夜明藍「忘れじ」
トンネルを抜ける。
バスから港町が見える。
僕の故郷だ。
嫌で、嫌で、逃げ出すように抜け出してきたあの町。
僕は帰ってきてしまった。
終点に着き、僕はバスから降りる。バス停は古臭い簡素なもので、潮風に当てられて、錆がひどくなっている。柱も錆でいつ倒れてもおかしくないように見える。
まだ残ってたんだ。
僕は思った。
あの日。
あの6年前のあの日。
僕は朝早くのバスに乗るために、誰にも、何も言わずに家を出た。そのときにもこのバス停を使った。
バスの時間まで10分くらい。
何をすることもなく、僕はノートを広げて、バス停を画に描いた。錆びれた柱、背もたれが所々割れて、穴の開いたベンチ。僕はバス停の後ろにある塀に寄りかかって描いた。
あのノートは町を出たあと、どうしたっけか。
僕はすこし思い出そうとしてみるが、思い出せない。きっと捨ててしまったのだろうと思う。
バス停を出て、僕は海沿いに歩く。昼になって、陽が随分と高いところまで昇っている。陽光がこの町と海に降り注ぎ、海はきらきらと照り返す。海を見ながら歩いていると、時折目に眩い光が入る。何年も海に縁のない生活をしていたからか、目が痛くなる。
僕は家に行く前に、行っておきたい場所があった。
バス停から歩いて30分。僕は岬に辿り着いた。
僕がこの町で一番海を綺麗に見ることが出来ると思っている場所だ。この岬の名前を僕は知らない。ちゃんとした名前がもしかしたらあるのかもしれないけれど、僕は知らなかった。
この岬は観光地にはなっていない。
そもそも、この岬まで来る道が綺麗に整備されていないし、、この町自体が観光地になるような街ではなかったし。
僕は久しぶりに訪れたこの岬に座り込む。当然椅子なんてないから、地面に。
名前も知らない、知ろうともしなかったこの岬だけれど、昔はよくここを訪れていた。高校生までの人生をこの町で過ごしてきた。その中で何か思い悩んだときにはこの場所に来ていた。
最初にこの岬に来たのは中学生のとき。
親と喧嘩して、朝から家を飛び出した。学校もさぼって、なにもかも放り出して、とにかくだれもいないところに行きたくて、山に入って、とにかく行けそうなところを練り歩いて、たどり着いた。
そのとき、初めてそこから海を見た。
見慣れた海。
学校で授業を受けているときも、通学路を歩いているときも、バスに乗っているときも、家でぼんやり外を眺めているときですら、この目に入っていた海。
見慣れた海。
それがまさかこんなに。
僕は結局その日、陽が沈むそのときまで。そこに座り込んで海を見ていた。
眼下に広がった海を僕が言葉で紡ぐことは出来なかった。手抜きのようで、思考放棄のようだけれど。
よくあるやつだ。
この広い海を見れば、僕の悩みなんてちっぽけなものだと思ったんだ。行きついた答えは、ありきたりで凡庸なものだったけれど、それでもそこに行きつくまでの過程は形容できるものじゃなかった。
僕はそれからことあるごとにこの岬を訪れた。
この町を出るその前日もここに来た。
あのとき、僕は二度と戻ってくるつもりはなかったから、この岬にも今生の別れのつもりで色々一人でペラペラと喋っていたのだけれど、なんともみっともなく帰ってきてしまった。
でも君にこの海を見せたいと思った。
帰ってきたはいいものの何をしようかも何も思いつかない。でもただ生きていければいいかとも思う。
ただ僕が生きていると言えるただ一つのことがある。それがなくなったとき、僕はきっと。
僕は町へと戻った。
岬にも行けたことだし、家に戻ることにした。だれもいない、思い出したくもなかったはずの家。
道なりに歩いていく。ふと僕は分からなくなった。町の非難経路が立てられている。僕はそれを眺める。
そして、この町はこういう町だったなと思い出す。海沿いの町はここ数年で防災意識は格段に高まっているから、いたるところに避難経路の地図がある。
僕は家に辿り着く。
ああ、こういう家だったな。
6年離れていたからか、確かに心に来るものがないわけじゃなかったけれど、それでも、実感としてはこんなもんだったかという程度のものだった。
僕は鞄から鍵を出す。
こんなもの、僕は一生使うことがないだろうと思っていたけれど、案外早く使うことになってしまった。
鍵はすんなり開き、スライド式のドアを開ける。作りが古いからか、スムーズに開かず、ガタッガタッと音が鳴る。
玄関に入る。
埃っぽい。
ただいま。
声に出す。だけれども、返事はない、当然。
玄関の靴は綺麗に整理されている。靴棚の上にはやっぱり埃が積もっている。指をすうっとなぞると、指先が白く汚れる。
靴を脱ぐ。僕はとりあえず掃除からすることにした。箒と雑巾で軽くだけれど。
僕は掃除をしながら、父と母のことを考えてみる。
二人は先月死んだ。
事故死とのことだった。ほとんど絶縁に近い状態だったし、町を出てから一切連絡を取り合っていなかった。
伯父から僕はその知らせを聞いたのだけれど、諸々の手続きなどはすべて伯父が終わらせてしまったようで、僕に遺されたのは古臭い家や金など膨大な遺産だった。
伯父はわざわざ僕を見つけ出して、この話をしに来てくれた。僕は義理堅い人だと思った。家ならば売却してしまえばいい。遺産なら根こそぎ取ってしまえばいい。伯父によれば、両親は自分たちが死んだら、この家含めた財産はすべて僕に渡してほしいと常々言っていたそうだ。
ただ当然遺書なんてものは用意してなかったらしいし、そんな口約束なら破ってもいいだろうと僕は思ったけれど、伯父は約束だから、と言い、権利書やらその他もろもろを後日届けに来た。そのときに鍵や通帳、印鑑なんかも受け取った。
そして、今に至るというわけだった。
助かったのは電気が通っていることだった。口座には金が入っていたからそのまま引き落とすようにされていた。
掃除をしながら蘇ってくるのは、かすかな記憶、薄れていく記憶、断片的で、朧げな記憶。愛着はどんどん薄れていくという確かな実感だけが僕の中にはあった。
掃除だけでその日は終わった。
思ったより疲れた。伯父たちは出来る限り、家の中のものには触れていなかったようで、重労働ではなかったけれど。
僕は住んでいた時に使っていた自分の部屋に戻る。布団を引っ張り出して、雑に寝転がる。そして改めて部屋中を見回す。木製の机に本棚、所々にささくれが出来ている畳。
このまま眠ってしまいそうだったけれど、僕はもう一つやらなくてはいけないことを思い出す。
僕は起き上がって、鞄の中に入れていた手帳と万年筆を取り出す。そして、机のほうまで行って、今日の出来事を思い出せる限り書いていく。
日記だ。
半年ほど前から、僕は日記を書くようにしている。一日も欠かさず、一日あったことを書きなぐるように書いていく。何もないような日でも、案外何かあるもので、手帳はもう一冊終わってしまいそうなほどだった。
日記を書き終える。
机に置かれた時計は針が止まっている。何年も放置していたから、電池が切れてしまっている。ふと腕に目を向けると、腕に時計が巻かれていることに気が付いた。
心底嫌になった。
僕は夕飯を作るのも嫌になり、そのまま部屋で横になった、身体もそうだけれど、頭も疲れているようだった。
明日は少し買い物に行ってから、あの岬に行こう。
覚えていられれば……。
目が覚める。
鼻に潮の香りがほんのりと漂ってくる。
朦朧とする頭で、起き上がる。部屋の中を見回す。そして、机の上に置かれた手帳を見つけて、僕は近づき手を伸ばす。
ページを捲る。
紙のこすれる音だけが僕の耳の中に入る。
日記に書かれた文字だけが僕の目の中に入る。
これをすることで、僕の一日が始まる。
当然家には食料はない。
昨日のうちに買っておけばよかったと若干昨日の自分に恨みを覚えるけれど、仕方がない。
時刻は9時40分。
3月中旬のこの時期なら、この時間にはもう日が出て少しあったかくなっている。
僕は家を出ていくときに、服は最低限のものだけ持って出たから、家の方にずいぶんと残っていた。僕は部屋のたんすから服を引っ張り出し、着替える。ついでに昨日から着たままだった服をコインランドリーで洗うことにした。
わざわざ服一式のために行くのも馬鹿らしくはあるけれど、どうせ金はある。両親が残したもの模装だけれど、僕も仕事で稼いだ金は家賃やら食費やらに費やす以外はほとんど趣味に使うことがなかったから、それなりに貯まっていた。趣味に使ったといえば、画材で使えなくなったものを買い足す程度のことで。
そう言えば、と日記を見て、僕は部屋の別のたんすを開ける。そこには使っていないキャンバスなどの画材道具が置いてあった。
画を描くのが好きだった。
別にうまいわけじゃないけれど、身の程も知らずに、昔は画家になりたかった。すぐにそんな夢は捨ててしまったけれど。
別に自分の才能のなさを思い知ったとか、天の上のような才能に打ちひしがれたりしたわけじゃない。
ただ、悔しいと思わなかった。
だから僕は夢を捨てた。
夢を捨ててからは楽だった。
ただ、自分の思うように画を描いた。夢を追っているときは他人の目を気にして、他人の意見に身を怯えさせた。
言い訳が出来た。
夢じゃないし、本気じゃないしと。
最後に描いたのは大学の卒業式の後。ルブランを描いたときだ。ルブランというのは僕が彼女につけたニックネーム。本名すら知らない、僕の友人だ。
分かるように、由来は有名なエリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランから。そう、僕の目には映った。
彼女と出会ったのは、大学3年の春のことだった。教師になるために勉強漬けの日々を送っていた僕が気晴らしに絵を描きに近くの大きめな公園に行った時のことだった。
桜が少しずつ咲き始めていて、ちょうどその桜を描こうと思って。
キャンバスを出してまで絵を描くというのは結構人目を引くもので、彼女も例に漏れずそうだった。
ただ彼女の場合、華があった、ように思う。見惚れる見目であったと。見た人みんな思っただろう。
僕も例外じゃなかったけれど、それ以上に彼女の描く画に惹かれた。そしてさらにそれ以上に妬ましく思えた。どんな上手い芸術家の画を見ても、先輩や同級生、後輩の上手い画を見たときも、こんな感情を抱くことはなかった。抱くことはないだろうと思っていた。
久しぶりに画でも描こうかと思った。
この人生を通じて、形に残る作品を残したいと思った。誰かの記憶なんてものはいずれ薄れ、ゆっくりと忘れていく。僕らはゆっくりと忘れていってしまう。
芸術は一つの証だ、と僕は思う。
買い物とコインランドリーを終わらせ、再び家に戻る。
朝食をとって、自分の部屋で寝転がる。布団を干すのもたたむのも面倒くさい。時刻は10時半。なんとなく微妙な時間だ。
結局、何にもしないまま時間が過ぎていく。何も考えないまま、寝ころんでいる。
時折、潮風が少し開いた窓の隙間から入ってくる。
岬へ行こう。
僕はキャンバスやらいろいろな画を描くための道具を鞄に詰め込んで、家を出る。
今日は晴れ晴れとしていて、この時間になると、陽も高く昇って、暑くなってきた。潮風が冷たく、心地いい。
岬には陽を遮るものがない。
木々も後ろで途絶えている。
風も遮るものがない。
一身に自然を受け止めているような感じがして、僕はなんだか大自然の一部になったようで。
風は少し強くなってくる。
海の真上みたいなものだからそれも仕方ない。
僕はキャンバスやらを用意して、画を描くための準備をする。しっかりと地面に固定する。
久しぶりに、キャンバスの前に座る。
最後に描いたのも、何年も前の話だ。それにあのときはあの子がいた。僕が唯一、嫉妬した君がいた。初めて彼女と対峙したときに僕は。
気が付くと、夕暮れが近づいていた。
僕の町では陽が山から昇り、海に沈む。朝陽というのは何の面白みもないのだけれど、夕陽というのは人を昔に戻らせる。でも僕にとって夕陽はただただつらく見えるだけだった。
荷物をまとめて今日は家に帰ることにした。
キャンバスは黒い炭で何かが書かれていた。無意識に書きなぐっただけのおよそ芸術とは言えない何か。
荷物は重く、ここから家までそれなりに距離があるのを考えると、少し嫌になる。
家に着いた。
それなりに重い荷物を持って、家と岬の間を歩くのは少し疲れた。このまま寝てしまいたいとも思ったけれど、空腹に耐えかねて、腹が鳴る。
いつご飯食べたっけ、と思いつつ、僕は再び家を出て、スーパーに買い物に行く。ついでに数日分の食糧を買い込んでおこうと思った。他にも生活用品なんかもいくつか切れそうなものがあったような気がする。
食糧は、冷蔵庫はあるし、他にもインスタント食品なら長く持つ。
車なんかは持っていないし、そもそも免許も持っていないから、大量に買い込んだ荷物を抱えて、家に帰る。
買ったものをそれぞれ仕分けして、身体が限界を迎えた。疲れて、もう一歩も歩きたくなくなってしまった。
潮の香りが鼻をくすぐる。
目が覚めた。
買っておいた朝食を摂る。
壁に立てかけておいたキャンバスを見る。昨日は殴り書きみたいな画だけ描いたんだっけか。
時刻は10時。
今日も画を描きに行くことにした。
岬には12時くらいに着いた。
キャンバスを設置して、今日も下書きから始める。
今日は一応絵の具も持ってきていた。下書きが終わるとは思えなかったけど。
今日は潮風が強い。少し強い波が白く見える。
下書きを少しずつ変えながら、描いていく。人生で何を描こうと考えたとき、僕の頭に浮かんだのはルブランだった。彼女と過ごしたあの時間は心地よかったように思う。
消しては描き、消しては描き。
結局、創作画を描くことにした。
どうせ残すなら、人生のすべてで彼女を描こうとおもった。ただ彼女の写真なんて一枚も持っていなかった。
彼女は写真が嫌いだと言っていた。
どうせ残すなら画で描き残したいと、言っていた。
春が過ぎ、夏のにおいが近づいてきたある日のことだった。平日の晴れの日の公園。
「写真は駄目じゃない。ただ私には鮮明に映りすぎる写真で残しておきたくないだけ。私は私の手で描ける程度に覚えていられればそれでいいの」
そう言っていた。その手には鉛筆が握られていた。炭も苦手で、鉛筆の方が好きなんだとも言っていた。
そんなことをふと思い出した。思い出して安心した。
頭に残る彼女の姿を描く。この海に彼女が来たらという想像で、ただ脳内で考えたように下書きでなぞる。
気が付けば、高く昇った日は少しずつ落ち始め、辺りは少しずつ暗くなり始めていた。水平線には雲が
とりあえず、僕は片付けて、今日も家に帰る。
絵の具がある分、今日は荷物が重い。歩く足が少しずつ重く感じられる。でも多分来週にはこのサイズの画なら完成するだろうと思う。
帰り道、目の前に子どもたちの集団が見えた。今は夕方、ランドセルは背負っていないからきっと遊びから帰るところなんだろうと思う。このあたりには小学校は一つしかないから、きっと彼らは僕の後輩にあたる子どもたちなんだろう。
僕にもあんな時代があったんだなと思う。
だけれども、もうほとんど思い出せない。
僕は走るように忘れていく。
家に着く。
何においても、まず日記を書かなくてはいけない。日記を書き忘れることだけはもうないようにしなくちゃいけない。もしものために。
今日は寝よう。
目が覚める。
雨の音がする。
潮の香りはせず、ただ雨の打ち付ける音だけが部屋の中を反響する。
上半身を起き上がらせ、枕元に置いておいた日記を読む。
大丈夫だ。
とりあえず、僕は立ち上がって、居間に行く。
インスタントの白米やらをレンジで温めて、軽く食べる。雨の音が僕の心に響いて、心地いい。
雨は好きだ。
家の中で聞く雨の音が好きだ。雨の情景が好きだ。
今日は雨の海でも描こうか。
二階からなら、海の様子はよく見えるから。
僕は使っていないキャンバスがもう一つ残っていたので、それを持って二階へと行く。
雨が降り、海は荒れている。風が強く、白い波がせりあがるように海岸を打ち付けている。
雨の中で思い出す。
雨のカフェテラス。
ルブランと二人でたまたま出会ったあの日。彼女にあることを言われた。
カフェテラスの端の二人席。
雨だから人入りは少ない。元々人入りが多い場所ではなかったけれど、その日は特に。
コーヒーを啜りながら、その日初めて、普通に話した。
普段は画を描くついでだったけれど、この日は初めて画を介さずに話した。話題は画の話だったけれど。
「作品にこそ神は宿ると言った人がいたの。確かにそうね。画、歌、書物。あらゆるところ、芸術で神様は存在してきたわ。あらゆる神は芸術に宿るかもしれないけれど、あらゆる作品に神が宿るわけじゃない。いつか神様が宿るような画を描いてみたい、と最近私は思うの」
神様はいったいどんな形で現れるんだろう、と僕はそのときから思っている。彼女に聞いても、わからないと言っていた。
僕は神様を見れるんだろうか。
結局今日は一度も陽は姿を見せることなく、かすかな光だけを地上に浴びせて、雲の上で沈んでいった。
僕はただ一言。
雨が降った、とだけ書いた。
最近昼食を食べていないなと思った。
明日は晴れるだろうか。晴れるなら、お弁当でも作って、あの岬に行こう。
軽いピクニックのような感じだ。
そう考えると日常が少しだけ楽しくなる気がする。
僕は寝た。
雨の音は絶えず部屋の中で孤独に響き渡る。だけれども、うるさくは感じない。心地よい雨の音を聞きながら、次第に意識が遠のいていく。
明日はきっと晴れるだろうと思って。
目が覚めた。
雨の乾いたにおいがする。
目の位置に光が差し込んできた。思わず目をそらして、僕は起き上がる。
枕元の日記を見る。
大丈夫だと思う。
僕は立ち上がって、大きく伸びをする。今日は岬に行けるなと少しうれしくなる。
インスタントのご飯を食べて、僕は早めに家を出ることにした。キャンバスの上で少しずつ形になってきた下書きを見て、なんだか懐かしい気持ちになった。画を描くっていうのはこんな感じだったと思い出してきた。
キャンバスなんかを持って、僕は家を出る。
雨上がりの町はなんだかいつもと違って見える。水たまりがいたるところに見える。そこに陽光が反射して、宝石のように輝いている。
漂う香りも単調じゃなく、雨上がり特有のにおいがする。
岬までの道は、地面が濡れて少し歩きづらくなっていたけれど、何とか岬に辿り着いた。
ここにも水たまりが少しできていて、煌めくように光を返す。
僕はいつも通り、キャンバスを固める。
雨上がりの地面に固定するのは少し難しかったけれど、妥協点を見つけて、僕は炭を手に持った。
この前までは海を中心に下書きをしていた。今日からはいよいよ人物画に入る。僕は彼女を思い浮かべる。
そして、炭を動かし、想像をなぞり始めた。
鮮明に覚えているはずの彼女の姿。
腕、脚、身体のライン、髪型……。
一年近く近くで見てきた彼女の姿を想像し、描いていく。だけれども、ある部分で手が止まった。
汗が流れた。
陽が沈むまで、僕は腕を動かすことが出来なかった。
来てほしくないことが来てしまったと思った。
僕は彼女の顔を忘れてしまった。
この日が来てしまった。
絶対に来ないだろうと思っていた。この日が、この時が来ることを心のどこかで恐れつつ、心の奥で来ないと思っていた。
ああ。
僕はいつの間にか家にいた。
来てしまったものは仕方がない。
人生の価値は終わり方だ。
夜になった。
朝になった。
僕はキャンバスを段ボールに入れた。
日記を一緒に入れた。
彼女と会っていない頃の僕を書いた日記。
彼女の住所は知っている。
多分今もあのアパートに住んでいるんだろう。
僕は夜のうちに、宅急便で彼女宛てに送った。
きっと彼女なら、分かってくれるんじゃないかと思う。
最後まで僕は何者にもなれなかった。
朝になった。
陽が昇った。
僕は曖昧になった。
記憶が曖昧になった。
すべてが消えるわけじゃない、
だけど、自分に自信がなかった。
明るく生きようと思った。
忘れて生きようと思った。
でも忘れたいことは忘れられなかった。
忘れたくないことだけが零れ落ちていく。
岬に来た。
海は昨日と同じ姿をしていると思う。
僕の終わりが来た。
海に沈んでいく。
潮の香りがする。
僕の欠いた画は顔がない。
身体中に水が入ってくる。
どんどん沈んでいく。
水面を揺らめく陽の光。
上から見ていた海の中。
目を瞑っても君の顔はもう分からない。
僕がつけたあの名前も、
もう思い出せない。
ああ 最期に君を見たかった。
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