第四話 溺没

 ゆっくりと身体を起こす。うん、何ともない。溺れるようなあの感覚も、恐怖もない。対比するなら、穏やかな海の波に揺られているような、そんな感覚だった。冷蔵庫を開け、麦茶のポットを取り出してグラスに注ぐ。麦茶が跳ね返る音が心地よく耳に響く。


 うん、いい朝だ。


 一口、麦茶を飲みこむ。ごくり、と喉が鳴る。喉を通り、食道を通って、胃へ…冷たい液体が伝っていくのを感じる。手で頬を触り熱を感じる。首元に触れて、脈を確認する。とくとくと、静かに脈打つ心臓の上に手を当てる。


 噫、私だ、本物だ…ちゃんと、生きている。


 寝室の方から音がして、びくりと肩を揺らす。サイドラックに置いた時計から小鳥の鳴き声がする。まだアラームが鳴っていなかったのか、と腑に落ち、「停止」のボタンを押した。ぽつり、と部屋の中に佇む。


 さて、何をしようか。お湯を沸かし、紅茶を淹れる。その間に、パンをトーストする。バターを丁寧に塗り…おっと、忘れてはいけない。


 紅茶を蒸らす時間は五分と決めている―――前まではこんなこだわりはなかったのだが。小食な私は朝食を食べるのも億劫で、以前までは朝食は抜いていた。朝起きてから時間の余裕がなかったし、いつの間にか食べなくても平気になっていた。今でも、あまりお腹の空いていない胃にパンと紅茶を流し込むように食べるので精いっぱいだが。


 いつものルーティーンを済ませてしまうと、私は久々に気合を入れてメイクをした。今日は調子がいい。薬も、今朝は飲まなかった。本を買うついでに散歩でも行こうと私はなるべく明るい色の服をクローゼットから引っ張り出してきた。水色のセットアップを鏡の前で合わせる。まぁいいだろう、この天気には合っている…と、思う。


 そうだ、ついでに公園でピクニックとでも行こうか。


 今日の私は調子がいい。ふんふん鼻歌交じりでストックしていたクロワッサンに切り込みを入れて、サンドイッチを作ってランチボックスに詰めた。


 近くの池のある公園へ出かけると、平日だというのにたくさんの人が公園を訪れていた。観光客だろうか。サボっていそうなサラリーマンもいる。池の近くにレジャーシートを引くと、そこに持ってきたバスケットを置いてのんびりと空を見上げた。噫、やっぱりきれいだ。


 青は碧は好きだ。特に、透き通った海のような青は。あの人の瞳に似ていて、いつでもあの人のことを思い出させてくれる、あの、青の色が。


 ふと目線を落とすと、地面に咲く小さなオオイヌノフグリが目に留まった。可愛らしい小さな青い花が風に揺れている。少し踏みつぶしてしまっただろうか。ただの雑草だと割り切る方がいいのだろうか。なんとなく後ろめたくなって、私はレジャーシートを木陰の方へ移した。


 涼しい風が頬を撫でて通り過ぎていく。木の幹に身体を預けて目を閉じる。


 いつの間に、眠ってしまっていたのだろう。またあの風景が目の前に広がった。ショーケースは元の場所にあって、「私」はまたそれを手に取った。朝と同じだ、同じ、夢だ。何度も何度も同じ場面が繰り返される。息が苦しくなって、起きたいのに起きられない。




 ハッと気が付くと、私は水中にいて、ゆっくりと、沈んで行っていた。

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