星海くじら「明日の私は今日より成長しているはず」

 ようやく過ごしやすい気候になってきた9月、爽やかな秋晴れのシルバーウィークという絶好の行楽日和であっても、私に出かける予定はなく、心もちっとも弾んでいなかった。その原因は、私があと半年もしないうちに大学受験をする高校生であり、さらに昨日返却された模試の結果がお世辞にもよろしいとは言えなかったことにある。

 自分の学力よりはややレベルが高い第一志望校に向け、夏休みは自分なりに必死で勉強に励んだつもりだった。その集大成として夏の終わりに受けた模試であったが、結果は先程も言ったように悪かった。

 そんな自分への失望とか、受験だけでなく将来全般に対する不安とかがない交ぜとなって、憂鬱な気分になっていたのである。

 せっかくのシルバーウィークに出かける予定がないのも私が受験生であるからなのだから、本当は勉強しないといけないことはわかっている。わかってはいてもやる気は起きず、ベッドに寝転びながらダラダラとゲームをしたり動画を見たりしていると、コンコンとドアがノックされた。「はーい」とおざなりに返事をすると、ドアを開けた隙間から母の顔が覗き、

「希美、暇なら珠希を散歩に連れて行ってくれない?」

と言ってきた。

 珠希は一周り年の離れた私の妹だ。12歳にもなって自分に弟妹ができると聞いたときは困惑したものの、いざ生まれてみると信じられないほど可愛く、家族揃って溺愛している。しかしながら、この憂鬱な気分では、いくら可愛いとはいっても一緒に出かけるのは億劫に感じられた。

「なんで急に?」

 私、受験生なんですけど。という言葉は今の自分が言っても説得力が無いと思い、呑み込みながら尋ねる。

「家に誰も居ないほうが家事が捗るのよ。お父さんは釣りに行ってるし、希美はちょうど暇そうにしてるからいいでしょう」

「あと10分したら勉強しようと思ってたし……」

 苦し紛れの言い訳は、「嘘おっしゃい」と一言でバッサリと切り捨てられた。まあ、その「あと10分」を今日だけで十回以上繰り返しているのは事実であるから仕方ないだろう。

 そして私は「やる気がでないなら外に出て気分転換してきなさい」という言葉とともに、半ば強制的にベッドから引きずり下ろされ、妹とともに家からも放り出されることになった。


 秋晴れの心地よい空気の中を、私と珠希は特に行くあてもなくブラブラと歩いていた。この年頃の子供なら大体そうかもしれないが、ひっきりなしに珠希が喋っているので、散歩と言うよりは歩きながら珠希の話を聞いているという方が正確な気がする。

 珠希の話は、幼稚園で何をしたとか、友達と何をしたとかそんな他愛のないものが大半だが、そのどれもを途轍もなく楽しそうに話すのでなんだか羨ましくなってくる。私もこれくらいの歳の頃は、なんの悩みもなく毎日楽しかったなあなんて郷愁にかられてしまう。

「珠希は毎日楽しい?」

 ふと、そんな言葉が口をついた。言ってすぐに、何を言っているのかと思い直し取り消そうとしたが、珠希は間髪を入れずに、

「うん!」

 と満面の笑みで頷いた。こんなにもはっきりと答えられるとは思ってもいなくて、質問したこちらの方がたじろいでしまう。

「おねえちゃんは楽しくないの?」

 返された質問もド直球で、受験生の闇に堕ちた精神状態をそのまま言うわけにもいかず言い淀んでしまった。

「……まあ、大きくなると楽しくないことも色々あるから」

 なんとか無難な感じの言葉でお茶を濁してみたが、珠希は「そっかあ……」なんて呟いて深刻そうな表情をしている。いけない、子供にはもっと夢のあることを言ってあげなければと思い明るい話をしようとしたが、それよりも先に珠希が口を開いた。

「じゃあ、こんどたまきが絵本よんであげるね」

「は? 絵本?」

 言われた言葉があまりにも予想外で、思わずオウム返しをしてしまったが、珠希は笑顔で頷く。

「うん! このまえね、せんせいがすっごくおもしろい絵本よんでくれたから、たまきがお姉ちゃんによんであげる!」

「あ、ありがとう」

 どんな絵本なのか若干気にはなるものの、それくらいで楽しくなったら苦労しないよな、なんてひねくれた考えが頭をよぎる。妹の言葉も素直に受け止められないことに自己嫌悪している私とは反対に、珠希は嬉しそうに言った。

「まえはおねえちゃんによんでもらうだけだったけど、たまきもよめるようになったんだよ!」


 その言葉は、珠希にとってはなんてことないものだったかもしれないが、私にとってはとても大事なものに聞こえた。

成長していくと、特に受験勉強なんかをしていると、自分のできないことばかりが目につくようになってしまって、こんな風にできるようになったことを誇らしく思う気持ちなんて忘れてしまっていた。

それに気がつくと、私の心を覆っていた靄もすっと晴れていくような、そんな感じがする。

「ありがとう。珠希」

「? どーいたしまして!」

 自分がなぜ感謝されたかもよくわかっていないながらも、感謝されたことに対してまっすぐに応える素直さも、今の私には眩しく感じられる。

「お礼にお姉ちゃんがお菓子買ってあげる。お母さんには内緒ね?」

「ほんと!?」

 何にしようか本気で悩み始めた珠希の姿を見ていると、こちらも微笑ましい気持ちになり、気がつけば憂鬱で塞ぎ込んでいた気分はどこかへと行っていた。

 模試の結果が悪かったことで夏の努力がすべて無駄だったように感じていたが、そんなことはない。古文は今までよりも点数が取れていたし、苦手だった関係代名詞の問題も解けていた。

 もちろん、できていなかった問題も多かったわけで、そこは反省しないといけないところではある。しかし、少しずつでも前に進んではいたし、そんな当たり前のことにも気がつけなくなっていたのは焦りすぎていたのかもしれない。

 私も珠希も、きっと何にでもなれるのだから、できないことを恥じるよりも、できることに胸を張って生きていけばいい。そんなことを考えていたが、思考は突如聞こえてきた声で中断される。

「おねえちゃん、きめた! たまきアイスにする!」

 見ると、少し先に見えたコンビニの看板を指差して、珠希がぴょんぴょんと跳ねている。

「どっちが先につくかきょうそうね!」

 そう一方的に宣言して、こちらの返事もまたずに珠希が駆け出す。

 その姿を見て、心のなかで「しょうがないなあ」なんて呟いて、ふと空を見上げた。抜けるように高い秋の空を見ながら、私は一つ息をついて、珠希を追いかけて駆け出した。




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