仁戸倉すず子「春 泣きたい夜にはパンケーキとほほえみを」

 にぎやかな街並みをすこし離れた川のほとりに、そのお店はありました。温かい光のもれるそのお店は、ごはんの力が必要な人をいつでも待っているのでした。


 金曜日の夜9時。女の人が一人、歩いていました。

 その女の人は咲さんといいました。咲くと書いてえみと読みます。咲さんは出版社で女性雑誌の編集をしているキャリアウーマンです。今日も女性に人気のお店に取材に行ってきたのでした。

 しかし、咲さんは浮かない顔をして、さっきからため息ばかりこぼしています。というのも、咲さんは最近自分の仕事がうまくいっていないように感じていたのでした。社会人になって5年目。1年目は仕事に慣れるために一生懸命に働き、2年目からは慣れたことによって自分にできることが増え、とても楽しく仕事をしていました。しかし、3年目からは任されることも増え順調だったのですが、どこか2年目のような楽しさが薄らいできてしまったのでした。それでも仕事をしていたのですが、この前上司の人にもっと面白い記事を書いてほしいと言われたのでした。自分も気にしていたことでしたが、まさか他の人にも分かってしまうレベルだったとは。咲さんは驚くと同時にとても焦りました。周りを見てみると、去年入った後輩が単独で記事を任されるようになっていたり、大学の同級生からは結婚式の招待状が来ていたり。咲さんは、どこか自分だけがどっちつかずで中途半端な存在に見えてきたのでした。

 駅に向かうまでにある大きな橋を渡っているとき、咲さんは気づくと足を止めていました。


 川面は、街灯の灯かりをうけてきらきらと光っています。ゆらゆらゆれるそれは、見ているうちにだんだんとぼやけてきました。


「もう、辞めちゃおうかな。」


 咲さんは誰に言うでもなく呟きました。そしてそれに驚きます。

 辞める。辞めるって何を。なんて言って辞めるのか。辞めてそのあとは。会社はどうなるのか。あれだけ迷惑かけといて。でも私くらいいなくてもどうにかなるか。代りはいくらでもいるだろう。優秀な人も。いやでもそもそも辞めないし。というか好きだった仕事でこの様ってもうどうすればいいんだろうか。父母にはなんて言おう。あまり頼るわけにもいかないけれど。もう、一人暮らしなのだから。もう、独り立ち、したのだから。……だめだ。こういう時に考え事をするのはよくない。でも、

咲さんは、鼻の奥がツーンとしてきました。それでも、ただこの川面を吸い込まれるように見ていたのでした。


 ドサッ


 近くで音がするまで、咲さんは思考の波にのまれていました。ぼんやりと、どれくらい時間をここで過ごしていたのだろうと咲さんは思いました。そして、ようやく音のした方を振り返ると、見知らぬ女の子が口に手を当てて、咲さんを見ていました。


「あははは! それで、私が川に飛び込むんじゃないかって思ったのね。ありがとう。でもそんなことはしないから大丈夫だよ」

 あの後、見知らぬ女の子は突然咲さんの手を取り

「とりあえず、私の店に来てください。そして落ち着きましょう。何があったのか知りませんが、命大事に!」

と言うと早足で歩きだしたのでした。そして連れてこられたのがこのお店でした。咲さんは今女の子が淹れてくれた紅茶を飲んでいます。いくら春になったとはいえ、まだ冷たさの残る夜の川辺に佇んでいた咲さんの身体は、その温かさによって解けてゆきました。

「だって、あんなに静かに泣きながら川を見ていたら誰だって思いますよ。本当に驚いたんですから。」

 まだ丸みのある頬を膨れさせて、女の子は言いました。

「ごめんなさいね。いい大人が何やってんだか……恥ずかしい」

 咲さんが落ち込むと、慌てて女の子はそんなことないですよと返して

「私は紫って言います。紫と書いてゆかりです。ちょっと変わった名前なんですけど。」

「素敵な名前ね。私は咲です。よくさきって間違えられるの。」

「ああ、なるほど。私も『むらさきちゃん? 変わってるね』って。自分では気に入ってるんですけどね。」

「そうなのよね。」

 紫ちゃんは理解を得られて嬉しかったのかうんうんと何度も頷いていました。

「ところで素敵なお店ね。ごはん屋さんかしら? 自分のって言っていたけれどご両親は。」

「ありがとうございます。はい、そうです。ここはおばあちゃんの、祖母の家だったんです。私もとはI県出身なんですが、大学が家から遠くてここが近かったので、一緒に住んでて。それでそのまま譲り受けたんです。いっぱい思い出が詰まってるから、ここで何かしたくて。」

「そうなのね。」

「はい。」

 静かに、それでも愛おしそうに語る彼女の様子からして、元の持ち主はもうこの世にはいないのだろうということが咲さんには分かりました。そして、てっきり高校生かなと思っていたけれど聞かなくてよかったとも。さらさらと柔らかそうな黒髪の彼女は童顔で、落ち着いた大人っぽい子どもという印象でした。

「咲さんはどのようなお仕事を。」

「あー、私は……」

 咲さんはちょっと口ごもりつつ、ちょびっと紅茶を口に含みました。それから吐き出すような感じで話し始めます。

「女性雑誌の編集者をやってるんだけど……」

「へーなんていう雑誌ですか。」

 咲さんが答えると、紫ちゃんは知ってます! と目をきらきらさせました。

「入社して四年目になるんだけど、なんていうのかな。自信? が無くなったというか、自分の存在意義というか。今までとくに疑問に思ってなかったのに急になんで自分はこの仕事をしたいんだっけ、仕事、好きだったはずなのになんでこんなに辛いんだろう、頑張れないってふと思ってしまったというか。気づいたら後先考えずに突っ切れなくなったというか。……最近調子悪いなで済ましてたんだけど、ついに上司に何とかしろって言われてしまったことが思ったよりショックだったというか……そしてこれから結婚ラッシュですよ、はあー辛い。何が辛いって、心から祝いたいのに妙に焦ってうまく笑えない自分ですよ。あ~あ……」

 話しながら、咲さんは自分でもこんなに溜め込んでたんだ、と驚きました。初対面の紫ちゃんに話してしまっていることにも。

「はあ。……ごめんね、こんなの初対面で話す内容じゃないよね。あはは、もう、恥ずかしいな」

 紫ちゃんは黙って咲さんの話を聞いていましたが、そっとティッシュを差し出してきました。

「え?」

「咲さん、無理に笑わなくていいんですよ。大人だからって、我慢しすぎるのは良くないです。おばあちゃんの受け売りですが。私はあっちにいるので、思い切り泣いてください。」

 そういうと、紫ちゃんはそっと席を立ちました。それをぽかんとしながら見送った咲さんでしたが、あえて明るく話していたのがばれていたのだと気づき、少し苦笑いしたのでした。


 それから咲さんは久しぶりに、本当に久しぶりにしっかり泣きました。声を上げて泣きました。それによって瞼は重くなっていきましたが、その分胸につっかえていた重りが融けて軽くなっていくようでした。


 涙が落ち着いてきてしばらくすると、小さく咲さんのお腹が鳴りました。なんだか食欲が涌くのも久しぶりのようです。すると、どこからか甘いいい匂いがしてきました。

「お腹は空いていませんか、お客様。」

 そっと紫ちゃんが入ってきました。手には大きなお皿を持っています。

「空きました。」

 咲さんは、少し恥ずかしそうにしながら答えます。

「それは大変ですね。どうぞ、お召し上がりください。」

 そういうと、咲さんの前に大きな分厚いパンケーキが表れました。上にはバターとハチミツがたっぷりです。

「そ、そんな、だめよ、紫ちゃん。こんな時間にこんな、太っちゃうわ!」

「いいんです! 頑張ったときにはご褒美がないと。……しょうがないですね。共犯です。私も一緒に食べてもいいですか」

 といいながら紫ちゃんは咲さんの向かいにこれまた分厚いパンケーキを置きました。

「ええ! もちろん」

「よかったです。ごはん屋さんとしては失格かもしれませんが、もう閉店ですし。紅茶でいいですか。」

「お願いします。」

「桜のフレーバーティーにしましょう。とっておきですよ。」

紫ちゃんはにやっと笑うと、ティーカップを二つ用意して座りました。


『いただきます。』


 まず紅茶を一口。さくらの甘い香りと、塩漬けのほんのりとした塩味が渇いた喉を潤します。なんだか涙のような味です。そしてお目当てのパンケーキはふわふわ、ほかほかで、溶けたバターとハチミツのあまじょっぱさが咲さんの口を満たしました。ああ、なんて幸せなんでしょう。気づくとお皿は空っぽになっていました。


「ふふっ」

 紫ちゃんが笑っていました。


「ごめんなさい、笑ってしまって。おいしそうに食べてくれるから嬉しくなっちゃいました。……私、咲さんのほほえみ好きだなあ。あ、ダジャレじゃないですよ。」


 その言葉に咲さんはハッとしました。そうです。咲さんは誰かに微笑んでもらえるような、安らいでもらえるような記事を誰かに届けたかったのでした。自分の名前のように。咲さんの名前は、ご両親がずっと笑っていられるように、とつけてくれたのですから。


「まさか忘れていたとは……」

「何か言いました? お代わりありますけど、食べますか。」

 どこか挑むような眼で紫ちゃんは聞きました。咲さんは、意を決したように頷きました。


『ごちそうさまでした』


 食べ終わったころには、咲さんはもう口の力を緩めて笑えるようになっていました。一体何枚パンケーキが焼かれたのかは二人だけの秘密です。


「とっても美味しかった。ごちそうさまでした。お会計は……」

「あ、いいんです。もう閉店した後だったので、これは商品じゃありませんし。私が勝手にしたことですし。」

「え! いや、そういうわけにはいかないわよ。だって本当に美味しかったもの。お願い、これぐらい払わせて。」

「うーん。じゃあ、また来てください! 今度はオープンしているときに。そのときは、たくさん注文してください。今日の咲さんの食べっぷりを期待しています。」

「えーそんな太っちゃうわよ。運動しなくちゃ。」

「明日からすればいいんですよ、明日から。」

「それ、一生しないやつじゃないの。」

そういって二人は笑いました。

「じゃあ、また来るわ。今度はどんなものが食べられるのか楽しみにしています。」

「ええ、頑張ります。」

 咲さんは手を振って、お店をあとにしました。入るときは気づかなかったけれど、温かい木目のドアには看板が下がっていました。


ゆかり食堂 元気おすそ分けします


 その下には可愛らしい女の子の似顔絵が描いてあって、紫ちゃんにそっくりです。咲さんはくすりと笑いました。少しひんやりとした風が咲さんの頬を撫でます。しかし、身体がぽかぽかしていた咲さんは肩を竦めることなく歩き出しました。


 ああ、誰かにこの温かい気持ちを分け合いたい。記事にしたい。そうだ、その許可を得るためにもまたすぐに来よう。彼女は許してくれるだろうか。いや、でもあの落ち着く空間はだれにも内緒にしたいかも。


 気づくと咲さんは鼻歌を歌っていました。足取りも軽やかです。


 橋を今度は上を向いて通ります。空にはお月様がまあるく浮かんでいました。その光に微笑みながら、咲さんは駅に戻っていきました。

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