第五話 彼

 意識を失う前、水面に影が見えた。それに、たくさんの水泡も。


 目を覚ますとさっきの木陰にいた。木の幹にもたれかかって寝てしまっていたようだ。ということは、さっきまでのが全て夢なのだろうかとほっとしたのもつかの間だった。


「目、覚めました?」


 びくりと肩を揺らすと、小さく笑い声が聞こえた。


「ごめんなさい、びっくりさせちゃいましたかね」


 甘くて、平たい声。角砂糖のように、すっと心に馴染んでいく、声。


「だい…じょうぶ、です」


 それだけを返すのが精いっぱいだった。どくどくと、心臓が早鐘を打つ。忘れもしない、忘れるわけがない。一度だって、忘れたことがなかった、あの、声。


「急に池に飛び込むから、びっくりした」


 髪の毛からぽたぽたと、静かに雫が滴る音がする。目が、合わせられない。私は彼にそれを気付かれないようにしようと精いっぱいだった。


「あれ、大丈夫ですか、顔色悪い…」

「大丈夫、です」


 そこで初めて、彼の顔を見た。風が吹いて、柔らかそうな髪が額をさらさらと撫でる。薄く灰色がかった目、整った顔立ち。動いてもいないのに心臓が早鐘を打ち、息が苦しくなる。どうしようもなくなって、また目を反らした。


「水、いります?」


 差し出されたペットボトルを受け取ろうか迷っていると彼は慌てた様子でぶんぶん手を振った。


「大丈夫、口付けてないですから」

「あ、いえ、自分のがあるので…、大丈夫です」


 笑みをこぼすと、彼もつられて笑みを見せた。嗚呼、彼だ。心の中で叫んだ。


「濡れたままじゃ、風邪ひいちゃいますね。その…、服…すみません」


 懐かしさで、思わず名前を呼びそうなのをこらえて、私は俯いた。


「大丈夫、今日暑いですから、すぐ乾きますよ」


 はは、と笑って彼は空を仰いだ。真っ青な青空が広がっている。今は見えなくても、あの空の上には数えきれないほどの星が所狭しと並んでいるのだろうか。私は見えない星々を見ようと目を細めた。彼はそんな私を見て「眩しいですね」と一言呟いた。彼の見るものと、私の見ているものは違う。そう、はっきりと心に刻み付けて、私は小さく笑みを返した。


 しばらくの間、彼と二人、木陰で他愛のない会話をした。時々見せる寂しげな顔に、思わず覚えていないかと口走りそうになる。いや、だ。きっと、覚えていない。思い出さないほうが、いい。きっと。


「あ…私、そろそろ行きますね」

「あ、もうこんなに時間経っちゃったんですね。早いなぁ…もう少し、話したかったけど、残念」


 手を付けなかったサンドイッチが入ったバスケットを手に、私は静かにその場から立ち去った。


 嗚呼、ずるい。彼はずるい。もし、私の気を知っていたら、同じことを言うだろうか。滲む涙を力任せに拭う。ぼやけた景色が余計にぼやけて、私は帰路を急いだ。

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