004

 昨晩の出来事から一変。柚乃下は釜罪と共に通学路を歩いていた。徒歩で約四十分の道のりを徒歩で向かうということは、高校生なった今でも苦難の道程だった。こちらに越してきたばかりの頃は嫌で嫌で仕方がなかったのを柚乃下は強く印象づけている。釜罪は縁が長い麦わら帽子を深く被り、長袖かつレギンス着用という日焼け対策徹底振りである。隣を並行する柚乃下が見ても明らかに蒸れそうな恰好だという感想がつい口から出てしまいそうになる。居住を共にしてから衣類や食事に関することに口を出してしまえば叱責を受け続けた柚乃下にとって、暑そうだなという感想すら口に出すのも憚れる。学生鞄を脇に抱えたまま柚乃下は、朝食の時間になっても目覚めなかった少女を思い出す。いびきをかいている西城へ抱えられたまま寝苦しそうな表情も見せずに、胸部へ顔をうずめていた少女。そんなふたりに釜罪は朝食の食器を片したあと、柚乃下の支度が完了するまでの間、少女の頬を撫でていたのだった。共同部屋から飛び出た柚乃下を見て、釜罪は胸中悟らせまいとしてか、準備していた薄手のタオルをふたりにかけた。だが彼は見逃さなかった。同居して約七年経過するなかで、彼女の想いは赤子の手をひねるよりも容易に想像がつく。憐憫と後悔が入り混じった顔色は深く柚乃下の知的好奇心を嗜虐したのだった。通学路につき早数十分。学校への道程は半分ほど進んでいた。いつもなら適度な会話を行うふたりだったが、今日にいたっては会話らしい会話がなかった。焼き付くような日照りは田園風景と共に土臭い匂いを柚乃下へと送る。鳴り響く生存本能をかけた輪唱。中干し期となった田園には蜻蛉をはじめとする昆虫の生命活動が活気づいていた。小さく息を吐いた柚乃下は、声をかけるべきかどうか逡巡する。気を遣われていると察知されてしまわないよう、あくまでも自然体に。「昨日は」顎先に指を添えた柚乃下の先を取って、釜罪がぽつりと呟いた。けたたましい音の中でも彼女の声音は周囲の温度を下げる。釜罪は前を向きながら麦わら帽子のふちを片手で軽く握り、深く目元を隠した。「————昨日は。ごめんなさい。いくら怒ってるとはいえ、ジュンくんを失明させてしまうところだったわ。本当にごめんなさい」身長差があるふたり。柚乃下からは麦わら帽子を下げられてしまっては表情が見えない。同時に彼は昨日彼女がした行為を思い出す。眼球が長時間空気に触れ続けることにより生じる痛みの数々を。柚乃下は、ああと前置きをしながら片手を振った。「いいよ別に。西城さんが後遺症もないように治してくれたし、まあ確かにあそこまで怒ったいちごを見たのは本当に久しぶりだったけれど」柚乃下は麦わら帽子の上から釜罪の頭へと手を置いた。「そこまでして俺のことを想ってくれているってことだろう。だったら言いっこなしだ」「————あのひとがいるからって私はあなたに暴力を振るってもいい理由にはならないわ。正式に謝罪させて」「いいって面倒くさい」素直に謝罪する釜罪を見ることに違和感があった柚乃下は、続けて「俺もお前を思い切り殴ったことあったろ。あれで相殺、チャラだチャラ」と言い切った。昨晩の失明ぎりぎりの行為は彼が言った通り、彼らが寝静まったあと、西城の気遣いで就寝中のなか治療を行っていた。目が覚めると就寝前に感じていた視界内の白い靄がすっきりと晴れており、普段よりもむしろよく見えるようになっていたのである。治せるのならば負傷したとしても問題はない。彼はそう位置づけることにより釜罪の行為を許している。もっとも。常人の思考回路ではないことは彼自身も自覚している。治るのだから傷つけても良いという考え方は根本的に間違っている。だが柚乃下は、釜罪に対してはその考えを貫くことに決めている。誰に言われたからでもなく、その昔、彼女自身と約束したからだ。使い古された麦わら帽子から伸びる栗色の長髪は、彼女が歩くたびに毛先が右へ左へと揺れ動く。後ろから波がかった癖のある髪を眺めることが好きだった。彼に言い切られてしまった釜罪は、一度大きくため息を吐きながら帽子のふちから手を離す。既に前を歩く柚乃下からは見えない位置になっているが、釜罪の口元はふにゃりと緩んでいる。柚乃下は振り返る素振りを見せながら、でもよ、と前置きした。素振りを見た彼女はその緩み切った口元を綺麗な一文字へと変化させる。「さすがに過去一辛かったお仕置きだったなあ。あそこまでされちゃったらもう二度としませんって気持ちになるわ」振り返った柚乃下は一瞬呆気を取られた。先ほどまで口元も見えなかった釜罪は今やこちらをしっかりと見据えていたからである。少しだけ彼はほっとした。なに分意気消沈する状態の彼女を長く見たくはないからだった。自然と彼も笑顔を口元に滲ませた。釜罪は小さく咳払いをした。「当り前よう。夏休みが始まってからじゃあいざ知らず……夏休み前から家出するっていう暴挙を見過ごすわけがないじゃない」「……ごめん。自分のことばっかだったわ」「もう、いいわあ。あなたと話していたら阿呆になるから」「ごめん」釜罪は短く返事をすると柚乃下の手を握った。猛暑のなかで握られたこともあり、柚乃下の手は汗で滲んでいたが、対する掌から伝わってくる体温は気温とは真逆に冷たかった。「早く行くわよ。寝過ごすことも考慮して早めに出たのだけれど、この調子じゃ大丈夫そうね」柚乃下はぴたりと足を止めた。自然と引っ張られる形となる。振り返る釜罪の目線は訝し気で、はやくと急かすばかりであった。言いたくなかったらいいんだけれど、と彼は前置きした。言いにくいことははぐらかしてしまう。その癖を釜罪は既知としていた。おそらくは昨晩のことだろうと彼女は直観的に思った。「……なんで俺達ってあそこから出て行ったんだっけ? 未練とかはないけど。実際あいつが現れて【Nu7】の名前を出すまで授業くらいでしか聞かなかったし興味もなかったから」ただ、と一拍置いてから彼は言う。「お前の様子を見るに、なにかしらの悪意とかがあったってことはなんとなくわかる」昨日だけが原因ではない。【Nu7】から逃げ出した彼らが逃亡した先は東京都の郊外だった。引っ越しをしてからというもの、釜罪の様子は出会った頃からと比べると、明らかに変貌していた。西城が付きっ切りの状態で昼夜問わず釜罪の警護にあたっていたことや、外へ繰り出すにしても柚乃下が釜罪の手を握っていたことは記憶に新しい。数日は居住区が多く存在する場所でいた彼らだが、釜罪の様子は回復することなく、むしろ日に日に衰弱の一途を辿っていた。碌な睡眠時間もとらず、真っ暗な部屋で布団にくるまり息を潜めていた。夜中にパニック症状が出て警察が来訪したことすらある。そんな釜罪を見かねた西城は、人里離れたところへの居住の移動を決断した。ひと目がない場所への移動は憔悴し切った釜罪を慮ってのことであったが、同時に柚乃下にとっては嬉しい誤算でもあった。彼の実家は東京都の郊外にあり、両親と偶然出会う可能性が零ではなかったためである。おそらく両親は柚乃下の存在を許さないであろう。理由は明白だった。【Nu7】に在籍させられた経緯は、在籍し続けることができれば得られる助成金であった。幼い柚乃下にはそんなこと知る由もなく、又、両親からは虐待ともいえる扱いを受けていた彼にしてみれば、暴力暴言を加えないであろう新天地への移動は願ったり叶ったりであった。だが、約七年前に出国をした際に、助成金は免除されているはずである。そのこともあってか両親に見つかった際にどのような扱いを受けるかは想像に難くなかった。なので柚乃下にとって人里離れた田舎への引っ越しはむしろ嬉しかったのである。西城と柚乃下は三人分の手荷物を持ち、業者などに任せることなく西城の所有する車で引っ越しを済ませたのである。柚乃下は返ってくるであろう言葉を待つが、重い口は開かれそうになかった。だが、あらかじめ彼女へ逃げ道を作っていたということもあり、柚乃下はまあと前置きをすると「気になっただけだよ。今すぐに教えてほしいわけじゃない。いつか話してもいいかなと思ったときに隣にいる奴へ言ってやってくれ。伝えることで楽になることもあるしな」短く返事をした彼女の隣に立つ。スマートフォンで時間を確認するが、大した時間ロスはしていなかった。共に歩き出した彼女を横目に、まあと言った。「これから先、お前の隣にはいろんな奴が入れ代わり立ち代わりにいるだろうが、できれば俺に言ってほしい。俺はお前にとって一番じゃなきゃだめだと思うから」特別な感情を抱いているわけではない。約七年間同じ屋根の下で衣食住を共にしていたのだ。恋愛感情だったりそういったものでは断じてなかった。強いて言うならば家族としての感情であった。血は繋がってはいないが、血ではない鎖で繋がっている家族とでも表現するのだろうか。ともかくと彼は胸中思い直す。釜罪にとっての一番は西城ということも理解している。相談をするなら彼女に持ち掛けるのが一番の解決策だということもわかっていた。だけれど、それでも彼は彼女にとっての一番でありたかった。夏の日差しを麦わら帽子で防護する釜罪の表情はいまだに見えないし、見ることもしないが、おそらくは困惑したような表情を浮かべていると彼はひとり思ったのだった。

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