002

 時刻は既に零時を大きく回っていた。秒針がひとつ。またひとつと進む音だけが空虚に響いている。二時間はこうして正座を崩すことなく涙を流し続けている。後悔や慚愧の念が強くあり、心からの謝罪を済ませ許しを得たからではない。柚乃下は約二時間瞼を閉じることなく正座をし続けているのである。身体に異常が発生したため、彼の眼球を保護するために彼自身の肉体は潤滑油を絶え間なく流すこととなっている。

「私はね、別に怒っているわけじゃないのよう」栗色の彼女が椅子で脚を組みながら、睥睨とした表情で柚乃下を見下ろす。頬杖をつきながら嘆息。「ジュンくんももう立派な高校生。私や西城さんの手を煩わせることなく独り立ちができる年齢よねえ。あーあ、立派立派ゴリッパなことで」逆の手でゆるくパーマのかかった髪を弄びながら「なに? ジュンくんってばいつの間にか私より偉くなったの? だから報告も連絡も相談もしなかったってわけなのよねえ」釜罪いちごは明確に舌打ちをした。柚乃下は尚も涙を流しながら正座から動けない。彼が目に焼き付けているのは彼の目の前で椅子に座り、脚を組んでいるその奥。かすかに見えそうな下着に釘付けになっている――――わけではない。十数年共に生活をしていくなかで、衣食住を共に過ごすうちに彼は彼女を意識しなくなっているからである。下着ではなく、柚乃下の眼前にはっきりと存在する物体。釜罪はため息を吐いた。「こーんな時間になって少しばかりの家出少年を気取ったのかもしれないけれど。はっきり言っていい迷惑なの。夏休み前だから大目に見ていたけれど。別に心配はしていなかったわあ。死なない程度に大きくなって戻ってくるって信じていたからあ」でもねえと釜罪は続ける。「あんな女の子を深夜の時間に連れまわすような男に成り下がっているとは思わなかったわあ。しかもあれ中学生とかでしょう? 落ちたものねあなた」柚乃下からは表情が見えないが、苦楽を共にした期間はそれなりに長い。彼女がどのような表情を浮かべているのかははっきりと理解している。「なんとか言ったらどうなの? ずっと黙っちゃって……ジュンくんってばもしかして浮気がバレた際に正座をして黙秘権を行使するようなクズ野郎だったってわけ? 本当に終わっているわねえ。言い訳のひとつもしたらどうなの? 眼球潰すわよ」正に釜罪いちご絶好調の姿であった。目の前にみっつもの眼球が柚乃下と視線を交差している。嫉むような。怒っているような。憐れんでいるような。そんな目玉がみっつ。ふわふわと柚乃下を睨み続けている。そしてどうやら本日の釜罪の思い描いている設定は、柚乃下と交際をしているという前提の会話劇であった。一方的な罵倒を会話と定義づけてよいとするならばの話だが。絶好調釜罪は恍惚とした表情を見えないよう、やはり能力を解除しないまま続けた。「本当に潰してやろうかしら。そうすればあなたは大人しくなるのかしらあ。いわゆる去勢のようなもので、一度潰せば言うことを聞くようになるのかしら……」そこで黙るなやめろと言いたい柚乃下はやはり自らの意思で動けない。水が勢いよく流れ出す音が聞こえた。シャワールームの方向であった。少女の楽しそうな声が聞こえた。

 あれから柚乃下は圧倒的な存在感を放つ少女を放っておくことはせず、探し人である西城に邂逅させるべく自宅へと連れ帰った。その際の時刻は十八時前であり、西城は戻っていない可能性が高かったが、ともかく放っておくことができない危うさを感じた彼は、西城から無断で拝借した原動機付自転車を利用して数十キロ離れた自宅へと戻ったのである。その途中に少女は名乗らなかったし原動機付自転車を二人乗りした彼が責めるべきではないのだが、少女は運転する柚乃下の後ろで立ったり座ったり、手を離したりして遊んでいた。化け物じみた身体能力だと認識したのはその時だった。約四時間もの間そんな運動を繰り返していたのであった。舗装されていない峠道も走ったりしたが、結局只の一度も落ちることなく到着したのだから称賛に価すると柚乃下は思ったものである。到着した際、なによりもまず確認したことは居候をしている住居の光量であった。真っ暗な住居を確認した柚乃下は、子供らしくはしゃぐ少女を諫めゆっくりと持ち前の鍵で玄関を開けた。そこまではよかった。扉を開きぎょっとしたのを覚えている。悠然とした態度で机に頬杖をつき、脚を組んで玄関を睨みつける釜罪が鎮座していた。その視線は冷たく尖っており、有無を言わせぬ迫力があった。背後からは急停止した柚乃下の背中へ顔面をぶつけた少女が間抜けな声でつんのめった。抗議の声を上げていた少女を構うことなく、彼は黙秘を貫いたまま釜罪の前へ正座をしたのだった。より正確に表現をするならば、正座を強要される雰囲気だったのである。そしてそれから釜罪は激怒をそのままに柚乃下と相対している。

 それで、と釜罪は能力を解除した。ボーリングの玉ほどあった目玉が雲散霧消し、柚乃下は久方振りに瞼を重く閉じた。眼球の表面がやけに熱いという感想を言う間もなく、釜罪は続けた。「あの子はいったいなんなの? ジュンくんの関係者だったのかしら。とりあえず臭かったからお風呂をすすめたけれど、ってあんたもよく見れば結構汚れているわねえ。あとで一緒にお風呂する?」「ガキじゃあるまいしひとりで入れるよ」「子供よう。自分の置かれている状況を理解できていない只の子供」釜罪は小さく笑みを浮かべた。「まあいいわあ。私は言いたいこと言ったし、ストレスも発散できてすっきりしたし、それで結局贈り物は買えたのかしら?」バレていたのかと柚乃下は秘密にしていたことが露見した子供のような表情を浮かべながら小さくすいませんと謝罪した。え。と釜罪は素っ頓狂な声を上げる。「まさか二週間も家出しておきながら、あれだけ息巻いていたプレゼントのひとつも買わずにのこのこ戻ってきたというの?」瞼からは多量の涙が溢れており、柚乃下は目を開けずに再度正式な謝罪の意を込め頭を下げた。「金は貯まったけど、肝心の物が思いつかなくて……」柚乃下は瞼を開けずに釜罪の方へと顔を上げた。「あのひとなんでも自分で買える経済力があるし、二週間前にも聞いたけれどなにも要らないの一点張りだったしなあ……」「あんた本当に阿呆なのね。学力だけじゃなく地頭も悪かったのねえ」誰の背中を見て育ったのかと釜罪は続けた。「あのひとにあげるプレゼントなんてなんでもいいのよう。それこそ炉端の石ころでも子供のようにはしゃぐはずよう。そういうつながりを重んじているのがあのひとなのだから」かぶりを振った。「本当に本当の本当な莫迦ねえ。子供というより只の莫迦よう」本日何度目かわからないため息を吐いた釜罪は、シャワールームで大声を上げる少女へ苛立ちを覚えたのか、舌打ちをしながらそちらへと向かった。自らの箪笥から新品同様の下着一式を大きなタオルで包みながらシャワールームへと向かう。柚乃下はやっと開くことができるくらいにまで回復した瞼を気遣いながら、シャワールームからぎゃあぎゃあと聞こえる釜罪の声を無視して涙を拭くものを探す。微かに広げた瞼から見える景色は涙で歪んではいるものの、近くに落ちていた布で顔面を拭いた。つんとした香りが柚乃下の鼻孔を擽った。思わず布を顔から遠ざけた。おそらくは西城が使用したタオルが床に転がっていたのだろうと思った。西城は着ていたものを放置し、使ったものは自分が次に取りやすいようその辺りに放っておく悪癖があるからだ。最悪だと柚乃下は胸中吐露しながら、幾分か快復した瞼を何度か瞬きする。シャワールームの扉を開け、脱衣所へ向けてなにかを言っている。大方シャワールームで楽しそうにしている少女に腹が立っているのだろう。釜罪は結構怒りっぽい。痺れを切らした脚を労わるように、柚乃下は姿勢を崩す。壁にかけている時計を見やり、現在時刻が深夜の一時を回っていることに気付いた。そろそろかなと柚乃下は思う。ちょうどその時、一台の車が砂利道の上を停止する音が聞こえた。深夜だというのに近隣住民へと配慮をしていない急停止。柚乃下は約二週間振りとなる恩人が帰宅したことを理解した。バタンと玄関の内側にまで聞こえる暴力的な車の扉を閉める音。シャワールームから泡だらけになった釜罪が出てきた。衣類の端々が濡れていた。「あの子なんなの。シャワールームに入ったまま遊び惚けていたわよう……相変わらず獣臭かったし。無理やりシャワーを浴びせたら抵抗するわで、子犬を拾った感覚ってこういう気持ちなのかしらねえ」びちゃびちゃようまったくと呟いた彼女は「潤くんもあの子が出てきたら次入りななさいねえ。明日は学校を休むわあ。こんな時間に寝ちゃったらお昼まで起きる自信がないもの」「俺の前に西城さんだな。今帰ってきたと思う」釜罪は短くそうと返事を返すと冷蔵庫を開けた。ほとんど同時に玄関の扉が開く。肩越しに見る西城はシャツやブーツは泥だらけに汚れており、首にかけたタオルで端正な顔を拭っていた。そのままブーツを脱ぐことなく玄関先で姿勢を崩している柚乃下の背中を思い切り蹴りつけた。急転した視界をそのままに柚乃下は抵抗する暇もなくシャワールームの前まで転がる。抗議の声すら上げることなく瞳をぱちくりとさせた。当の本人は大きく鼻から息を吐く。「オヒサ。一緒に風呂でも入るか? それともなにか、心配したあたしを断ってひとりで入るってのか」ああん? 身長百九十二センチの西城は憤慨したままの表情で、そして二週間前と変わらない傍若無人振りを披露した。上下が入れ替わっている状態の柚乃下は、その態勢のまま両手を上へと上げた。もう好きにしてくれという意味ということは火を見るよりも明らかだった。

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