蛇の部屋


 私たちは姉が15分前に悲鳴とともに飛び出してきた部屋の前に立った。丸いドアノブを握り、そろそろと戸を少し開け、そっと覗く。ドアのすぐ前に蛇が鎮座していたらと警戒して、顔を部屋の中に入れないよう隙間から中をうかがう。天井と床に柱を突っ張らせ、横木を渡して作ってある止まり木のようなものがあり、蛇はその上でぐるぐると円を何重にも描いて丸くなっていた。

「幸はとてもおとなしい蛇です。頭や首はつかまず、喉元を下から持ち上げてやれば嫌がりません」

 そう書いてあったが、つかむのも持ち上げるのも遠慮したいのは同じだった。おとなしいというなら、鎌首を持ち上げて飛びつき、噛みついてきたりはしないのだろうか。

 初めて見た「幸」は、キイロアナコンダという種名から想像していたようなまっ黄色の蛇ではなかった。胴体の幅の半分から三分の一くらいはある大きな焦げ茶の楕円形が、ひとつひとつ少しずつ形を変えながら、背中に数えきれないほどずらりと並んでおり、その狭い合間を黄色と言われれば黄色かと思う色が埋めている。そしてその胴回りは太い所で子どもの頭ほどある。

 このまま戸を閉め、玄関から出て、施錠して帰りたかった。しかしとりあえず戸を閉めるところまでで押しとどめ、姉と向かい合う。

「このまま蛇をほっといて帰ったらどうなるかな」

「大家さんには与田さんから連絡が入ってるでしょう。私たちのところに『処理して』って電話が来るよ」

「逃げは効かないか・・・」

「叔父さんが入院してから一か月経ってるよね。餌をやらなきゃいけないんじゃないの」

 私が言うと、姉が動きを止めて私を見、それから息を大きく吸って吐き出した。

 封筒に入った手紙の他に、「世話の方法」と書かれた紙片があった。それに従って冷蔵庫を開けてみると、冷蔵の方は空だったが、冷凍の方にはビニールにパックされたものがたくさん入っていた。A4のコピー用紙より一回り大きいくらいのビニールパックの一つを出してみると、「餌用冷凍ウサギ 約1.5キロ」とある。

 姉が大きな鍋を探し出し、水を入れて、ガスレンジで火にかけた。パックを開封すると、白い毛皮に包まれたウサギが出てきた。ただし中身はかちかちに凍っている。解凍はできれば自然解凍でと書いてあったが、溶けるまではきっと何時間もかかるだろう。それまで待っていられない。「それができない場合はゆでて解凍」とのことだった。

自然解凍の場合、中まで完全に溶かしてから与えるよう注意しなければならず、内部が凍ったままのものをやると、変温動物である蛇には体調不良の原因になったり、吐き戻しをしたりするそうだ。

「なんで自然解凍がいいのかね」

と姉が言うので、携帯電話で検索してみると、「ゆでるよりも食感がよい」と書かれていた。姉は面白くもなさそうに「はっ」と言った。

 10分ゆでたところで押してみると、中まで柔らかくなったようだ。流し台に置いて冷ます。時間がかかりそうなので、水をかけて冷やした。

その間にもう一度部屋の戸を開けた。メモに、蛇がつかるための水を用意するようにとあったのだ。一人では嫌なので姉を伴って入った。どこで調達してきたのか、直径が1mもありそうな真鍮のたらいがあった。濁った水が少し残っていた。それを持ちだす。蛇は部屋の隅で二つ折りになった布団の間に潜り込んでいた。巨大などらやきを連想した。

 たらいを風呂場で洗って、水を半分入れると、二人がかりでやっと持ち上げられる重さとなった。それを蛇の部屋に運ぶ。床はリノリウム張りで、たらいを直接置いても大丈夫そうだった。たらいの周りのしわしわになった新聞紙を片付け、新しいものを敷く。室内を見ると、水槽やケージの中に入れて飼わずに、部屋全体をケージとして使っている形だった。パネルヒーターらしきものもあった。

「蛇が自分でドアを開けて、逃げ出したりすることはないのかな」

と姉。

「チンパンジーのアイちゃんは鍵も開けて逃げたけどね。蛇にこの丸いドアノブがつかめるかな」

 最近は見かけない古いタイプの、つかみ手が球状のノブである。この部屋のドアだけに付けられていた。姉は、

「口とか、尻尾とかで。こう、かぷっと噛んでつかんだりして」

 と言いながら、自分の想像が自分でもおかしかったのか、笑う。

「とにかく、このドアはいつもしっかり閉めておくことにしよう」

 まだ殺さずにおくかどうかも決まっていないのに、何となく世話が始まっている。

 ゆでたウサギが冷めたのを確かめ、トングでつかむ。姉がやりたがらないので、仕方なく私がウサギをぶら下げて部屋に行った。検索した動画では、蛇の顔の前で餌を小刻みに振ってやると、急に素早い動きで噛みつきざま、長い胴を巻き付けて押さえる。もう死んでいる餌なので、逃げないよう急いで押さえ込む必要はないのだが、自然界では生きた動物を相手に、そのようにする習性なのだろう。それからゆっくり飲み込んでいく。蛇は咀嚼をせず、すべて丸飲みするのだそうだ。口より大きな獲物でも、あご骨を開くことで飲み込める。

 素手で触らずずっとトングで挟んでいる理由は、間違って噛まれないようにするためというよりは、人の手の雑菌が付かないようにするためと、あるサイトに書いてあった。それを言うと、また姉は「はっ」と言った。

 それからもちろん、私自身が死んだウサギを素手でつかむ気がしなかったためもある。生きていれば温かくてかわいい小動物であるはずだが・・・。

 蛇は布団にもぐったままで、どこに頭があるのかわからなかった。だが嗅覚は鋭敏だというので、布団の周りに沿ってぐるりと、ウサギをめぐらせてみる。布団をめくって確かめなかったのは、めくりざまに飛びかかって来られるのではと怖かったからだ。何周かさせてみたが、蛇は顔を出そうとしない。

「お姉ちゃん、何か長い棒を持ってきて」

と頼むと、姉は掃除機のノズルを持ってきた。それで布団をそろそろと持ち上げてみる。頭はすぐそこにあった。ウサギを細かく上下に揺らしてみる。蛇は身じろぎもせずに丸い目で見ていたが、素早く首を伸ばして細い牙を立てたかと思うと、次の瞬間には二回りくらい胴体を巻き付けて押さえ込んだ。

 おそらくこのまま食べるだろう、と私と姉は部屋を出た。これ以上観察する気はしなかった。パネルヒーターの電源は入れておいた。

 口を開けた一瞬、見えた牙はとても細かった。もし相手が生きた餌だった場合、あれで役に立つのだろうかと思ったほどだった。逆に、折れてもダメージが少ないように、また再生が容易なように、細く進化したのかもしれないとも思った。

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