003

「こんな時間になっちまって悪いな姫っち。この阿呆が大人しく風呂に浸かってやがるから、あたしの豊満な肉体美を」「本当に悪かったからそれ以上言うのはやめてくれ……」「……まあ。二週間ぶりに親睦を深めた潤のことはさておき。風呂場で少し事情を聞いたんだが、あたしを探していたんだって? どうしたどうした独り立ちできるようにいろいろ教えてやっただろう。それがなんでわざわざよりにもよって、あたしを探すことになったんだ。そっちほうが手間だろう」長身な体躯にタオルを肩へとかけた西城は、冷やしていた牛乳をパックのまま口をつけて飲んでいた。あられもない姿で牛乳を飲み干す姿に、釜罪は腰かけた姿勢のまま深いため息を吐く。もはや慣れ親しんだ光景として落とし込んでいる彼女だが、慣れてしまっている自分に対しての嘆息だった。柚乃下は下着一枚の姿で釜罪の横へと腰をかけた。「なんであんたはそんな恰好でうろついているのかしら」睥睨とした視線を受けた柚乃下は無視をした。先ほど受けた叱責の抗議としての行動だった。釜罪からの謝罪がない限りは口を利かないと決めていた。西城の言葉を受けて少女は短く牛乳が飲みたいと言った。「お前牛乳飲めなかったんじゃなかったっけ。飲めるようになったのか?」「飲めないよ!」「だったらなんでまた」少女は小さく笑いながら、だってと前置きした。「もがーが飲んでるから飲みたくなったの」やれやれと西城は冷蔵庫へと戻り新たな牛乳パックを用意した。一リットルのものではなく、二百五十ミリリットルの瓶だった。少女は嬉しそうにお礼を言って口をつける。

 わざとらしい咳払いがひとつ。柚乃下の横から聞こえた。釜罪は足を組みなおしつつ「それで。あんたはいったいなんなの。西城さんの知り合いっぽかったからシャワーも貸してあげたんだけれど……西城さんに話があったんじゃあないのかしらあ」会話が途切れないことに苛立ちを感じた釜罪は、話を進めるよう促す。受けた少女は牛乳でできた白髭を拭きとることをせず、溌剌に返事を返した。「もがーに助けてもらおうと思って」助け? と反芻したのは三者全員だった。少女はうんと続けた。「帰り道がわからなくなったんだ」「帰り道っつったってお前……」西城は乱雑に髪を搔きむしる。横目で釜罪を見ている彼女は罰が悪そうな声音で続けた。「【Nu7】に帰るってんならあたしは力になれそうにねえよ。なんたって大逆人のレッテルを貼られちまったんだから。もしそんなものがなくなって」椅子が転がる。勢いよく立ち上がった釜罪はひどく困惑した表情を浮かべていた。【Nu7】という組織には柚乃下と他二名が約七年前に所属していた。詳細は聞いてはいなかったが、ある日血相を変えた釜罪を引き連れ、西城が力技で柚乃下諸共島国から脱出した。なぜそんなことになったのかは七年経ったいまでも柚乃下は聞けていない。訊いてはいけない空気が釜罪から感じ取れるし、西城も彼女が言わないつもりならばと固く口を閉ざしていた。微かに震えだした釜罪は、自らの腕を抱き込むようにしてきゅっと口を横へと絞った。秒針が進む音。適温ではなくなった室内を強制的に冷やす冷蔵庫の機械音が微かに鼓膜へと届く。衣類の上からでも相当な力を込めているのだと柚乃下は思った。久しぶりに困惑している釜罪を見てしまった彼は、釜罪の代わりに会話を続けようと咳払いをし直した。

「迷子ってことか? 【Nu7】だったら空港にでも行けば定期便も出てるし、船や電車だって経路はあるだろ」「そういうのじゃないんだよ潤」空になった牛乳パックを台所へと放り投げ、新たに冷えたビールを開けつつ西城は口をはさむ。「それはひとりで行動できる奴がする行動だろう。姫っちには無理な相談だ」くいっとひと口ビールを流し込む。「こいつはひとりで行動できない呪いがかかってるんだよ。呪いというか、なんというか……」「ああ。そういうことね。そういう代償ってわけ?」柚乃下は憐れむような表情を浮かべながら、口元の白髭を袖で拭う少女を見た。首元や耳といった部分に目当ての鉱石がない。とすれば。「身体に埋め込まれてるってことか?」「そういうわけじゃあねえんだが……まあ近しいものではあるな。あたしが昔参加していたプロジェクトの一環だったのさ」ふうんと柚乃下は曖昧な返事を返す。西城が参加していたプロジェクトの話は少しだけ聞いたことがあったのだ。かつて【Nu7】で研究者として活動していた頃の話を。仕事場での飲み会の際に酔い潰れた西城を迎えに行ったとき、呂律が回らない様子で彼女自身が言っていたのだ。罰が悪そうな色を浮かべた西城は、残ったビールを飲み干し、追加といわんばかりに冷蔵庫を開ける。

「————」伏し目で沈黙していた釜罪がぽつりと何かを呟いた。柚乃下はそちらへと視線を向ける。彼女の表情を見て肝が冷えた。咄嗟に柚乃下は釜罪の肩を抱き、目線を合わせる。「おい大丈夫か。今日はもう寝ろ、な」「……潤くんは」「なに?」釜罪は肩に置いた柚乃下の手を軽く振り払いながら、かぶりを振った。彼女は目線を少女へと向ける。少女は西城が飲んでいた缶ビールを羨ましそうに眺めていた。西城は少女がいたずらをしないよう見張りながら次の一本を飲んでいる。その表情はなにか大切なものを扱うような、そんな瞳だった。釜罪は心臓がひどくうるさい胸中を軽く小突きながら、柚乃下の胸板をぐいっと突き放す。二歩三歩と下がった柚乃下の目線は困惑していた。釜罪は一度深呼吸をし、鋭い眼光を取り戻した。時刻は既に三時を回ろうとしていた。ひとつ大きく伸びをした釜罪は「……もうこんな時間なのねえ。やっぱり明日学校へ行くことにしたわあ」と言いながら自室へと歩き始めた。おいと柚乃下が声をかける間もなく釜罪は振り返る。「おやすみなさいジュンくん。あなたも明日学校へ行くのだから、早く寝なさいよう」授業中に寝るだろうから問題ないのでしょうけれど、そう言い残した釜罪は、静かに自室へと戻ったのだった。確かに時間も時間だなと柚乃下は思った。西城は少女を抱きながら会話をしていた。相変わらず衣類は身に着けていなかったが、この場の誰も気にしていなかった。彼は西城へ登校の意思を示すと、少女にもひと言告げ、釜罪が這入った部屋へと静かに入室したのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る