秋月ありさ「短夜の怪」

 闇夜の中、女が一人立っている。明かりなどどこにもないはずなのに女はぼんやりと青白く浮かび上がっているように見えた。川岸に立ち、細い足首は水に浸かっている。両腕で何かを大事そうに抱えていた。よくみるとそれは小さな赤子のようであった。

 あれはこの世のものではない。伊助はすぐにそう思った。

 商人をしている仲間との宴会の帰り道、いつもの丸子橋を渡るときに川岸にあの女を見つけたのだ。ふと興味を惹かれて伊助は手に提灯を持ったまま下を流れる川の方へと降りて行った。近づいてみてもやはり女はそこにいた。じっと立ったまま動かない。提灯の灯りで女の下半身、腰巻の部分が血でぐっしょりと染まっているのがわかる。伊助はぎょっとしたが、提灯で上の方を照らすと女の顔に見覚えがあるのに気づいた。目はうつろで焦点が合っていないが、通った鼻梁や細い眉、薄い唇は近所でも美人と評判な娘のものだった。その娘は伊助の初恋の人でもあった。しかし、その娘は別の男のところへ嫁に行き、身籠り、お産のときに死んでしまっている。それは今から一か月ほど前のことであった。

 伊助がこの女の怪があの娘であると気づいた時、女はふっと消えてしまった。


 家に帰ると妻の梅子が囲炉裏に火を焚いて待っていた。

「今晩は遅かったですね。お待ちしておりましたよ。」

 梅子は優しく笑う。

「ああ、少しいろいろあってな。」

 伊助は提灯の火を消して囲炉裏のそばに腰を下ろした。

 伊助は妻と年老いた婆との三人暮らしである。両親は流行り病で去年あっけなく亡くなった。両親が死んだとき、伊助は人が死ぬということはどういうことなのかを実感した。生者と死者の間には深い隔たりがある。死者は喋らない。肉体はそこにあるのに魂はそこにはない。肉体は土に埋めればやがて朽ち果てる。では魂はどこに行くのだろう。三途の川を渡ってあの世に行くのか、はたまた生まれ変わるのか。伊助はそのどちらかだと思っていた。

 だから、この世にとどまる魂があるなんて考えもしなかった。幽霊というものがあるのは知っている。しかし自分は見たこともなかったし、信じてはいない。それなのにまさか自分の知り合いが幽霊になったのを見てしまうとは。

 少なからず動揺していた伊助は先程見たことを梅子と婆に話して聞かせた。

「それは産女だな。」

 婆は話を聞くなりそう言った。囲炉裏の火がぱちぱちと燃える。その唯一の灯りに照らされて婆の顔にはいっそう深く皺が刻まれたようだった。

「産女ってなんだい。」

 伊助は婆に問うた。婆はゆっくりと話し始める。

「産女っちゅうのはな、お産で死んだ女の化けて出ることじゃ。子供を産めなかった未練がな、女を化けて出させるのよ。腰巻が血で赤く染まっていたじゃろ。あれはお産の時に出た血じゃ。」

「となるとあの娘は、お雪さんは産女になったってことかい。」

 婆は頷いた。

「お雪さんは大通りの呉服屋の所に嫁いでいった娘だな。あの娘はお産が長引いてな、そこで命を落としたと聞く。呉服屋の旦那が悲しんでおったよ。跡継ぎを望まれていただけにやっぱりお雪さんには未練があったんじゃろうな。」

 そうか、とだけ伊助は呟いた。伊助にはお雪さんの未練は計り知れなかった。隣で聞いていた梅子もしんみりしてしまっている。

「悲しかったじゃろうなあ。かわいそうになあ。」

 婆のその言葉がやけに伊助の胸の中に残った。


 次の日の晩、伊助は産女を見たあの川岸にもう一度行ってみようと思った。家を出るとき、梅子に「こんな時間にどこへ行くのですか。」と聞かれたが、伊助は「ああ、ちょっとな。」と曖昧に返事をしただけだった。お雪さんは自分の初恋の人だっただけに梅子に言うのは気まずかったのである。

 涼しい晩だった。季節は夏だが夜は日中の暑さが嘘だったかのように冷えている。暗闇の中、唯一の灯りは手に持っている提灯のみだった。提灯の火も風に揺れてゆらゆらと動き、足元の自分の影が伸びたり縮んだりしている。辺りは静かで音といえば道の端の草むらから蟋蟀の鳴き声がするだけだった。

 伊助は自然と早足になり丸子橋まで向かった。橋に着き、上から川を見渡すとやはり昨晩と同じところに産女はいた。伊助は急いで橋を渡り、産女のいる川岸まで降りて行った。

「お雪さん。」

 伊助は産女に声をかける。しかし産女は虚空を見つめたまま動かない。生まれたばかりの赤子を抱いたまま、血で濡れた腰巻をまとってただじっと立っている。

 何か訴えたいことがあるに違いない。それか自分に何かをしてほしいのだ。伊助は咄嗟にそう思った。かつてお雪さんに恋をしていた者の独りよがりな思いかもしれないが、お雪さんがあの世へ行かずこの世にとどまっていることには何か理由がある。お雪さんの未練を自分が何とかしてあげたい、そんな思いが伊助の胸に宿った。

「お雪さん、俺があなたを必ず助ける。」

 伊助がそう言った時、産女はごほ、と血を吐いた。吐かれた血は抱いている赤子の上にぽたぽたと落ちる。

「お雪さん!」

 伊助が産女を支えようとその体に触れた時、産女はまたふっと消えてしまった。



 それからというもの伊助は次の晩も、その次の晩も産女のもとへ通った。毎晩どこかへと出かけていく伊助に梅子が心配そうな顔をしていたがかまわなかった。しかし、そうして出かけて行っても産女からはなんの反応も得られない晩が続いた。

 日中、伊助は産女のことを考えてぼんやりすることが増えた。梅子は伊助のそんな様子を訝しんでいるようだった。

 ある日のことである。ついに堪忍袋の緒が切れたのか梅子が姿勢を正して伊助の目の前に正座した。

「伊助さん、ちょいとここに座ってください。お話があります。」

「なんのことだい。」

 産女のことを考えていた伊助は面倒くさそうに返事をし、居住まいを正した。

 梅子は毅然とした面持ちで切り出した。

「あなた、通う女があるのなら、はっきりそう言ってください。確かにあなたが別の女にうつつを抜かしているのは嫌です。それでも隠されるほうがもっと嫌です。わたし、わかっているんですよ。毎晩その女の元へ出かけて行って、日中もその女のことを考えているって。ずっとあなたの帰りを待ち続けるこっちの身にもなってください。わたし、もう辛いんです。」

 そう言うや否や梅子はわっと泣き出してしまった。伊助は動揺する。

「別に通う女がいるわけでは……。」

 そこで伊助は口をつぐんだ。これははっきりと通う女がいないと言い切れるものなのだろうか。たしかに産女は女である。しかも自分の初恋の人だ。ただ、産女は怪異なのだ。話もしないし触れることもできない。自分は毎晩暗い闇の中、産女がぼんやりと川岸に立っているのを見ているだけだ。普通の男女間で交わすような情事があるわけではない。

 なにも言えなくなってしまった伊助を見て、梅子はさらに泣き出した。

 それをみていた婆が伊助の心を見透かしたようにこう言った。

「もしかしてその女というのはこの世のものではないのかね。」

 伊助は驚いて婆の顔を見つめ返すことしかできなかった。それを肯定と受け取ったのか婆は言葉を続けた。

「この前話していた、産女のことかい。お前はあの女に同情しているんじゃろ。」

 伊助は観念して頷いた。

「そんな……。」

 梅子は呆然と伊助の顔を見上げる。

 伊助は梅子の顔を見ることができなかった。

「お前はあのお雪さんに惚れていたのかね。だがな、あの娘はもう死んでいる。呉服屋の旦那だってもうすでに新しい嫁をとったというじゃないか。お前ばかりが死んだ者に囚われていてどうするというのかね。もう通うのはよしなさい。」

「でも、お雪さんは、」

 伊助は声を振り絞って言う。

「あの人はかわいそうな人なんだ。あの人は俺に何かを訴えかけている。何とかしてやりたい。」

 伊助はそれだけ言うと二人から顔を背け、家を飛び出してしまった。後には呆然とした梅子と諦めた顔をした婆が残された。


 伊助はいつもの河原に来ていた。夕日が空を茜色に染め上げ沈んでいく。伊助は土手に座り込こんでその様子をぼんやりと眺めていた。時折人が伊助の後ろの道を早足で通り過ぎていく。日が暮れる前に帰ろうと急いでいるのだろう。しかし、伊助は今晩は家に帰る気がしなかった。

 (梅子にはかわいそうなことをした。)

 伊助はそう思った。自分が産女に執着していることを悟られたくはなかった。しかし毎晩のように家を空けていたらいずれわかることだっただろう。いっそ自分は産女ではなく人間の女に通っていると言った方がよかったのかもしれない。そちらの方がまだまともな気がする。今の自分は異常なのだ。それは伊助自身、薄々わかっていたことだった。この世ならざるものに魅入られてしまっている。それはたぶん危険なことなのだろう。この世のものではないものと関わってはいけない。婆のいうことは正しいのだ。自分一人が産女に囚われている。

 それでも、と伊助は思う。やはり産女が、お雪さんがかわいそうだった。子供ができたとわかったときどんなに嬉しかっただろう。子を宿していた十月十日、どんなにお腹の子に会うのを楽しみにしていただろう。子供が成長し、そして将来家の跡継ぎになる、そんな未来を疑っていなかったはずだ。しかし現実は違った。お雪さんはお産の時に命を落とし、その子もまた生を享けることはかなわなかった。

 その未練がお雪さんを産女にし、そして自分の前に現れた。これには何か意味があるはずだ。お雪さんは自分に何か訴えたいことがあるに違いなかった。自分には何ができるのかわからない。すぐに次の嫁をとった呉服屋の旦那に復讐することなのか、またはお雪さんのことをきちんと弔うことなのか。それでも自分はお雪さんの望みをできる限りかなえてあげたいと思った。

 夜も更け、月明かりだけが伊助を照らした。今日はお雪さんは現れないのだろうか。伊助はあたりを見回したが産女の姿は見当たらなかった。今まで毎晩見ていたというのに今日に限っていないとは。伊助は自分が落胆しているのがわかった。自分の想いはお雪さんにはまったく通じていないのだ。伊助はまた河原に座り込み、膝に顔をうずめた。しばらくそうしているとだんだんと眠気に襲われてくる。どれくらいの時が経っただろうか。ふと浅い眠りから覚めた時、耳元で

「こっちよ。」

と声がした。伊助は驚いて後ろを振り返る。

 そこには産女が立っていた。

 今晩の産女は目の焦点が合っている。じっと伊助の方を見ていた。そもそもはじめて話しかけてきたのだから今日こそは伊助に何かを訴えかけてくるに違いなかった。

「お雪さん、俺に何かできることはありますか。」

 伊助は嬉しくなってそう言った。産女は口を開く。

「この子を。」

 そう言って産女は腕に抱えていた赤子を伊助に差し出す。

「この子を抱いておくれ。」

 伊助は少し拍子抜けしたがすぐに産女から赤子を受け取った。それを見て産女は少し頷き、ゆっくりと自分の髪を解き、梳かし始めた。それからも伊助は何度か産女に話しかけたが、産女は返事をせず黙ってただゆっくりと髪を梳いている。長い時間が過ぎた。産女は通常女が髪を梳かす時間よりもはるかに長く髪を梳かしている。産女は悠然と手を動かしているが一向に終わる気配がなかった。

 伊助は産女から返事が得られないので黙って赤子を抱いていたがだんだんと腕がしびれてきた。心なしかこの赤子はだんだんと重くなっていっている。

 ついに東の空が明るくなりはじめた。太陽が昇り夜が明けようとしているのだ。その時産女の髪を梳かす手がぴたりと止まった。今度は産女は髪を綺麗に結い始める。 また長い時がかかるのかと伊助は思ったがこれは存外早く結い終わった。

「ありがとう。」

 そう言って産女は満足げに笑い、伊助に両腕を差し出した。赤子を返してほしいと言っているのだ。伊助は素直に赤子を産女に渡した。

 産女は赤子を大事そうに抱きかかえるとにっこりと微笑み、暁風とともに次の瞬間には消えていた。

 後に残された伊助はその場に立ち尽くした。

――たったこれだけ。

 産女が伊助に求めていたのは旦那への復讐でも弔いでもなく、髪を結う時間赤子を持っていてほしいというたったこれだけのことだったのだ。自分はお雪さんをかわいそうだと思い勝手に同情していた。けれどもこの世ならざるものはこの世のものの物差しでは動いていない。お雪さんは自分になにか訴えたいことがあったわけではなかった。そんなものは伊助の思い込みだったのだ。

 自分が今まで取り憑かれたように産女の元へ通っていたのはなんてばかばかしいことだっただろうか。産女が求めていたのは髪を結う間赤子を抱いてほしいというたったそれだけのことで、それなのに自分はお雪さんの未練だとか悲しみだとかを勝手に想像して自分が救ってやらねばならないという気になっていたのだ。

 伊助は一気に目が覚めたようだった。お雪さんはもう二度と自分の目の前に現れることはないだろう。

 伊助はすっかり夜が明け切った薄青の空の下、家路についた。帰ったら梅子に謝ろう、そう思いながら。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る