第二話 菫の花

 はっとして、ベッドの上で身を起こす。大丈夫だ、目が覚めた。


 おはよう


 自分しかいないのに、誰に向かって言っているのか、私はいつも誰もいない部屋で「おはよう」と声に出す。今では無意識に口をついて出るようになってしまった。

 引っ越してきたときは何も置いていなかった寝室だが、今は足の踏み場がなくなるほどにものが散らかっている。もともと綺麗好きだった私は統一された収納ケースにものを入れて管理していたが、いつしか綺麗に片付いた部屋を見ると落ち着かなくなっていた。


 そして、今の、このざまだ。


 汚い…


 そう心では思っているが、床に散らかっているこの状況に変に愛着が湧いてしまった。どうしても、片付けられない。


 夢のことが忘れられず、日中も仕事に集中できない。何故このような目に合わないといけないのだろう。何故、私が。

 そう考えては朝目が覚めるのが辛くなり、目覚めると動機がして、息ができなくなったりすることが多くなった。かかりつけ医に紹介された心療内科へ行くと、パニック障害と診断され、抗うつ剤を処方された。病院までの道のりも、という行為でさえも、とてつもなく長く感じる。


 そんな私が唯一楽しみにしていることといえば、病院の帰り道にある喫茶店に寄り道することだ。


「いらしゃいませ」


 こじんまりとした店内の、ドライフラワーが吊ってある天井を見上げる。噫、いつ見ても綺麗だ。微かに残る、花の香。ゆったりと、ぬるめのお湯に浸かるようなあの感覚に陥る。何処までも深く、浸っていきたい。


「今日は、おひとりですか」


 店主が愛想のない声でぼそりと呟くように言った。ここの店主はいつだってそうだ。いつ来ても、初めて来たときから一人で来ているのに、彼はそう私に聞く。何故なのだろうと不思議に思い聞いたこともあるが、上手く理解ができなかった。


「人はたいてい、を背負って生きてるもんさ」


 店主は何が言いたかったのだろう。いや、今の私は理解しているはずだ。私は今日も、そのを背負ってきている。目には見えないが、確かにいる、…を。


「ご注文は」


 席に着いたその瞬間に、巻末入れずいつものように店主が声をかけてきた。


「ブルーマロウを…」


 一言そう言うと、店主は会釈だけしてキッチンへ戻っていった。いつも通りの、静かなルーティーン。私はこの空間に身を溶かすのが好きだった。ここでなら何処まででも溶けていける──…形が、なくなるまで。


 ことり、木の鳴る音がしてティーカップが置かれた。その傍にレモンひとかけらと、バニラアイスが添えられた皿が並べられた。


「すみません、アイスは…」


 ふいと振り返った店主は不愛想に「おまけ」だと言ってまたキッチンへ戻っていった。

 私はブルーマノウの青空をシャンデリアの光に透かした。


 綺麗な青がテーブルに映し出される。ブルーマノウの青は不安定だ。保存方法や蒸らす時間によって黒っぽくなってしまったり色を失ってしまったりする。


 店主の淹れ方が上手い証拠だ。青を楽しんだ後、添えられていたレモンをぎゅっと絞った。一滴、一滴と垂れる度、レモンの果汁が触れたところから菫色に染まっていく。


 そういえば、菫の花言葉は――…


 スマホの画面をスクロールする。


 あ、あった。


「小さな、幸せ…」


添えられたアイスを手に取る。溶けかけのアイスを掬って口に運ぶと、爽やかなバニラアイスの味が広がる。


 小さなことに幸せを感じる。今は、それでいいのかもしれない。私はそっと、鞄にしまっている抗うつ剤に指を当てた。明日の朝は、この薬は必要ないかもしれない。

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