作増唱太「酒薔薇商店街の種」
真っ赤なワインの上に、さらに赤いバラの花が浮かべられたイラストが、その商店街のトレードマークだった。商店街の入り口と出口には、太いポールが二本ずつ並んでおり、ワインとバラのマークが大きく描かれた布がわたされて、ゲートのようになっている。マークの下には小さな字で「酒薔薇商店街」と書いてあったが、字が小さすぎてつぶれてしまっていたし、なによりその町には他に商店街などなかったから、みんなただの「商店街」として呼び習わしていた。
ふたつのゲートの間には、オレンジ色のレンガ道がまっすぐと伸びており、道の両側には小さなお店が隙間なく詰め込まれている。帽子屋「コルコバード」は、その商店街のちょうど真ん中にあった。
カエデは店内に広がる色とりどりの帽子をきれいに並べ直していた。人が四、五人入ればぎゅうぎゅうになってしまうほどの売り場。お客さんが手に取る度に、微妙に向きのずれてしまう帽子達を、まっすぐの向きに戻している。壁一面に取り付けられたフックには、所狭しと並べられた帽子達が、それぞれその身を落ち着かせて、誰かに被られるのを待っているのだった。
「うわ」
カエデはそのうちのひとつ、薄い灰色をしたニットの帽子を手に取り、値札を見て目を丸くする。
「これ、二千シードもするんだ」
思わず声をあげると、カウンターの奥で作業机に向かっていたヨウさんは、緑色のベレー帽を乗せた頭を上げた。
「どうしました?」
ヨウさんは丸眼鏡の先の皺の寄った目をしぱしぱと動かして、カエデが手に持つ帽子に視線を凝らした。
「ああ、それは見た目は地味ですが、たいへん良い毛糸を使っているのです。手触りが違うでしょう」
「へえ、そうなの」
カエデは手に取った帽子を軽く擦るようにして、その感触を確かめる。
「うーん、わかんないや。なにより、デザインがちょっと、つまらないかも」
「ははあ、そうですか。若い人の好みには、少し合わないかもしれない」
ヨウさんがしょんぼりとうつむくと、その頭に乗せたベレー帽のへたも少ししおれた。作業机に置いている編みかけの帽子を、カエデに向けて掲げる。
「これなんてどうでしょう。今冬の新作なんですが。いい赤色じゃないですか」
「それは派手すぎ。似合う人にはいいかもだけど、私には合わないかな」
「そうですか、難しい……」
ヨウさんは眼鏡をかけ直し、また編み棒を手に取る。編み目の数を丁寧に数えながら、慎重に毛糸を絡めていく。作業台のスピーカーからは、小さな音量でジャズピアノの音楽が流れていた。
「それはそうと、カエデさん。その作業を終えたら、カウンターのお金の枚数を数えてください」
「はあい。もう終わります」
カエデはまっすぐに揃った帽子たちの列を見て、ふうと一息つくと、カウンターに戻ってお札の束を取り出した。
「ひい、ふう、みい……」
「先月も枚数が合いませんでしたから。気をつけてくださいね」
「ちょっと、数えてるのに話しかけないでよ」
「ああ、これは失敬……」
カエデに怒られたヨウさんは、細い身体をさらに縮ませてしゅんとする。ベレー帽の隙間からはさらさらとした白髪が見えており、肌にも皺が目立っているけれど、その手つきだけは衰えを感じさせず、音も立てずにきびきびと動く。
「うん、帳簿との枚数もぴったり」
「ああ、ありがとうございます」
「お礼に一枚、ちょうだいよ」
「馬鹿言っちゃいけません。お小遣いは、ちゃんとあげているでしょう」
カエデは口惜しそうに、お札をひらひらと光にすかせてみる。ぼんやりと、イチョウの葉の形と、どんぐり形のマークが浮かんでくる。
「そういえばシードのお札って、どうしてどんぐり模様が入ってるんだろう」
シードの紙札には、四隅や中央の透かしに、かさを被ったどんぐりのマークが描かれていた。
「町を象徴するこのお店の、ベレー帽を被った店主の頭が、どんぐりそっくりだからですよ」
「嘘」
「はい、冗談です」
ヨウさんはくくくと肩を震わせて笑う。
「透かしには銀杏のマークも入ってる。どんぐりってイチョウにはつかないわよね」
「そうですねえ」
「ヨウさんも、お札の秘密、知らないんでしょう」
「いいえ、知っていますとも。カエデさんは聞いたことありませんか」
「知らない。この町に来て、日も浅いもの」
「ああ、そうですか……」
ヨウさんは眼鏡を外して作業机に置くと、コーヒーの入ったカップに口をつけた。
「そうですね、じゃあお話しして差し上げましょう。お客様もいらっしゃらないことですし、休憩ついでに」
「やったあ」
カエデは明るい声をあげて、カウンターの下から丸椅子を引っ張り出し、ちょこんと腰掛けた。ヨウさんは咳払いを数度繰り返すと、その口をゆっくりと開いた。
「きっかけは、商店街の端にあるパン屋さん。カエデさんも知っているでしょう? フクダさんのお店です。といっても、いまの店主のお父さまの代の頃ですから、かなり前になりますね……。そこに現れたひとりの少年が、百円のドーナツを買おうとした」
「『エン』? なあに、それは」
「昔この町で使っていたお金の単位です。いまでは覚えている人も少ないですかね。さて、その少年はドーナツを買おうとしたのですが、残念ながら円を持っていなかった。彼のお母さまもその時はおりませんでしたから、レジにて会計を迫られた少年は弱りました。
少年は苦し紛れにポケットを探ってみると、そこにはひとつのどんぐりがあった。かさが付いて、見事な色艶をしたそのどんぐりは、彼の大切な宝物でしたが、しかし彼はその時、ドーナツをどうしても食べたかった。
『どんぐりなら、あるんだけど……』
仕方なくその少年はお金の代わりにと、大切などんぐりを、たいへん切実な思いで、差し出したのです。
次に弱ったのは店主の方です。お金でなければお買い物はできませんが、気の弱かった先代の店主は、少年のその申し出を断るのが気の毒でならなかった。そこで店主もその取引を了承し、どんぐりを受け取ることで、お金の代わりとしたわけです。たったドーナツひとつの話ですから」
「なんだか、可愛らしい話。それで?」
「少年は喜んで帰りましたし、店主もそこでは満足していました。『百円』といっても、いまのシードで言えば十シードくらいの額、別にどうってことありません。問題はここからです。
後日またフクダさんはお店を開いておりますと、ある男が大量のどんぐりを手に、お店に現れました。どこかで少年の一件を見ていたか、または耳にしたのでしょうね。真っ赤なチェック柄の服を着たその男は、長い髪を束ね、角ぶち眼鏡の先の目をつり上げて言ったのです。『このどんぐりで買えるだけのパンを、出してくれ』と。
店主は困って言いました。『どんぐりではお買い物できません』しかし、法律を勉強している大学生だという男は、難しいことばをいろいろと並べて、『公正な取引の原則に反する!』だとか、『経済を冒涜する店だ!』だとか、とにかく文句を言い始めます」
「ひどい男もいたものね。法律はよくわからないけれど、常識的にあり得ないでしょ。あきれちゃう」
「常識を守っていられるのは、余裕がある人だけですよ。彼は貧乏な学生で、とにかくお腹をすかせていたようです。とはいえ店主も困りました。法律のことはてんでわかりませんし、気弱なフクダさんは大学生の男に言いくるめられてしまった。どんぐりを対価に、数食分ほどのパンを渡してしまったのです。
それからというもの、フクダさんのもとには、お金に困った人々がどんぐりを持って押し寄せました。当然、それをつっぱねるようなことは、フクダさんにはできなかった。それでもパンを作るにはお金がかかりますから、フクダさんのお店からはどんどんお金が減っていき、かえってどんぐりが増えていった。幸いパンだけはありましたから、飢えてしまうということはないものの、しかしフクダさんは生活に困ります。石鹸や洋服、もちろん帽子など、生活に必要なものを買うには、どうしてもお金がかかりますから」
「帽子って、必要かしら」
「なにを言いますか。脳みその詰まった頭を守る、大切なものですよ。商店街の人々は、帽子ひとつ買えないフクダさんの状況を案じて、町長に相談しました。そして町長は、どんぐりでの買い物を、どのお店でも認めるようにしたのです。そうすればフクダさんはどんぐりでいろいろな物を買えます。私もどんぐりを貰って、彼にひとつ帽子を編んだことがあります。
どんぐりの使用が認められたのは、フクダさんひとりに限られたわけではありませんから、町の神社などからは、貧乏な学生達によって、すぐにどんぐりが拾い尽くされました。それでも大した量ではありませんでしたが。ある程度のどんぐりを使わずに庭に埋めて、木になって大量のどんぐりを落とすまで待つという『投資』に臨む者も現れましたが、あえなく何者かに掘り返されてしまったようです」
「なんだか、混乱してきてなあい?」
「この時点ではたいしたことありませんでしたよ。もちろん、町長の決議が出た直後は、多少の混乱もありましたが、わりとすぐに慣れてしまうものです。小さな町ですから。むしろ紙のお札に飽きていた人々は、どんぐりでの取引を楽しんでいた節もあります。考えてみれば、ただの紙切れに比べて、どんぐりの方がころころとしていて、価値あるものに思えますからね。円は価値を失って、この町からは消えてしまいました。
ただ、そうしたどんぐり経済が落ち着いてきた頃、近所の高校生の集団がゲートをくぐって、商店街に乗り込んできたのです。その手には、銀杏の実が入ったビニール袋が握られていました。彼らの高校には、イチョウの並木道がありましたから、銀杏の実もたっぷり転がっていたのです。そして学友会長を名乗る者が先頭に立ち、こう述べました。『どんぐりも、銀杏の実も、似たようなものなのだから、銀杏の実もお金として認められるべきだ!』袋が放つ匂いは凄まじいものでしたが、主張そのものは妥当だと思えました」
「そうかしら?」
「もちろん、反対する人たちもいましたよ。商店街に集まった見物人から、赤いシャツの長髪の男が飛び出して、高校生達に反論していましたね……先の大学生の男です。『どんぐりを付けるシラカシはブナ科、銀杏の実を付けるイチョウはイチョウ科なのだから、全然違う木じゃないか!』云々、云々」
「わあ、さすが大学生。いいところもあるんだね」
「というより、彼はどんぐりが承認される以前に、真っ先に町中のどんぐりを拾い集めて、大どんぐり持ちと成り上がっていましたから、銀杏が認められるのは不都合だったのでしょう。
その上で、彼の主張が妥当だったのも事実かもしれません。しかし大多数の町の人々には、大学生の訴える難しい植物の違いなどわかりませんでしたから、とりあえず数の多い高校生の主張の方を支持することとなったのです。高校生は元気はあるけれども、遊ぶお金にはいつも苦労していましたから、銀杏を認めさせる熱意は凄まじかったのです。ほどなくして、銀杏もお金として認められることになりました」
「どう考えても、おかしいと思うけれど」
「いま冷静になって考えてみれば、そうですね。実際、銀杏の実が認められてしまうと、さすがに商店街も混乱してきました。急に出回るお金の数が増えたために、一つ一つの実の価値は低いものになりましたから、パン一つを買うのにも必要な実の量が増えてしまったのです。買い物の度に数十個のどんぐりや銀杏をやり取りするのは面倒でしたよ。
また、銀杏は認められたものの、さすがに匂いが激しいですから、飲食店などでは銀杏での支払いを拒むところが出始め、銀杏の価値が急落したり、どんぐりの価値が急上昇したり、とにかく安心してお買い物ができなくなりました。うちも品物に匂いが付くのは嫌でしたから、銀杏での支払いの際は多めに貰うなどしましたね。それに加えてあれは、腐りやすいですし」
「あの匂いは嫌だね。私も苦手」
「はい。商店街の人々は再び困り果て、町長にまた訴えたわけです。そして町議会で検討が進んだ結果出た案が、どんぐりや銀杏の実をチケットと交換して、そのチケットでやり取りする、という方法です。
町にチケット交換所が設立され、どんぐりや銀杏の実ひとつを一シードと数え、シードのお札を発行するようになりました。お札は数えやすいですし、匂いもしませんし、腐ることもない。二千シードの帽子を売るにも、どんぐり二千個を数えるとなると一苦労ですからね。今では交換所はとうになくなり、このシードが元々どんぐりや銀杏の実であったことはほとんど忘れられていますが、それでもその名残が、マークとして残されている、というわけです」
カエデは先程かざしていたお札を取り出し、改めてそのデザインを眺めてみた。どんぐりとイチョウの葉が、ぷっかりと浮かぶ。
「この百シード札が、どんぐり百個だったのか」
「そうですよ。もしそれがなければ、さっきカエデさんにお願いした作業は、どんぐり数万個を数える作業になっていました」
「うわあ、それは嫌だな。一個や二個なら可愛いけれど、たくさんあったら、なんだか気持ち悪そう」
カエデはしかめ面をすると、ヨウさんはまたくくくと笑って、机から再び眼鏡を取り上げた。
「さて、お札に感謝したところで、仕事に戻りましょう。カエデさんは、床の掃除を……」
ヨウさんが言いかけると、入り口の扉がカタリと開き、吊してあったベルがカラカラと鳴った。
「ごめんください」
そう言いながら入ってきたのは、カウンターよりも身長の低い、小さな男の子だった。冬になりかけているというのに、半袖半ズボンの少年は、腰からぺこりと頭を下げ、カウンターに立つカエデに挨拶する。
「あらあら、ぼく。どうしたの」
「ぼうしを、もらいに来ました」
ヨウさんも身を乗り出して少年の顔を見ると、作業机の下からタグのついた帽子を取り出した。
「修繕を頼まれていた子ですね。ほら、きれいに直っていますよ」
ヨウさんは帽子を持ってゆっくり立ち上がると、少年に歩み寄り、やわらかな手つきでその帽子を被せた。
「今日はひとりですか。お母さまから、お金は預かってきましたか?」
ヨウさんがそう尋ねると、少年は口をパカリと開き、一瞬目を丸くした。
「ぼく、わすれてきました」
「おやおや」
ヨウさんも眉を下げて、困り顔を浮かべる。カエデも少年の様子を心配そうに見つめる。すると、少年はズボンのポケットをごそごそとし始め、そこから一つの握りこぶしを取りだし、ヨウさんの顔の前に突き出した。開かれた小さな手のひらには、ころりとした茶色のかたまりが転がっていた。
「松ぼっくりなら、あるんだけど……」
終
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