第33話:不機嫌な猫


 すっかり腹は満たされた。

 手を合わせ「ごちそうさまでした」と口の中で呟きカラになった弁当箱を片付ける。

 椅子の背もたれに深くもたれかかると腹の上に置いた両手がずるりと腿へ滑って、アイボリー色の化粧板がぼやけて見えた。やべぇ、眠い。

 視界に映るものがどんどんとなくなってい――


「瀬名くんはだめだよ!」


 白坂の大きな声に肩が揺れる。

 がくんと下がっていた首を起こせば、両腕をクロスさせバツを作る白坂の姿。

 目線の高さがさっきと違う。体が椅子からずりずり下がっていたことに気付いて座り直した。


「びっくりした……、なによ莉子」

「いっぱい男子はいるのに何故瀬名くんなのか。目の前にいるからって安易に考えてもらっては困りますね!」

「……えっ、莉子。まさか瀬名くんのこと?」

「あ、違いますー」


 平坦な声は街中でたまに見かける客引きやナンパをさらりと交わす女性のようだった。

 ナンパ。そこから別のものが過るが今は考えないでおこう。それよりもだ、乱高下激しく速やかに否定する白坂に山崎さんが笑っている。

 おお、普通だ。普通に笑顔だ。

 ぱちぱち。瞬きを数回して視界をクリアにした。


「じゃなくてね、なんていえばいいのかな」


 智也の左肘が右腕をつついてきた。見てはいないがうぇ~いとでも言いそうな顔をしていると思う。

 なんだ、なんの話だ。流れが分からん。

 あまり自覚はないが俺は寝ていたようだ。少し頭がスッキリしているのも気のせいではない。

 いや、そうでなくても多分ろくに話は聞いていなかっただろうから、結局分からんのだろうが。


 仰々しく腕を組んで白坂は言った。


「瀬名くんを好きになったらね、幸せになれる人がいないんだよね」


 ひどい。


「ど、どういうこと。瀬名くんって何かヤバい人なの? 普通に見えるんだけど」

「やっ、そうじゃなくてねっ、えーとね、うーんとね。誰も幸せになれない、的な」


 変わってないが。


「大体、そもそも、何故この二人を前にしてこちらへ向くのか!」


 ……まぁ、なんとなく話は分かった。

 山崎さんが俺を良く言ってくれたか選んでくれたか、なんかそんな感じだろ。

 で、白坂は女子である山崎さんの注目をどうにか俺から逸らしてくれようとしていると。

 分かった。分かったんだが。


 前から思ってはいたが、コイツはちょっとやり過ぎる傾向があるね。

 これでは「莉子は何をされたのか」といらぬ誤解が生まれかねないじゃないか。


「やっちゃん、そういうとこだよ」

「えぇ?」

「男を見る目がないのでは?」

「一応傷心中の友達に辛辣すぎない?」

「比永くんの何がご不満か! 爽やかだし身長高いし優しいよ!」

「不満とか言ってないでしょ。ただ、私は瀬名くんがかっこいいと思っただけで」


 この会話に突如、無言で参加した者がいる。智也だ。スッと山崎さんへ手を差し出し握手を求めた。

 お前はほんとさぁ……。

 山崎さんびっくりしてますよ。

 おかげで俺は驚きも恥ずかしさも消えたが。……いや、完全には消えていないな。顔が少し熱い。


「いやあ、山崎さんって分かってるね! そう、ちづは見えづらいかもだけどイイ顔してるんだよ!」

「あ、顔って意味じゃなくて」

「え、顔って意味じゃなくて?」


 差し出した手は握られることもなく、ぺたりとテーブルに着地した。

 何でお前がショック受けてんだよ。

 俺がすべきだろ、その顔は。


「あ、ちが。そういうアレでもなくてね。瀬名くんってなんかこう堂々としてていいじゃない」

「どう、どう……?」


 山崎さんの言葉に白坂は突然日本語が分からなくなる。

 だがそれは俺もであった。俺のどこが堂々?


「なんか山って感じ」


 反応を見せたのは智也だ。「なるほどね、動かざること山の如し」と口元を隠しながら笑っている。

 立ち直りが早いのはいいが、バレバレなんだよ、お前の言いたいことは。


 だが、なんだろう。山か。

 でっかい男って感じがして、うん、悪くない。

 俺の解釈が彼女の真意と違ったとしてもとてもいい気分だ。


 しかしそれは長くは続かず、


「山はちょっと分かんないから、ちょっとそれ保留にさせて」

「いや、別にそこまで真剣に考えなくていいのよ」

「あたし的にはね瀬名くんはネコって感じ」


 ……山が、消えていく。

 猫に罪はないが、落差が。

 壮大なものだったから、山が。


「すっっっごく嫌そうな顔するとさ、不機嫌なネコみたいなんの」

「あーっ分かる! 白坂さんよく知ってるね! あははっ!」


 コイツら……。山の時と違いすぎだろ。

 静かだった『お弁当スペース』が智也と白坂の笑い声に包まれる。

 笑いが笑いを誘い、もう、うるさい。

 山崎さんが俺の顔を見ているのが視界の端に映りこむ。きっと不機嫌な猫を探しているのだろうが、すまんな。多分今はいないと思うよ。


 ……不機嫌な猫か。

 後で検索してみよう。


「あっ、やば! 昼休みもう終わるくない?」

「ほんとだ」


 白坂に続いて二人が席を立ち、智也に腕を引かれて俺も立ち上がった。


 巾着の紐を手首に通しポケットに手を突っ込む。

 最後尾を歩きながら三人の背中を見た。


「えっ、莉子おやつないの? どうしたの」

「やだわ、毎日おやつのことばかり考えてる女だと思わないでくれるかしら」

「じゃいらないか。飴あるけど」

「いる」

「比永くんもどうぞ」

「ありがとう」


 俺は気になっていることがある。

 先ほども過って思考を遮断したが、笑顔の山崎さんを見ると、やはり浮かんできてしまう。


 彼女は言ったのだ。返事を見ていないと。

 それはつまり、まだ終わっていないのではないだろうか。

 意外とあっけなかった。なんて話は聞くさ。

 だが「別れてください」「はーい」とは、いくらなんでもならないだろう?


「はい、瀬名くんも良かったら」

「……どーも」


 大丈夫、なのか?


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