第41話:夏休みのとある日
***
八月某日。真昼間。
徒歩五分程度の距離にあるマンションに着いたのは『やばい。すぐ来て』というメッセージから三十分後。
俺を呼び出した智也は出迎えの言葉もなく開口一番、「ちづ! 遅い!」と半泣きだった。お前はいくつだ。
この暑い中事情もきかず、すぐに来た方だろう。俺ときたら優しさの塊かよ。
「もう帰ってきたのか。映画は?」
「うん、行った」
「面白くなかった?」
「違う。……あいつら急に見るやつ変えた」
玄関のドアを背に智也と向き合う。
体にこもった熱が少しだけ冷えて心地いい。
ポタと首筋に流れる汗をシャツの襟で拭って改めて智也の顔を見た。
不貞腐れている。プラス不安げだ。
眉を下げ口を尖らせ、垂れた目は弱々しい。
この表情は何度も見てきた。どんだけでかくなってもガキの頃から全く変わらない。
数日前クラスメイトからお誘いがあった。ベストセラー小説だかが原作の映画を見に行こうと。
午前中から集まり、その後は体を動かす計画だったな。実にアクティブなことである。
興味がなく俺は断ったが智也は参加した。
見るやつ変えた、ね。なるほど。最近バンバン宣伝されてるアレか。
ドアが開かれたままのリビングから冷気が流れてくる。
智也の体が小さく震えたのはそのせいではない。
「もう、めっちゃやばかった……。今世紀最大の恐怖をあなたに……」
「良かったな、当たりだったか」
「ストーリーとかほぼ覚えてない」
「お前……」
さて。俺は二つ気になっていることがある。
一つ目。何故俺を呼び出したのか。怖いならうちに直接来ればいい。アポなし訪問は珍しくない。
そして二つ目。俺の足元にある小さなローファーだ。これはコイツのものでは到底ない。
「智也、誰か来てる?」
「え、あ、うん。それでちづ呼んだの。じゃなかったら俺真っ直ぐちづんとこ行ってるよ」
「……女子?」
「うん。さすがに男女二人っきりってのはマズいかなって」
ふんふん、読めてきた。
俺を女子と二人の空間に呼び出すとすれば、この靴の持ち主は――
「瀬名くんっ! やっほー」
白坂。お前はほんと、どこにでもいるな。
そのうち俺の部屋にも現れそうだ。その時は完膚なきまでに追い出してやるが。
事前に察知できてよかった。リビングから出てきた姿にため息を吐く余裕が持てたよ。
白坂は見慣れた姿だった。
教室でよく見ている姿。そう、制服だ。
休みだというのにこの人は学びに行っている。
彼女の名誉のため詳細は伏せるが試験の結果が悲惨だったのだ。え? 伏せてない?
ここにいる人物を当てることはできても経緯までは分からない。何故コイツがここにいる。
「ほうほう。瀬名くんはオーバーサイズ男子でしたか」
何の話だ。あぁ、服ね。
じゃあ智也はー……シャツ羽織り男子?
「映画終わってすぐ帰ったのに、まだこんな明るいのに全然人いないのよ、まじで生き残ったの俺だけかと思ってたら大はしゃぎしてる声がしてね。見たらブランコで遊んでる白坂さんがいたんだよ」
「いやあ、久々だったから大興奮だったんだけど、この世の終わりみたいな顔して比永くんが現れてさぁ、何事かと思ったよ」
「生存者いたと思ってめっちゃ安心した」
「ほら、この通りあまりに様子がおかしいのでね、おうちまで送ることにしたのです」
「一人でブランコはしゃいでるのも十分おかしいけどね」
「言うねぇ、比永くん」
智也がこっそり「ちづの家はバラさない方がいいかなって配慮した」と言ってきたのはリビングに入ってからだ。それはどーも。
だがばちこんかましてきたウインクはイラッとした、帰るか。
「比永くんって怖いのダメなんだねぇ」
「無理です。覚えてる限りトイレの花子さんから無理です」
「あー、あったねぇ。あれ学校のトイレだけなのかな?」
「当たり前じゃん! 家にまできたら迷惑!」
「花子って子供だよね、確か」
「あーあーあー、もうやめよ。思い出したくない」
「トイレに小学生女子がいて何が怖いのかな」
「言うねぇ、白坂さん……」
ごもっとも。
「男子トイレにも花子出るの?」
「そういや……ちづ、どうだっけ?」
「知らん」
智也宅のリビングに白坂がいる。
見慣れた場所と見慣れた姿。でもその二つが交わるのは違和感で。ちぐはぐで。
けれども二人はあまりに自然だ。そして俺も、この状況を受け入れるのに時間がかかっていない。
ああ白坂ね、ハイハイ。くらいのもんだ。
人はこうやって順応していくんだろう。
「ちづ泊まってって。今日父さん帰ってこない」
「……へぇへぇ」
「あたしも泊まる?」
「ばっ……! 白坂さんっ、そんなこと軽々しく言うんじゃありません!」
「えー、つまんな」
両手を広げて冷気を浴びながら頬が緩む。
涼しいから? いや、そうじゃない。
「ちづ、麦茶飲むー?」
「んー」
「白坂さんおかわりいる?」
「うん。手伝うー」
キッチンから智也の声がする。グラスの準備をする音も涼し気でさながら風鈴だ。
閉じていた瞼を開けてそちらへ視線を向けると智也の隣でぐびぐび麦茶を飲む白坂が見えた。
手伝いとは?
うちに連絡……、は後にしよう。
白坂の前でスマホはいじりたくない。とてつもなく面倒になりそうだからな。
すっかり汗もひいたところでソファに腰を下ろすとテーブルにグラスが置かれた。
智也が隣に座る。
白坂は飾り棚に並ぶ写真を見ていた。
あるのは家族写真だ。……幼少期の俺もいた気がするが、気付かれないことを祈ろう。
「ごめんね、暑い中呼び出して」
「いーよ、別に」
カランと氷が崩れたグラスへ手を伸ばす。
小さな智也を見ての感想か、「可愛いねぇ比永くん」と弾む声がした。「比永父? これ父? かっこよ!」とはしゃぐ声が続いて智也が笑う。
賑やかだ。白坂がいるだけでリビングがなんて明るい。
あー、駄目だな。普段なら思わないのに。ここだと駄目だ。声に口角があが——
「あっ! これって瀬名くんの巾着と同じだね? おそろだ」
指先にグラスが触れて、俺は止まってしまった。
ちらり、智也を見る。
シャープな顎先に微か力が入ったようだった。
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