002

 打擲し続ける。室内には激情に駆られた空気洗浄機の声があった。彼は何故置かれてしまっているのだろう、少なくとも腰を痛め、腱鞘炎を引き起こしている私にとっては無用のものだ。背後からはなにも聞こえない。新しい墨を載せた紙は書き上げると同時に素読みもせずに年季の入った印刷機から排出されていた。とても長く付き合いのあるこいつは、一枚を出力するのに多大な時間を有していた。機織りの繰り返しのような断続的ともいえる機械音。ひと段落つけたあと、積み重なった紙束を一枚撮影した。送った先は彼女だった。深夜も廻って久しいが、煙草を二本吸い終わる前には返事がきていた。文脈には驚きと賞賛、彼女の悪癖のひとつだった。やってくる日時を手短に表示された画面を見つつ、ようやく食事にありつける幸福に身を焦がす想いだった。

 冷蔵庫には発泡酒缶が数本。生ものは一切見当たらない、確かに買物へも行っておらず、ここ数日は乾麺を湯に戻さず食べる毎日だったと思い出した。頤を上げ誰にともなく唸ったあと剥き出しの右脚を搔きながら突っ掛けを履いて外出する。底冷えのする季節ということもあり、粟立つ皮膚の表面がどことなく気分の良いものだった。銜え煙草に火を燈し、階段で下りた。エレベーターを遣うほど常識外れではない、けれども不思議と歩き煙草はしてしまう。これもひとつの無法というものだ。口腔に溜めた白煙を吹き、体温の残滓との違いについて考えるも、私は個人に於いて無力だ。小説を書く切欠はいったいなんだったのだろう、と下り立った混凝土の上で考えた。燻す匂いを纏わせて歩調を強める。嘗て存在する幼少の頃が切欠だろうか、それとも成長し仲間などと青春を費やした高校の頃だろうか、はたまた才能に絶望を押しつけられていた社会人の頃だろうか。唸る声は一向に止むことなく、青い空気を迎え入れる小売店へと這入る。暖房の効いた室内だった。私の部屋とは雲泥の差でさえあった。適切に食したいものを籠へと抛り込み、発泡酒ではなく麦酒や焼酎といったものも買い込む。原価を知っていながら購買欲を掻き立てられるのは、付加価値が強いからか、はたまた衰弱した神経の恩恵だろうか。財布には金銭のひとつも入っていない。これは暴漢に襲われた際に差し出すための囮であるためだ。スマホの画面で決済を済ませたあと、自動扉が反応するほんの少し手前で立ち止まった。

「……なんでいるのかしらん」嘆息が零れ出た私を迎えたのは、彼女だった。どのような手法を取ってやってきたのかは甚だ疑問ではあるものの、分厚いコートを身に纏っていた彼女の横に並ぶ。手を引いて帰路へと向かう。「近くまで来ていたのかい、それともさっきのメールは嘘だったのかい」

 下げていた袋を押しつけて、代わりに彼女の着込んでいた分厚いコートを奪った。仔犬のように鳴きながら非難の眼で見据えた彼女は、諦観の様子で肩を落とした。

「元々様子を見にくる予定だったんですよう、けれども先生寝ていたら悪いなーとか思いながらも担当者として来てみたら鍵が閉まっているじゃないですか。はっはーん、と名探偵は閃いたわけですよう。先生は喰うものに困って買物にでも行ったんだなあって、部屋の扉の前には落とされたキーケース、ははははーん、と思いましてねえ。やっぱり犯人は現場に証拠を残す痛い痛い痛い暴力駄目絶対」

「御託はいいのよ御託は」煙草を吸おうと取り出すと、彼女の非難を超えた叫び声が街中を騒がせた。反射的に耳を塞いでしまった。

「ずぇったいにそのコートに匂いつけないでくださいね、高かったんですよう。先生に見てもらおうと思って着てきたのに、褒めてもくれやしない」

「女の服になんて興味ないよ。ごめん煙草に火、点けちゃった」

 悲しげな声を無視して歩く。するとついこの間遊具に跨った公園が姿を現した。ひとりでなくとも存在を確かに感じられるのは、初めてのことだった。吸い寄せられるように敷地へと這入り、決まったブランコに腰を下ろして麦酒を取り出し口をつける。彼女は肩を震わせながらも横にある同じ遊具に腰を下ろした。心地の好い温度だった。彼女は温かいコートを買ってご満悦だったようだが、私のような人間の前で着てきてしまったのが運の尽きだ。奪われることは知り得た事実だろうに。手早く新しい煙草を点け、黄土色の液体と共に流し込んだ。とはいえ彼女のことを思うと長居は無用だ。しばらくは彼女と白熱とした原稿の話に傾聴していたが、ひとつの嚏のあとにその場から腰を上げて宙ぶらりんになっていた手を握る。程好く冷たく、まるで心の裡側のようだった。擦り寄った彼女の肩へ腕を廻して公園を出た。後ろ手に空缶を所定の場所を思い返しながら投げ棄てた。甲高い空虚な音は、果たして目的に到達したものだったのか、それとも甚だ違う場所に辿り着いた轟々としたものだったのか。振り向くまでは不明瞭で、振り向く気にもならなかった。

 蝶番が翅を広げて誘いをかける。矮小で猥雑な生物は、興味本位で覘くのだろう。けれども決して忘れてはいけない。我々が深淵を覘くとき、深淵の扉が開かれるのだ。開け放たれたものは決して眼を合わせてはいけない。それが私という人間の本質だとしても、見るべき時期を鑑みて行動に起こすものだ。

 隣の栗毛からは痛んだ毛先と、甘ったるい砂糖のような匂いがした。風の矛先を恨みながら、私は何本目かの煙草を点ける。乾き切った口腔は酷く、舌を持ち上げて唾液を啜るのみである。ほんのささやかな幸せというものは、本当に、これくらいのものだ。

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