extra stage
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コウ≠
国公立二次試験の前期日程が終わり、彼らは消えていった…
その次の日から僕はポツンと一人だけ塾の自習室に取り残されるように孤独の勉強が始まった。発表を待つ以前に人がごっそりと居なくなっていた。
前期と後期の間は約二週間。たったそれだけ。センター試験から前期までに比べればおよそ1/3ほどでしかないスパンであるにも関わらず、途方もない旅をしている気分になってしまう。
なんだか寂しくて友達も誘ったが、家から通えてレベルも申し分ない滑り止めの私立に受かっているので、地方の大学で受けるであろう後期には行かないそうだ。友達だけではなく、いなくなった他の塾生たちも同じ理由だろう。
僕は国公立一本勝負と決めていたので友達のその反応で少し狼狽えたが、まだまだと気を引き締めた。
自習室を我儘に独り占めできるのだから嬉しいはずなのだが、とはいえ、誰もいないというのはむしろ士気が下がってしまうような気がして仕方がなかった。
塾もこの時期は新学期との間の時期なのでローモードだ。授業もない。
自習室以外の教室は真っ暗で0に収束されてしまいそうだ。
塾のチューターさん曰くこの時期は毎年こんな感じだそう。滑り止めのおかげかモチベが下がっていったり、自習室にこなくなったりするそうだ。
逆にこれは好機だよ。とも言われた。
確かにと頷くことでどうにか自分を保とうとする。けど僕もどこかセンターから前期までの鬼気迫る感じが抜け切ってしまったように感じた。
2階にある自販機で買ったコーラをプシュっとして一気に飲み干す。
気を抜くなよ。と、まだ気が抜けてないコーラが喉を攻撃していた。甘さよりも炭酸の痛みが先行してやってくる。
甘味はすぐにやってきてくれない。気の抜けたコーラはそんなことはないが、あれはただ甘ったるいだけだ。
刺激がないと。
だから僕が今欲しいものは好機ではなくてユウキなのだ。
コの字をちょっと伸ばすだけでいい。
それだけで頑張れるのだけれど。
何せそれが難しいのなんのって。
ああ、でもコーラは伸ばし棒がいらないな。
なんていう冗談を一人でやっていた。
よし、10分休憩おわり!
コーラの空きペットボトルを投げ、直径8cmほどの穴目掛けてシュート!
…うーんパコーンと弾かれて失敗。
上手くいかないものだ。
素直に拾って捨てる。
———僕のやるべきことも、もしかしたらこれに似た作業なのかもしれない。
僕のやるべきことは自分の苦手を潰し続けること。新しいことはしないし、できない。とにかく自分の今までやってきたことを拾っては落とし込む作業なのだ。まぁ
敗北者は残りわずかでも責任を持って頑張らなければ。失敗は取り消せない。にげることはできない。
今日やるのは複素数だ。あとは空間ベクトル。どうも僕は空間というか図形が絡むとヤバイ。
赤本の用途は基本的に問題傾向や雰囲気を掴むためにやるものだ。しかし、もう一つの使い方として苦手分野をブラッシュアップするというものもある。
そして僕はどの大学の過去問を触っても特に図形が弱かった。
今、『複素数Zはどのような図形を表しているか。』という問題と睨めっこしている。複素数は解法が色々あるのでアプローチによっては沼ってしまうこともあるから、方針を立てるのが難しい。
ジーッと考え込んで悩んでいても仕方がないのでとにかく手を動かしてみる。
だめだ。詰まってしまう。1のn乗根のように頭が堂々巡りを起こしてしまう。
こういう時、不意に「これができなくて落ちたら…」という不安が立ち上ってきて背中がひんやりする。未だ冬の寒さが残る空気が末端から僕を攻撃してくる。
時間だけがすぎていく。
ガラガラ…
教室の引き戸が突然開いて僕は虚軸上から現実に引き戻される。
「よっ、元気か?ほんと偉いな」
「大井先生」
この塾でお世話になった先生だ。数学を教えている。
「今日は授業じゃないのにどうしたんですか?」
「いや、たった一人で毎日頑張ってるってチューターが言ってたからな、力になれるかなって」
こういうところが人気講師である所以なのかもしれない。もちろん授業がわかりやすいことや引っ張ってくる演習問題も良問ばかりというのもあるのかもしれないが、生徒想いであることが第一だ。
「後期は確か、数学と面接だったよな?残りちょっと付き合うよ」
「ありがとうございます」
ちょうどいい。質問をしよう。
「ここは第4項でやったところだな、これは図形的処理だけど、一回極形式に戻って…」
やはり自分で悶々するよりも先生の手元で解説してもらうのが一瞬でわかる。久しぶりの先生の声に安心する。
「一階にいるからな、なんか質問があったら呼びにきてくれ」
心強い僕のヒーローは颯爽と階段を下っていった。これでまた頑張れる。
”勉強は団体戦“という高校の進路指導の常套句に対しては呆れて腐った態度を抱いてはいたが、こうやって実際、団体とまではいかないものの支えてくれる人のおかげで頑張れるということを実感する。
ペンを走らせては新しいルーズリーフを埋めていく。繰り返して繰り返して、100枚入りのルーズリーフはどんどん減っていく。カレンダーをめくっていくみたいに…
「今日で、最後だね…」
消灯チェックのチューターが僕の自習室まで閉校時刻を報せにきた。
「ちょっとお話しよう。時間大丈夫?」
「オッケーですよ」
じゃあ遠慮なく。と机を移動させて僕の机にくっつけて面談のような向き合う感じになった。
「この一年、頑張ってみてどうだった?ここでサッパリ言葉にしてから望むのがいい」
やり場の無い目線が光沢のあるチューターの黒い瞳へと一様に収束する。
「そーですね。あっという間だったなーという単調な感想しか出てきません…でもそれほど勉強に熱中できたのかなって。勉強、めっちゃ嫌いだったんですけどわかってくると楽しいというか、とにかく手を動かしてみると意外と頑張れるもんだなって思える瞬間がありました」
それは良かったと安心して頷くチューターの姿があった。
「大学受験の勉強をしている高校生をみて懐かしいな。なんて思う瞬間にも出会う時もある。でもあまり記憶としては残ってないんだよね。僕は浪人も経験してるけどその苦労も今となっては夢みたいに感じる。でも頑張って苦しくて這いつくばった時ほど後々思い返しても断片しか浮かばないような気がする」
浪人…もしかしたら僕も経験する可能性もないこともない。後期次第で可能性はある。浪人は大変だと聞く。仲間が大学生をしている時に一年余分に大学受験の勉強をするのだ。今の僕にはその重みに耐えられる自信はない。浪人のことが脳の片隅に棲みつく。
「やっぱり不安?浪人の話はするべきじゃなかった。ごめん」
不安そうな雰囲気を察したのか、チューターのフォローが入る。いらぬ気を使わせてしまった。
でも。
「正直……不安です。前期で実感したけど、自分のやってきたことが、あんなにも呆気なく全否定される気がして…不安、なんです…」
「努力は報われるかは保証できないけど無駄にはならないよ。余計不安を煽るかもしれないことなんだけどさ、浪人も失敗してるんだ、自分。後期で引っかかったところになんとか滑り込めた口なんだよ。それでも後輩たちにはそんな思いしてほしくないって気持ちでこのバイト始めた。それが活きてる、と自分は勝手に思ってる。生徒たちの受かった時の報告を聞くたびに無駄じゃなかったって思える。まぁ大学生のアルバイトの分際で偉そうにして申し訳ないんだけど…」
「そんな瞬間、くるでしょうか…」
どうしても不安は解消できない。
「今は受験に必死だし、それでいい。けど、結果がどうであれ終わった後にいろいろ見えてくると思う。お世話になった大井先生はその経験をした人じゃないかな。大井先生は就職氷河期に巻き込まれてこの業界に来たっていうのは知ってる?」
そういえば、大井先生のバックグラウンドは授業の雑談で思い当たる節があった。
数学の先生になりたかったけど、就職氷河期はまさに氷山の一角のようだったとも。公立の教員採用ですら難しい時代だったそうだ。公務員にもその影響が出ていてその時に掬ってくれたのがこの業界だったという話だ。
40代の塾・予備校講師が多いのはこれが理由らしい。大井先生もその一人。一階から大きなくしゃみが聞こえてきた気がしなくもない。
「最初は不本意だったけど、実際仕事してみて楽しいっておっしゃってた。だから、不安を持つのも仕方ない。自分の思い通りにいかないことも普通。大事なのはとにかく正面切って迎え撃つ。結果は後からしかやってこないし。」
「それだけでいいんでしょうか…」
「それだけしかできない。」
チューターは今、僕の不安に正面切って受けて止めようとしてくれてる。自信なさげな目線は机にいってしまっているのに。
「今までずっと頑張ってきてるから、頑張れっていうのは少し違うかもしれないが、明日こそ頑張る時だよ。いつもどうりに頑張って仕舞えばいい。
ホイ!こっち向いて!」
ビクビクしながらチューターの顔を直視する。どこかムズムズして目を合わせずらい。相変わらず、オニキスみたいな瞳をしている。首を横にずらす。
「多少ビビってんなー。でもその感じ、頑張ってきたからこその不安なんだから、いけるよ。…うし、あんま遅くなっても悪いし今日は解散!」
「今まであり、」
「それは結果報告の時によろしく!」
そうして自習室は空になった。
大井先生にもお礼を言おうとしたが、チューターと同じことを言われてしまった。一言だけ、「計算ミス、積分定数とかには気を付けろよー!」と念押しはされたが。
僕は塾から一歩踏み出す。
夜風は春。
振り返ると自動ドアは閉まり、塾の看板を照らしていた蛍光灯は消えて闇に消えていった。
———不安を抱えつつも、僕はもう一度前を向いて明日に向かうのだった。
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