霧島真司「分岐点」

 幼い頃から彼女のことが苦手だった。

 初めて会ったときからそんな気持ちを抱いていた。まだ漢字もろくに書けなかった幼い私が両親と別れて叔父に導かれて「フロス」という新たな生活の場所へ初めて訪れたとき、最初に声をかけたのが彼女、橘秋子だ。その彼女はいつも一人の男の子と一緒にいた。

 新しい「おともだち」として紹介される前に施設の案内をしてくれた人は急用が生まれたことでその場を離れることになり、「おがみさん」が代わりで来てくれること、君が気にいった場所で待っていてほしいと言った。私は気になっていた本棚の近くで待ちたいというと案内をしてくれた人は紙に何かを書いてその場を去る。そこでしばらく待っていたときに黒のおかっぱ頭の彼女は彼を引き連れてまだ名前も碌に知らない私に声をかけた。

「ねぇ、あなた。尾上さんの言っていた新しくここに来た子なの? あ、あたしは橘秋子っていうの。で、こっちにいるのがあたしの友達のたっくん。それと、えっと……、まぁ、よろしくね。ほら、たっくんも言って。そうだ、何か好きなこととか色々と教えてよ。私、明日はいないから今のうちにできるだけ知りたいからさ。もう、そんなに強がらないでよぉ、こっちが話しづらいじゃない」

 こんな具合に私に話しかけてくるのだ。こちらが話す余裕は一切なかった。秋子という名の女の子はもっと話そうとしていたが、近くにいた「たっくん」と言われていた男の子に制止されて彼女は話すのを止めた。どうあれ、私はこちらを考えずに私に話かけてくるあのうざったい態度をとる彼女を秋子、その彼女についている男の子は「たっくん」という名前であることをこんな最悪な形で知ったのだった。

 しばらくして「尾上さん」と思われる優しげな容貌の男の人が私たちの近くにやってきた。秋子は大袈裟に手を振りながら、「たっくん」はそれを抑えながらその場を去った。彼は私の目線に合わせてしゃがむと、私の名前を確認した。そして、先程では回れなかった場所へ私を案内すると言った。胸元の名札には「おがみたかし」と書かれている。

 子どもが好みそうな装飾で飾られた下駄箱。

 綺麗にされている洗面所とトイレ。

 賑やかな大部屋。

 物静かな寝室。

 案内をしてくれた「尾上さん」はあまり笑顔を見せないような人だったが、説明するときの話し方や幼い私への配慮の仕方から怖い人ではないと私は感じていた。髪には白い線が混ざっていて、

「あの、おがみさん。さっき、私に話しかけていた、あきことたっくんの二人はどんな子なの?」

「あの二人に話かけられたのかい? なるほど、秋子は何か変なことでも言っていなかったかい?」

「変というか……、あの二人とあまり一緒にいたくないと思うの。どうしてあんなに話せるのかしら?」

「そうだね、最初は慣れないと思うけど、少なくとも秋子は悪い子じゃないよ。もちろん、いつも一緒にいる拓海君も」

 あの「たっくん」と言われていた男の子は「たくみ」という名前を持っていることがここで分かった。「おがみさん」と話を続けると、少しずつ二人について、ここがどういった場所なのかについて知ることが多くなった。

 あきこ——橘秋子——は滅多に顔を見せないここの施設長の娘であること。

「たくみ」は藤原拓海という名前であること。

 この施設は「じどーよーごしせつ」という場所であること。

 そこでは身寄りのない子の生活の場であること。

 ここでは兄弟姉妹でなくても「家族」であること。

 とにかく、ここが私の新しい生活の場所であり、あの二人を含んだ他の子どもたちと一緒に過ごさなくてはならないのだ。

――とてもできそうにない

 その日は叔父が正門に迎えに来てくれた。私は「おがみさん」の手をつないで正門まで来た。周囲はうららかな春日和なのに、叔父の顔は悲しそうだった。私は叔父の車に乗る。エンジン音がかかる。段々と景色が変わり、「フロス」も遠くなってゆく。明日からは一体、どうなるのだろうと希望の気持ちより不安の気持ちが勝っていた。


 その次の日は予定通り、私は他の子どもたちに紹介された。子どもたちの中に黒いおかっぱの子はいなかった。誰も彼も初めての人が多かったため、すぐに覚えられなかった。紹介が進んでいき、「おがみさん」は私の名前、「鹿足葉月」を子どもたちに伝えるとどよめきが起こった。無理もないだろう、私の苗字はよく「珍しい」と言われる程に同じ人が少ないのだから。子どもたちのどよめきは「おがみさん」によって抑えられた。私の一通りの紹介が終わり、子どもたちの大半はあちらこちらへ散った。残る子どもたちは私に質問をどんどん浴びせてくる。質問を終えた子たちは私と遊ぼうとしたが、私はあまり遊びたくなかったので明日なら良いと姑息に断った。子どもたちは不満気にその場を去った。

 ほとんどの人がいなくなったと思った私は絵本を手に取ろうと本棚へ向かうと、誰かが後ろをついてくるような感じがする。振り向くと、昨日の黒おかっぱの近くにいた男の子、「たくみ」がいた。あのときは秋子の印象が強くて覚える余裕が無かったが、一対一の今ならその容貌を見られる。ふさふさとしていて首を隠しそうな黒髪、薄い唇、細い眉毛、ぱっちりとした二重。幼い童女の心でも「かっこいい」と思える容姿だった。全体の雰囲気としては絵本で見たことのあるフェレットのようだった。カッコイイ、と思うよりは動物っぽいといえばいいか。

「昨日は秋子がいろいろ言って悪かったな。あいつは本当に悪気なんてなかったんだ」

「へぇ、そうなの。ところで、その秋子はどうして今日、いないのかしら」

「あれ、言っていなかったっけ? 今日、あいつは健康診断に行ったと思うぜ。ここの子たちの健康診断は本人たちの都合を踏まえて別々の日に定められているんだ。悪かったな、今日はあいつの診断の日で。まぁ、じきにお前の健康診断の日も決まるだろうな」

「そうなの?」

 ここの施設は様々な子どもがやってくる。私のように親が亡くなってしまったことで引き取られた子、公にはできない事情を抱えている子なんて当たり前だ。あのときより分別がついた今の私はそんな背景があるならしょうがないと思えたが、あのときの私は彼女が言い逃れもせずに逃げたように思っていた。

「あいつの両親は忙しくて子どもの相手をしていられないらしいんだ。まぁ、親のいない俺には『本物の親』が何なのかあまり分からないな」

「そう。それじゃ、あんなに秋子と仲のいいあなたなら彼女の好きなものを教えなさいよ。あまり関わりたくはないから……。まぁ、私は勉強をすることが好きよ」

 拓海は困惑しつつ、答えた。

「お前、ずいぶんとませているなぁ。秋子に言っていたら呆れられそうだよ。そうだな、あいつは音楽が好きだと言ってたな。俺はあまり詳しくはないからはっきりとは言えないけど」

 音楽。そうか、音楽か。

 あの彼女が好きなものが音楽だとは。

 何かが頭をよぎる。

 ぼんやりとした何かが、ぐちゃぐちゃと。

 いや、少しずつそれは形を顕わにして私の心を縛り付ける。

――薄暗く寒い部屋の中

――自分で壊したピアノのおもちゃ

――乱れた字で書いたアルファベットの本

――くしゃくしゃに丸めた落書き

――傷みを感じない身体

――出来もしないことを書いたカレンダー

――扉の奥からは両親の荒げた声

――あの子に音楽はダメよ

――どうしてだ やりたいことをやらせろよ

――音楽をやらせる暇なんてないでしょ

――どうしても勉強をさせてあげたいの

――勉強はまだ早いだろ

――何を言うのよ、あの子の幸せのためよ

――おい、いい加減にしろよ

――いい加減にするのはそっちよ

――なんだと

――こんなひどい子になるのなら



 生まなければよかった



 誰かの声が聞こえる。

 肩を掴まれる。

 誰かの髪が顔にかかる。

 あの長い髪は……、拓海だ。

「おい、どうした? 急に倒れるものだから心配したぞ。やっぱ、俺、何かいけないことでも言ったか?」

「い、いや、何でもないわ。気にしないで」

 まただ。また、蘇った。

 私の中の忘れてしまいたい記憶はふと蘇ることがある。そのときは当の私とてどうすることもできない。

 私は泥のように鈍い身体を強引に動かしてその場を去った。あの不快感は夕食、入浴、そして寝る前になっても身体のそばにいるように感じられた。


 またか。

 暗闇の中。

 周囲が揺れる。

 遠くに光が見える。

 光がさらに広がっていく。

 ――いや、昨日と違う。

 ――誰かの声が聞こえる。

 光が様々な形や色に変わる。

 声の主は……?

 おい、皆起きているぞ

 さっさと起きないと朝ご飯を食べちゃうよ

 聞き覚えのある声


――忘れられるはずがない、あの二人だ。


 私は秋子と拓海に起こされたようだ。本人たちはなかなか起きてこない私を心配して尾上さんに許可をもらって起こしに来たのだそうだ。起きたばかりで鈍い身体を引きずって二人の後をついていきながら食堂に行くと、他の皆は食べている最中である。昨日、私に遊ぶのを拒まれたことを根に持っているのか、私を見るやそっぽを向く子が何人かいた。

 朝食はふりかけのかかったご飯とお味噌汁、サバの味噌煮、葉物野菜の和え物だった。食べているうちに、昨日の不快感が無くなった気がする。

 歯磨きを終えた後は自由活動だ。ほとんどの子は外で遊ぶが、私はとてもそんな気にならなかった。皆が遊んでいる中、私は本棚へ向かおうとすると、後ろから何かの気配を感じる。見ると、あの二人だった。

「あっ。葉月ちゃんだ。昨日は話せなくてごめんね。ええと、ああ、そうだ、何か好きなものってあるかな? あたしも知っているものだったらもっと嬉しいな」

「おい、秋子。ちょっと落ち着けよ。お前の好きなものはあいつにとっては話してはいけないものなんだぞ」

 制止しようとする拓海。

「何よ。『これが好きだ』とか『何々が苦手だ』とかはっきりと言うのに一体何が悪いって言うの? 傷つくことに怯えているのなら誰とも関わらなければいいじゃない」

 私の何かが壊れた気がした。

 確かに、私は音楽、それもピアノが好きだ。私が演奏をすると、父はいつもほめてくれた。だが、母からは音楽ではなく勉強を強いられてきた。周りにも勉強が好きだと思ってもらえるように噓をついたことも何度かある。嘘をついていくうちに私の中で「音楽を好きだと口にすることを恐れる自分」を作ってしまっていたのだろう。気づくと、私の目頭は熱くなっていて、鼻も重たくなってきた。知らぬ間に呼吸も早くなる。

 私が思っていたよりも、彼女、橘秋子は芯の通った、いい子なのかもしれない。

 こんなちっぽけなことで逃げてはいけない。

 私は拳を握り締めて声を上げる。

――わ、分かったわ。

――私にも音楽の話をして。

 困惑する拓海。

 目が輝く秋子。

「ほぇ⁈ いいの! それじゃあ、キーターって知っている?」

 え?

「はぁ、また始まった」

 頭をかく拓海。

 そこからは延々と彼女の「キーター」という楽器に関する話を聞くことになった。 彼女の話している姿は凄く生き生きとしていて、見ているこちらも元気がもらえた。

 確かに、悪い子ではないかもしれない。しかし、付き合うのが簡単な子ではないことははっきりと分かった。


 ここから先は後で大きくなってから知った情報である。

「キーター」とはポップスに用いられる楽器で、エレキギターのような持ち方で演奏をするピアノのことである。私が「フロス」の子どもだった頃は古い楽器屋でないと買えないほどのマイナーな代物だったが、近年では人気が再燃しているらしい。私も休日に検索すると大手メーカーでも新規モデルが発売されていたり、新進気鋭の歌手が演奏に使っていたりと人気を得始めている情報をよく目にする。

 彼女の話を聞いた私はこのピアノと似ている「キーター」に強く興味を持った。そして、今まで背を向けてきた音楽に真剣に向き合おうと考えた。


* * * * * * * *

   

 彼女が開いてくれた道は、結果的に私を救った。私はあの日から「強がりな自分」を捨て、必死に勉強をしてアルバイトをして自分の力でキーターを買った。そして、高校を卒業する年の秋晴れの日に受けた専門学校のオーディションに特待生として合格した。現実を突きつけられて諦めかけたことが何度かあったが、あのときの言葉を思い出して最後までくじけずに努力を実らせた。

 今では、数々のライブに加えて大手事務所のレッスン講師、楽器の修理士と多忙な日々を過ごしている。やりたいことを貫く、彼女の言葉は今でも忘れられない。いや、時にはぶつかり合ったこともあったが、あの三人で過ごした楽しい日々は一生ものの財産だ。今でも二人とは連絡をしあう仲だ。


* * * * * * * *

   

 受講生たちがレッスンを終えて帰る。思えば、私にもこんな毎日を送っていたなぁ。携帯のブザーが鳴った。画面を開くと夫と子供たちが誕生日を祝う写真が送られた。自然と笑顔になる。子供たちも音楽に親しんでくれていて、こっちも嬉しくなる。

 電気を消そうとしたとき、部屋の窓の外の光景に目を奪われた。夜の駅にはたくさんの人が出入りをしていて、車の移動が激しい。いつもの光景だが、今日はいつもよりキラキラと輝いている。彼らもどこかの道へと行くのだろう。どうか、彼らの行く道に良き未来がありますように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る