第14話 逃げる
教室の扉を開けると、一気に私へ注目が集まった。
「おぉ、優紀さん。もう大丈夫?」と現代文の中込先生が言った。
私は「大丈夫です」とそっけなく答えた。
本当は、先生に、皆にすべてぶちまけたかった。しかし、そんなことをしたら、今以上に私の立場が悪くなるのは目に見えている。卒業するまで、大学に合格するまでと私は喉まで出かかっていた言葉をしまい込み、自分の席に座った。
先生は黒板に向き、「よって欠けているから美しい」と矢印のしたに先生らしい綺麗な文字を書いた。
問題文を読み、今日は晴れているから3番!といつもの訳の分からない方法で生徒に当ててゆく。三番の石田君がけだるそうに答えると、中辻先生は「せやな、そやな」と口癖を連発した。例え、問題の答えがあっていても、間違っていても先生は「せやな、そやな」と肯定する。それからゆっくりとした上品な動作で物事をすすめてゆく。
りりかは、中辻先生のことをトロイと揶揄っていたけど、私はその少しずつ丁寧に前に進んでゆく姿が好きだった。
いつもの時間が流れ、少しだけ心が落ち着いてきた。
私は居なかった時間を取り戻すべく、黒板に書いてある文字を必死に書き写した。
「せやな、そやな。ここはさっきの問題の魅惑の下の部分だからそうなるな」先生は手に持っていた白いチョークをマイチョーク入れに戻した。先生のチョーク入れにはいつもシロ二本と青と赤と黄色が一本ずつ角の減らない新品のまま収まっている。
「それじゃあ次行こうか」先生は教卓の上の教科書を両手で持って言った。「次の問題を、先生は今、トマトを食べたい気分だから、トマトの十九番」
私は、自分に当たらなかったことにほっとした。菊池さんが放送部員らしいはきはきした声で答える。
私は黄色の蛍光ペンで線をひこうと、机の上のペンケースを探すがなかった。いつも学校に置いている第二のペンケースを手に取ろうと、机の中に手を突っ込んだ。
「せやな。そやな」と先生が目尻を下げて言う。
かさりと何かが手に当たった。そろりと引き出すと、カッターで切り刻まれた私のノート教科書があった。マッキーペンでカンニング女と書かれている。ちりじりになった紙をよく見ると、私の日々使い込んでいた英単語帳だった。私が書いた星印や重要の文字が見える。
りりかのニンマリと笑う顔が、いやらしく自分の眼の裏に張り付く。
あぁ、駄目だ。
最後の自分を保っていた何がぷつりと切れてしまった。体の力が膨らんだ風船に針を突き刺したように、どんどんと抜けてゆくのが分かる。もう、戦えない。無理だ。家に帰ろう。りりかと離れよう。りりかと戦うのはやめよう。高校は転校してもいい。高卒試験もある。大学生になる道は、まだ閉ざされたわけじゃない。
私が立ちあがると、皆の目ん玉がぎょろりとこっちを向いた。
「どうしたの。優紀さん」と中辻先生が言う。先生のアイスが溶ける前のような顔に泣いてしまいそうだった。くすくすと笑い声が後ろから聞こえる。もう一秒たりとも彼女たちと同じ空間にはいれない。頭が狂ってしまう。
私はすぐに教室を出た。先生が何かを言っているような気がしたけど、先生が発したその音は何も意味を持たなかった。泣いてしまったら、すべてが無駄になる気がして奥歯を思いきりかみしめた。
教室を出る時に見せた那賀さんのざまーみろと言いたげな、満足げな顔が嫌に癇に障った。
私は誰も使うはずのない旧館のトイレの個室に入った。
ずっとこらえていた涙がとめどなくあふれてくる。泣いているところを誰にも見つからないように必死に口を押えて、どうしようもなく噴き出してくる感情をばらまいた。ひしゃげた音の塊がみすぼらしく動いている。どうして私だけがこんなにも苦しまなければならないのだろう。
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