。犬みたいだね」

 なるほど、腑に落ちた。あたしは思わず膝を打ちたくなった。それは名案だなあと。頭いいなあと。同時に大金程度であいつを動かせたって? と疑問も浮かんだ。あの傲慢な野郎が、恩情だとか仲間意識だとかの為に動くとは思えないんだけど。それとは別にこいつはあとで思い切り殴る。

「あのひとは禊石をグリーディへの成功報酬として献上したんだ」

「————は?」

「なんで持っていたんだろうね。所有者は発表されていたし、もしかして誰か脱落したのかな」胸に手をあて姫っちは小さく呟いた。それは、あたしの業だ。本当は姫っちが持つべきものじゃあなく、あたしが覚悟を決めなきゃいけなかったものなんだ。

 楔石の在処は掴めていた。これも七年以上前の情報だけどな。日本とアメリカにふたつずつ、【Nu7】にもふたつ。そしてイギリス、中国、ロシア、ドイツにひとつずつ。興味があって探していたわけじゃなかったから正確かどうかはわからないが、確かそんな感じだったと思う。どちらにせよ古い情報だし、今は違う国が持っているかもしれないが。待てよ。献上? 献上っつったか?

「献上で間違いないよう。正しくは、献上したけど、奪われたって感じだけどね!」

「奪われた? あのグリーディから奪える奴っていうと……」嫌な予感は直後に的中した。おえっと吐き出した。おいおいよりにもよってそんなとこに入れていたのかよ。汚えなあ。炒飯とか卵スープに紛れているんじゃねえか? ってか食ったばっかのものを吐き出すな。吐くなら洗面台に行けよなあもう。と思ったが。

「……吐瀉物ぶち撒けたらぶっ殺してたけど……器用に取り出せたものだなあ姫っち。ロボットだったりするのかい」

 嬉しそうに姫っちは吐き出した石を手に取った。炒飯とか卵スープの残骸はひとつも付着しておらず、匂いも無臭だ。いやすげえよそれ。あたしはできないね。煌々と光る鉱石。世界中に出回っている廉価版——それは失礼だな。各国の奴らが本気で作ったものを安価だなんてな。模倣品というべきか。絆石と呼ばれる鉱石の元となった存在。今や世界の基準はこの鉱石から始まったといっても過言ではなかった。窓の外から差し当たる太陽光に照らされ模倣品ではなく本物。世界の価値観を押しのけた存在————楔石はそこにあった。なるほど。お前なら、確かに姫っちになら奪えるな。むしろこの日本国内における唯一の奪取者といっても差し支えねえだろうなあ。なんてったって同じ所有者なんだから。

「ねえ、もがー」姫っちは当たり前のように笑顔を崩さずさながら天使とまで思わせるような純粋無垢な色を見せた。「これの所有者になってくれないかな」

 逃げてしまった報いが来たのかと思った。あのとき、あたしが選んだこの選択肢は間違っていたのか。

 神様っていう奴はいつだってあたしの邪魔をする。だからこそ、一度は神を殺そうと思って、思いついて、思い切ったが。結局のところ思い止まってしまった。今も昔もこれからも、あたしのような基準点には世界を変える力なんてものはない。あるとしたら向こう見ずな英雄的ともいえる人物だ。

「はあーあ」このため息はどういう意味があったのだろう。既に所有者たる権利を失っていることに対しての憤りなのか、それとも姫っちに対する苛立ちなのか。…………いや。どっちもだなこれは。

 煌々と存在感を放つ禊石にはひとつだけルールがある。そのルールをあたしはもう破ってしまっている。「なあ。姫っち。わざとだったら性質が悪いぞ」「ルールのこと?」そうだ。わかってんじゃねえか。「んー。じゃあもがー以外のだれかに渡してもいいんだね」

「ああ。構わねえよ」

 あのと選んだ選択肢は、間違いじゃない。

 ふうんと姫っちは禊石をこれみよがしに、ごくり、と細い咽喉を鳴らして飲み込んだ。

 もう欲することはしない。あたしはそれなしでもやっていける。

 選ばないという選択肢をしたあたしは、選んだ姫っちに当たるように、ぎゅっと力を込めて抱きしめる。ばたばたと暴れながら笑う姫っちに、少し――――ほんの少しだけ。苛立ちを覚えた。

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