翠川樹雨「月のうさぎと太陽のねこ」

 ある日の昼下がり。半分の白い月が空に浮かんだ小春日和。

 うさぎを見つけた。

 雪みたいに真っ白で、耳がピンクのふわふわしたうさぎ。

「ねえ、どうしたの?」

 うずくまって泣いているように見えたから話しかけた。お母さんに

だれかが泣いていたら話を聞いてあげるといいよって教わった。

 うさぎは喋らないって僕だって知っているけど、泣いているのに放っておくのは意地悪だと思ったんだ。

 するとうさぎは顔を上げた。そして喋った。

「僕、落っこちちゃったの。」

「落っこちた? どこから? 穴?」

 驚いた。とっても驚いた。だってうさぎがしゃべったんだ。

 僕は昨日の夜お母さんに買ってもらった絵本を思い出した。

 時間に追われる白うさぎとニヤニヤ笑う猫と女の子の話。題名は確か不思議の国のアリス。慌ただしい白うさぎを追っかけて、アリスは穴に落ちちゃった。

 この白うさぎも穴から落っこちてきたのだろうか? 僕も気をつけないと落ちてしまうかもしれない。

 だけどうさぎはふるふると首を横に振った。

「ううん、穴じゃないの。」

「じゃあどこ?」

 うさぎは困ったように首をかしげる。

 僕も真似して首を傾けるとうさぎは少し戸惑った様子で上を見た。

「えっとね、あっちなの。」

「え」

 うさぎが見た先にあったのは空に浮かんだ月だけだった。

「もしかして、月?」

「そう月!」

「お月様から落っこちてきたの?」

 大きな声を出してしまった。それくらい驚いた。月にはウサギが住んでいると言うけれど、子供騙しのお話だと思っていた。

「そうなの。僕、帰れるかなあ」

 うさぎは悲しそうに耳を伏せて言う。

 僕は黙って聞いてあげることしかできない。だって僕はこの子のことをあまり知らないから。余計なことを言ったら傷つけてしまうかもしれない。

「えっと、……あのさ、余計なお世話かもなんだけど、僕のおうち来る?」

「いいの?」

「えっと、ずっとは無理かもだけど、でも君すぐにはおうちに帰れないんでしょ?」

「……ありがとう。」

 うさぎはふわふわの背中を震わせてそう言った。

「ねえ、聞きそびれてたんだけど、名前は? 僕ハヤトだよ」

「ユキノ。女の子みたいって言われるけど、僕はこの名前気に入ってるんだ。」

「うん、いい名前だと思う! 女の子みたいだなんて思わないよ。」

 僕は白うさぎ、じゃなくてユキノを手提げカバンに入れて家に帰ってきた。

 僕の家には猫がいた。名前はノエ。

 父さんが拾ってきた黒と白と茶色のミケ猫。毛がモコモコしてて、丸っこい猫だ。

 猫とうさぎは仲良くできないらしいというのを僕は知っていた。

 ノエは僕の部屋には入ってこないから、ユキノを手提げカバンに入れたまま僕の部屋に運んであげることにしたんだ。

「ただいま! お母さん、ノエは?」

「おかえり。ちゃんとお外から帰ったら手を洗ってね。ノエは見かけないから外じゃない?」

「そっか、ありがとう。荷物置いたら手洗うよ!」


「着いたよ。僕の部屋。何しよっか? 積み木する? それとも、トランプとかする? 二人ならできるよ!」

 それから僕らは二人で遊んだ。積み木、トランプ、風船遊び、ゴム鉄砲でウエスタンごっこ!僕には兄弟がいないから、普段はお家では一人で遊ぶ。お母さんもお父さんも働いているからお友達は呼べない。

 僕は学校へ行って帰ってきたらユキノと遊ぶ。

 こっそり台所からリンゴをおやつにもらってきて食べたりもした。

 そうして何日かユキノがいる日々が過ぎていった。

「ユキノが兄弟だったらなあ」

 ふと思いついた。声に出したらほんとにそうならいいのにと思った。そしたら毎日お家で遊べて楽しいのに。

「ねえね、もしさ、もしこのまま帰れなかったら、僕んちの子になっちゃえば?」

「そうだね、ハヤトの弟になったらきっと楽しいね!」

 ユキノも笑って頷いた。

 だけど急に悲しい顔をする。

「僕、きっと落っことされちゃったんだ。」

 そういったユキノは俯いて赤い目に涙をいっぱい溜めた。あふれた雫がポタリポタリと地面に落ちる。

「えっ?」

「お母様もお父様も、『あんまり遊んでばかりいると、イタズラ好きの怖ーい猫に

お月様から落っことされてしまうよ』って言ってたの。僕が遊んでばかりいたから……」

 しょんぼりとうなだれるユキノに僕は聞いた。

「猫に? どうして?猫は月では悪い人なの?」

「そうだよ。」

「僕の住んでいたところには古いお話があるんだ。それでね、お話の中で僕らは月に住むうさぎ、お日様に住むのは悪い猫ってなってることが多いんだよ。」

「えっと、お話の中ではお日様が悪いの?」

 困惑して僕が聞くと、ユキノはキッパリ首を振った。

「お日様は悪くない、悪いのはお日様を悪いことに使う猫なんだ。夏はカンカン日照りにして、冬は影にして寒くする。夜は毎晩お月様を大きくしたり小さくしたりしてしまう。お日様は猫が投げあげることで上っていて、こういう悪いことはぜーんぶイタズラ猫がお日様を投げる時間をずらしたり、投げあげる場所を変えたりして意地悪してるんだ。」

「うーん、そうなんだあ……」

 うさぎと猫が仲良くないのはお父さんから聞いて知っていたけれど、そういう理由だって言うのは知らなかった。

 猫の方がどう思っているのかは分からないけれど、うさぎたちの中では猫は悪者として考えられているみたいだ。

「……僕ね、だから、猫に頼んだら戻る方法教えてくれるかもって思ってるの。」

「ええっ!?」

 思わず大声で驚いてしまう。

 うさぎたちの間で悪いって言われているのに、わざわざ会いに行くの、と思った。

「や、やっぱり、やめた方がいいかな」

 ユキノはおどおどと下を向いてしまった。

 そんなことないよ!と言いたいけれど、上手く言葉が見つからない。

 不思議に思うこともいくつもあった。

「えっと、いくつか聞きたいんだけど、ユキノは怖いのに猫にわざわざ会いに行くの? それに、どの猫に聞いたらいいか、とか、どうやって聞きに行くとか。」

「……え……っと、わかんない。そっか、全部の猫が知ってるとは限らないのかな……」

 またしょんぼりしてしまったユキノを見ていると、なんだか僕も悲しくなって、一生懸命考えた。

 猫ってユキノみたいに話せるのかな。

 僕が相手でも話すかな。

 ノエに聞いたら、何か知ってたりするのかな?

「ねっ、ね、僕、聞いてくる。代わりに行ってユキノのこと話して、ノエに知らないか聞いてくるよ!」

「ほんと!?」

 家の裏手にノエはいた。

 レンガ積みの塀の上がノエのお気に入りだって僕は知っていた。そのてっぺんで日向ぼっこをしていたらしい。夕日の赤い光でヒゲがキラキラ光っている。

「ノエーっ!」

 塀の上まで届くように大声を出す。

 ノエは耳をピクピクと震わせた。

「ノエってば! 降りてきてよ!」

 それでもノエは不機嫌そうにパタパタとしっぽを振っただけだった。

 ノエがマイペースなのはいつもの事。もういいや、と下で勝手に話すことにする。

「月から来たうさぎの、ユキノに聞いたんだけど! 猫は、うさぎを月に帰す方法

知ってるってホントなの? ノエは知ってる? 誰に聞いたらわかる?」

 ノエはまたパタリと大きくしっぽを揺らした。

 それ以外、何も反応しないノエを見て僕はカチンときた。

「あーあ、ノエは知らないんだ。じゃあノエ以外の猫に聞こ! 二軒隣のおばあちゃんが飼ってるみーたろうとかなら知ってるかもな! ノエは知らないんだもんな!!」

「待てよ。」

「うあっ!?」

 立ち去ろうと背を向けたら後ろから声がした。

 男の人みたいな口調だったけど、それは確かにノエの声だった。

「ノエ……?」

「以外に誰がいんだよ。おまえ、言い方がムカつくぞ。」

 飼い主に対する思わぬ反撃につい目を丸くした。

 だけど僕にだって僕の言い分がある。

「だって事実じゃん。聞いても答えてくんなかったじゃん。知らないんでしょー!」

「知ってるけどな」

 そういうとノエは塀の上で立ち上がり、伸びをした。そのままくぁーっと欠伸をする。

「じゃあなんで教えてくれないの!」

 塀の上で座って見下ろしてくるノエに噛み付くみたいに僕が言うとノエはとすっと地面におりてきた。

 そのまま僕の前を通り過ぎてノエはてくてく歩き出す。

「そもそもな、お前たち人間と話すこと自体悪いことなんだぞ。その上俺たちの秘密を教えるなんて、なお悪い。そういうことだ。」

「意味がわかんないよ!」

 逃げるでもなく、てくてくと歩いていくノエを歩いて追いかけながらまた話しかけた。

「ねえちょっと、ねえってば、だってユキノ可哀想なんだもん、月に帰してあげたいじゃん。」

「るせえな。……まあ、今回は俺らが悪いからな。ちょっとは協力してやる。だから黙ってついてこいよ。」

 ノエの後ろについて歩いて、たどり着いたのは猫の集会所だった。

 そうわかったのは猫がいっぱいいたからだ。茶色に白のもいれば真っ黒もいる。ノエは集会所のすみにいた灰色と白の小さいねこの前まで来て止まった。

「ご! ごめんなさいっ!」

 ノエが話しかけるとその猫はパタンと倒れるみたいにして頭を下げた。

「えっ? え?」

 びっくりして何も言葉が出てこない。

「私がやった!」

「どういうこと?」

「うさぎさん落っこちちゃったの私のせい、私猫に生まれてから羨ましくて、私のせいなの!」

 要領を得ない説明にうろたえていると、ノエが割って入った。

「こいつじゃなくてうさぎに謝れ。これはただのうさぎを拾った人間だ。」

 ノエはなんだかいちいちムカつく言い方をする。そんなに怒らせるようなことした?それとも僕のこと嫌いだったのかな。

「ハヤト、家まで連れてってやれ。」

 しかも命令された。

 ユキノを連れて帰った時みたいに猫を連れて帰る。今回は手提げがないからそのまんまだ。堂々と家の中に入れるとさすがにお母さんが怒るから、僕の部屋の窓の前に猫とノエを残して家に入ってそれから窓を開けて猫とノエを部屋に入れた。

「チビって呼ばれてます」

 部屋に入ると灰色と白の猫はそう自己紹介をした。

「えっと、ハヤト……」

「んー、なんかね、知ってるらしいよ。月からどうして落っこちちゃったかを。」

 困惑顔のユキノに手短に説明する。

 これ、うちのノエだよ、と指さしてユキノに教えると、ノエは嫌そうに顔を顰めていた。

「あのね私、いじわるしたかったんじゃないの。猫に生まれてから、ずっとひとりぼっちでね、寂しくて、月が大きな時に楽しそうな声がするでしょ。羨ましかったの。私も混ざりたいなって。

 だからね、小さいときにママに猫はお日様の子だって聞いたことあったから、だから、お日様にお願いしたの。私も混ざりたいですって。そうしたら、猫がお願いしたら叶っちゃうって知らなくて、叶っちゃって月に行けたの。

 けどね、ノエさんが迎えに来てくれて、落っこちちゃった子がいるって、月は定員が決まっててうさぎが月に帰れないって。そんなふうになるって僕知らなくて……」

 しょんぼりしたチビにユキノが寄り添った。

「大丈夫だよ、チビ。僕、元気だから。」

「だからね、帰るにはね、私を迎えにこられたノエさんなら、ユキノを月まで連れて行けると思うの。」

 チビの言葉でその場の全員がノエを見た。

 ノエはパタパタと大きくしっぽを振って、言った。

「できるぞ」

「えっ!」

「いちいちうるさいな、できるって言ったんだ。」

 やっぱりノエの言葉にはトゲがある。

「なんでそれ最初に言わなかったの?」

「知ってるってちゃんと言っただろ」

「できるって言わなかった!」

「できるかどうかなんて聞かれてない」

 暖簾に腕押しって多分このことだ。そっちがその気ならこっちだって!

「じゃあどうやるのか教えて!」

「船で行く。」

「月に?」

「おー。」

 やる気のない返事と共にしっぽがまたパタリと落ちる。ユキノが期待に満ちた目で聞いた。

「いつ、いつ帰れますか」

「次の満月だ。」

 満月? 次の満月っていつだっけ?

 ユキノと目を見合わせると、ノエがぼそっと言った。

「ま、つまり今日だな。」

 そうならそうともったいぶらずに言えばいいのに。

「さっさと言えよって思ったか?」

「思ってないもーん。」

 べっと舌を出してやる。

「そうか。んじゃ俺は夜の散歩と洒落込むから、月が出たら全員裏の庭な。」

ご飯の後、外に出ると低い位置に満月が上っていた。僕が月を眺めているとチビとユキノも部屋の窓から外に下りてくる。

「ユキノ帰っちゃうんだね、寂しい」

「私も、寂しい。お兄ちゃんできたみたいだった。」

 ユキノとチビはあの後、僕がご飯やお風呂でいない間に随分仲良くなったみたいだ。みんなお別れを寂しく思ってしんみりしていると、そこへノエがしっぽを揺らしながらやってきた。

「いくぞー、いくぞー、別れは済んだか。そろそろ出るぞー……」

 妙な節回しで歌うみたいに言っている。

 僕らの目の前まで来るとノエはユラリと立ち上がる。

 すると今まで何もなかった場所に砂糖が溶けるみたいなモヤが出てきた。

 そしてそれが固まるみたいにして木でできた小さな船になった。

「おおっ」

 僕たちは不思議な現象を目の当たりにして全員声を上げた。

「ほい、乗った乗った」

 船の舳先に立ったノエの手にはいつの間にか櫂が一本握られていた。ユキノが乗り込んでノエが櫂で地面を突こうとしたとき、僕が声をかけた。

「ちょっとその前に、いい?」

 ノエは眉をひそめる。

「手短に、な。」

 実はみんなを驚かそうと思って内緒にしていたことがあった。

「お母さんに聞いたら、チビのこと、うちで飼ってもいいって! ノエに兄妹ができます!」

「そうなの!」

「あぁ!?」

 喜ぶチビとユキノ、怒るノエ。

「え、うれしくないの?」

「嬉しい!」

「遊びにくる!」

「嬉しいわけあるか!」

 もちろんチビ、ユキノ、ノエの順だ。

「遊びに来るね!お星様が流れる日、お星様に乗ればこっちに落ちないで来られるってお母様が言ってたの。ハヤトの家に遊びに来る。みんなで遊べるね!」

 ユキノが嬉しそうに言った。月に帰っても遊びには

来られると聞いて、僕も嬉しくなる。

「うん、おいで、またみんなで遊ぼう」

「おい、勝手に進めるな、そしたら誰が月まで送り届けると思ってるんだ」

 ノエが腕を組んで言った。それはもう、と僕らは顔を見合わせる。

「ノエ」

「ノエさん」

「ノエ兄さん」

「チビは兄さん言うなっ! もう行くぞ。」

 ノエがとんっと櫂で地面を着くと、船は浮かび上がった。そしてそのままゆっくりと高く、月へ向かって進み出す。

 僕とチビは手を振った。ユキノも船から手を振って、僕たちはお互いが手を振る姿が小さくなるまで手を振り続けた。そして船が月へと進んでいく様子を小さくなるまで見送った。

 あれからチビはナギという名前をもらってうちで暮らしている。チビは名前じゃないのかと聞いたら、ノエいわくただのコショウだから名前とは言えないのだそうだ。

 コショウが何かは分からない。多分呼び方とかそういう意味だと思う。

 ユキノが帰った次の日から、二人はやっぱり普通の猫みたいに喋らなくなった。

 時々二人並んで東側の窓から月を眺めていることがある。僕も混ざって眺めようとするとマイペースな猫らしく、散ってしまうから面白くない。

 それでも、兄妹みたいに並んで見ているということは二人ともユキノが帰ってくるのが楽しみで仕方ないんだろう。

 それから一年。ユキノは大きな流星群の時にだけ、何度か約束通り遊びに来てくれた。今度も来る約束をしている。明日、実は僕の家に弟が生まれる。名前はタクマに決まったそうだ。

 ノエに遅れて僕にも弟ができた。次にユキノが来る時にはみんなでまた楽しい話ができそうだ。



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