紫蘭「蒼空の亡霊」

 夏、そう聞いて何を思い出すだろう。燦燦と照り付ける太陽か。茹だるような暑さか。真っ青にどこまでも広がる空と宝石のように輝く海か。大輪のように夜空に咲く花火か。はたまた脳みそにキーンと響く氷菓子か。

 

 僕は、世の中を絶望で蓋をしたような灰色の空だ。

 あの日以来、僕の夏は灰色のまま。

 3年前の夏。僕の姉は死んだ。姉は僕が物心つく前から心臓が弱く、入退院を繰り返していた。だから僕の中に残る姉の記憶はそんなに多くない。

 病室のベッドから窓の外に広がる海を眺めていたパジャマ姿の姉。

 体調がいい時に作ってくれたプリンやクッキーの味。

 姉が元気だったころに二人だけで祖父母に家まで電車を乗り継いで行ったこと。

 そして、僕が学校から帰る途中、病室を抜け出した姉が防波堤に腰かけ静かに本を読んでいる後ろ姿。

記憶の中にいる姉はいつも腰まで伸びた艶やかな黒髪に綺麗に切りそろえられた爪をしていた。同級生は皆メイクをして、髪を染めたりネイルをしたりと思い思いのお洒落を楽しむ年頃になっても、姉の黒髪は変わることなく、メイクやネイルをしている姿を見たこともなかった。

それどころか、入院が長引くにつれてカラフルでお洒落だった姉の私服はだんだんとシンプルなものになり、最後の一年はパジャマ姿以外の姉を思い出せない。

それでも、記憶の中にいる姉はいつも美しかった。

いつ病室を訪れても「よく来たね」と柔らかく笑っていた。


 姉の命はあんなところで尽きるはずじゃなかった。

 もともと20歳まででは生きられないかもしれないとは言われていた。

三年前の夏、姉は19歳だった。姉の心臓はもう持たないかもしれない、家族全員が焦っていた時、姉は静かに笑っていた。「湊、なるようになるから。大丈夫」と。

 姉のドナーが見つかったのはそんな時だった。一縷の希望が見つかった。ほんの少し、光が差した。それでも、姉の受ける手術はとても難しくて、成功率は高いとは言えなかった。

 それでも姉は受けると決めた。生き続けられる可能性があるなら戦うと。家族全員、姉の決意と覚悟を受け止めて前を向いた。

 でも、神様なんてものがいるとしたら、神様はものすごく残酷で意地悪で――。

 手術の前日。姉の心臓は鼓動を止めた。

 希望を目の前に提示された状態で、僕たちはどん底まで突き落とされた。

 手術が成功したら、また祖父母の家に遊びに行こう。姉の作ったプリンを持って。  そんな話をしていた数時間後。たった数時間後だった。

 病院から連絡を貰って病室に駆け付けるとそこにはベッドに横たわる姉の姿があった。まるで眠っているようなその姿がとても美しかったこと、いつも姉が眺めていた窓の外の美しい海と青い空が灰色に染まっていたこと。それだけが脳みそにこびりついている。


 カーテンの隙間から朝日が差しこむ。

 朝7時、設定されていたスマホのアラームがけたたましく鳴り響く。

 のっそりとベッドから起き上がり、カーテンを開けることもなく薄暗い部屋でさっさと制服に着替える。

 余計なものがほとんどない、生活感の薄れた部屋。かろうじて乱れたベッドと入り口付近に乱雑に置かれたぺちゃんこのリュックが、人が生活している形跡を表している。

 何も置かれていない机、開けられることのないクローゼット、埃を被った棚、ここ数年、これが僕の部屋のデフォルトだ。

 リュックを拾い上げて部屋から出る。

 部屋から出ると必ず目に入る向かい側の部屋のドアに掛かっている『澪の部屋』と書かれた水色のルームプレートをいつものように見ないふりをしてリビングへと降りる。

 こちらもまた一切生活感のない静まり返った部屋。おそらく昨晩も誰も帰ってこなかったのだろう。

 姉がいなくなってからこの家はまともに機能していない。喧嘩が絶えないとか離婚話が出ているとかそんなものではなく、ただ会話も交流もない。

 父は姉の思い出があるこの家とこの街にいることに耐えられなかったらしく、自ら転勤を望み今は遠い北の大地に単身赴任中。

 母は片道二時間以上かかる職場で仕事に打ち込み、午前様はもちろん、週の半分は泊まり込んでいる。出張にもよく行っているようだがいつが会社に泊まり込んでいて、いつが出張なのかは把握していない。

 僕は高校二年生になった。姉が死んだとき、受験生だった僕は志望校なんてものを考える余裕もなく、でも高校に行かないという人生のレールから完全に外れる選択をする気力すらなく、地元で有名な名前を書けば誰でも入れる高校に入学した。両親も「湊が決めな」としか言わなかった。

 リビングに置いてある食費の入った封筒から千円だけ抜くと家を出て、頭の中で出席を計算してから高校とは真逆の方向へと歩き出す。

家から徒歩10分。街の小さな図書館。ここの人は僕が学校をさぼっていることを知っていても何も言わない。小さいころから姉と来ていたことを知っているからだろうか。黙ってくれていることにありがたく甘え、単位は落とさない程度に僕はここにさぼりに来る。

 ただ閲覧室に座ってぼーっとしたり、昼寝をしたり。小腹がすいたら隣のコンビニで適当に腹を満たす。

 姉は昔から読書が好きだった。今思うと幼いころから運動は禁止され、ろくに学校にも通えなかった姉にとって読書意外に娯楽がなかったのかもしれない。

 姉の体調がいい時は二人でこの図書館に通っていた。幼いころは姉が読み聞かせをしてくれていたし、小学生になって友達と遊ぶようになるとあまり来なくはなったが、中学生になってからは病室の姉から借りてきてほしい本のリストを渡され毎週のように通った。

 姉とは違い、僕は読書より外でサッカーをしたり、家でゲームをしているほうがよっぽど魅力的だったため、あんまり本を読むことはなかった。

 ただ、姉の指定した本を借りるために図書館には通っていたため作家の名前と人気の本だけは人並み以上に知っている気がする。

 カウンターの前を素通りし、図書館の一番奥、周りの人の目につきにくい席へと向かう。

 他に使う人もいないその席に、今日は珍しく本が置いてあった。

「あ、湊君。ごめん、今日は本の入れ替え作業をしていてこの席使えないんだ。悪いけどほかの席使ってくれる?」

 立ち止まった僕に声をかけてきたのは物心つく前から僕を知っている司書の森さん。記憶の中にある一番古い白髪に眼鏡の森さんの姿と今の姿が全く変わっていないと会うたびに思う。

「あ、はい」

 くるっと切り返してほかの席へと向かう。仕方なく他にも人がいる大きな読書スペースの端っこの席を陣取る。

 ここからは窓の外が見えないからいつものようにぼーっと外を眺めているわけにもいかず、目の前の本棚に目線をやる。

 日本人作家のア~カの棚。ちょうど目線の位置にあるのは姉が大好きなファンタジー作家のシリーズだった。たしか僕も何度も借りにこさせられた。

 なんとなく椅子から立ち上がり、シリーズ第一巻を手に取る。女性が旅をしながら人を助けつつ自分の過去と向き合い、必死に生きようと藻掻いていくストーリー。たしか姉はこの女性の生き方がかっこいいのだと語っていた。

 どうせすることもない上、人の目があるこの場所で堂々と寝るわけにもいかないこともあり、椅子に腰かけそのままその本を読み始める。

 もともと読書が嫌いというわけではないのだ。それ以外に魅力的なものがたくさんあっただけで。

 本好きの姉のおすすめなだけあってか、あっという間に物語の世界に飲み込まれた。

 ゆっくりと時間をかけて、一文字一文字を味わうように物語に浸る。

 午後ぐらいからは出席しようと思っていたことなど忘れ、一冊読み終わるころには六限はとっくに終わっていた。

 本棚に戻そうと思った時、裏表紙に貼り付けられた薄茶色の袋が目に留まった。

 図書館の本の貸し出しが本の後ろに名前を書く貸し出しカードからバーコードに切り替わった時、当時の図書館長が人と人とのつながりになるものは残したいからとカードは変わらず残して、書きたい人だけ書けるようにしているのだといつだったか姉が言っていた。

『朝霧 澪』

 引き出した貸し出しカードにはそう書いてあった。

 書かれた日付は亡くなる二年ほど前。

 姉の記憶に触れた気がした。

 両親があの家やこの街に居たくないのも、姉の事を思い出したくないのもよくわかる。でも僕は姉の事を忘れてしまうことの方が怖かった。あの日から、先に進んでしまうことが怖かった。だから嫌でも毎日姉を思い出すここで生きている。

 でも、姉の部屋には入れないし、姉の記憶に直接触れるものには関わってこなかった。

 関わることで今よりもっとどん底に落ちるのも、乗り越えてしまうのも怖かったのだ。だからずっと姉を身近で感じつつ、見ないふりを、思い出していないふりをしてきた。

 姉の文字を引き金に、姉に初めて図書館で本を借りてきてと言われた日の記憶が突如として引きずり出されてきた。


 あの日はたしか、「20歳までは厳しいかもしれない」両親がそう医者に宣告された日だった。

 姉に直接言われたわけではなかったが両親の態度を見て、聡かった姉が気づかないわけがない。

 あの日、学校帰りに病室に向かった僕は唐突に姉から「この本、借りてきてくれない?」と図書館の貸し出しカードと一枚のメモを預かった。

 そこに書かれていたのは確か、たった今僕が読んだ本。日付もちょうど合致する。

 それ以来姉は僕が病室に顔を出す度に本を一冊借りてくるように頼んだ。

「もっと借りてこようか?」と言った時もあったけど、姉は「これでいいの」としか言わなかった。

 毎日病室に行けたわけではないから、借りていたのは週に二、三冊。それでも二年間で相当な量を借りた。

 時たま、借りてくるものを間違えて怒られたこともあった。次は間違えないように。そう心掛けているうちに一冊も読んでいないのに作家の名前も図書館の配置も大体覚えてしまった。

「次はこれね」そう言って渡されるメモと詠み終わった本と一緒に聞かされる感想は姉との思い出の中で一番強く残っている。

 帰宅して自室に戻りしばらく使っていなかった机の引き出しを開ける。

 そこに入っているのはクリップでまとめられたメモ。

「いつ何を借りたかわからなくなりそうだから、そのメモ捨てないでね」と姉に言われて律儀にとっておいたものだ。

 メモの束の一番下を引き抜く。

 そこには確かに今日僕が読んだ本の題名があった。

 

 翌日、出席が危うい教科があったため午前中だけ高校に向かい、お昼休みにそっと抜け出した。

 向かう先は図書館。一直線にいつもの席、ではなく昨日の棚へと向かう。森さんが珍しそうにこっちを見ていることに気づかないふりをしつつ昨日のシリーズの第二巻を手に取った。

 姉が、この主人公の生き方に憧れていたのがわかるような気がする。彼女は基本的に一人で生きていた。どんなことでも大抵一人でこなす。生き抜く力に溢れていた。でも決して孤独ではなく、本気で困った時にはいつも手を差し伸べてくれる仲間がいた。 

 そして何より、彼女は絶望しなかった。希望に目を輝かせはしないけれど、どんな時も流れに身を任せることなく、自分の進む道は自分で決め、藻掻きながら生きていた。

 そんな彼女の人生のページを捲る。

 この本にも貸し出しカードに『朝霧 澪』の文字は刻まれていた。

 姉が生きた時間に触れつつ本を読む。物語を旅しながら姉が語っていた一冊一冊の本の魅力を思い出す。図書館を出る頃にはちょうど日が沈む。夕焼けや一番星を眺めながら姉との日々に想いを馳せる。

 そうやって姉の残してくれたメモにある本を、古い日付のものから順に読んでいった。

 以前にもまして出席はぎりぎりで、なのになぜか成績は底辺から少し抜け出しつつ平日も休日も図書館にひたすら通った。

 いつのまにか最初に本を手に取ったあの席は僕の定位置となっていた。

 木々が赤く色づき、木枯らしが吹き、あたりが白く染まり、桜が舞い、また灰色の夏がやってきたある日。

 僕は机の中から最後の一枚となるメモを取り出した。

 あの日、姉が亡くなった日。いつものように「これ、お願いね」と渡された一枚。

 一緒に渡された返却する本は姉の葬儀からしばらくしてから返しに行った。さぼりに図書館を使うようになったのはその本がきっかけだった。

 図書館で、メモを頼りに本を探す。

 唯一、僕が場所を知らない一冊。

 姉の手に渡らなかった一冊。

 貸し出しカードに『朝霧 澪』の名が無い一冊。

 姉の感想が、二度と聞けない一冊。

 その本は本棚の一番端にあった。

 最後の一冊はどうしても姉が好きだった海辺で読みたくて、初めて自分のために本を借りた。

 学校帰りに僕が通ると

「湊、おかえり。学校楽しかった?」

と防波堤の上から声をかけてくれたあの場所。

 あのころと変わらない海風が頬をかすめる。慣れ親しんだ磯の香と波の音。

 ここに来るときは必ず着ていた姉のお気に入りの白いワンピース姿と海風に揺れる長い黒髪は僕が知っている一番美しい姉の姿だ。

 姉と同じ場所に腰かけ、本を開く。

 

 主人公は病気の少女だった。少女は運命を呪っていた。神様を恨んでいた。でも、諦めなかった。生きるすべを探して、病気と闘い続けた。

 可能性の低い手術に自分の未来を託して、戦った。

 周りには平気な顔をして、いつも笑顔で。おとなしくいい子のふりをして。心の中にたくさんの想いを秘めたまま笑顔で戦いに向かった。


 物語はそこまで。

 彼女がどうなったかは描かれていなかった。

 なぜ姉が、手術の直前にこの本を選んだのかはわからない。自分の状況に限りなく近いこの物語をどんな想いで選んだのだろうか。

 読み終わった後、そこに姉の名前がないことを知りつつ、貸し出しカードを取り出した。

 そこは空白だった。

 でも、薄茶色の袋にはまだわずかに膨らみがあった。

 入っていたのは一枚のメモ用紙。

 そこには見慣れた文字でこう書かれていた。


 戦いから戻った彼女はいつもの笑顔でこう言った。

「だから、大丈夫って言ったでしょ」と。

 

 この本は姉の手に渡っていないはずなのだ。でもそこには確かに姉の文字があった。

 ふと亡くなる二週間ほど前に手術前に一度だけと言ってたった一日だけ家に帰れた日があったことを思い出した。たしかあの日は家族みんなで姉の好きな料理を食べて、病院に戻る前に急に姉が図書館に行きたいと言い出した。

 珍しい姉のわがままだったから父も母も驚いて、ほんのちょっとだけという約束で父が車を出してみんなで向かった。図書館の中は母が付き添っていたから姉が何をしていたかは知らない。でも、姉が向かっていたのは確かこの本があった棚のあたり。

 だからきっとこのメモはその時に入れられたものだ。

姉が図書館で本を借り出したのは亡くなる二年前から。

でも、姉の入院が長期化し始めたのはそれよりもっと前だった。

そしてそれよりもっと前から姉は読書が好きで、唯一の娯楽で、でも病室にたくさんの本は持ち込めないからと電子書籍を利用していた。

「紙の本を一枚一枚繰っていく方が好きなんだけどね」とは言っていたが。

 だから、図書館で本を借りる必要なんてなかったはずなのだ。 

 わざわざ僕に頼まなくったって。

 電子書籍で何年も読書をしていたはずなのに。

 紙の本が読みたいのなら、両親に言えばいくらでも買ってくれたはずだ。図書館だって、父が車を出せば一度に何冊でも借りられたはずだ。

 でも、なぜか姉は毎回たった一冊だけを僕に頼んだ。

 この一年、僕は姉の生きた二年を、本を通じて辿った。

 姉の旅した物語の世界を同じように旅した。

 姉が選ぶ本の主人公はいつも一生懸命に生きていた。

 いつも必死に前を向いていた。

 そして最後の一冊。姉は自分と同じ状況の少女の物語に「生きる」ことを書き足した。

 これからも生きていくことを。

 これはきっと姉自身の想いだ。

 生き続けると。

 姉は自身の結末を物語の主人公たちと同じように自分の手で描いたのだ。

 神様は残酷だった。慈悲なんてなかった。あの少女と同じように姉も運命を呪ったのかもしれない。神様を恨んだのかもしれない。

 でも、姉は最後の瞬間まで希望を捨ててなかった。

 生きようとしていた。

 確実に一歩一歩自分の道を歩こうとしていた。

 僕は、あの日から立ち止まったまま。

 時計の針は時を止めたまま。

 僕の夏は絶望で蓋をしたような灰色のまま。

 姉から渡された400冊近くの題名が書かれたメモ。

 あれは姉からのメッセージだ。

 本を閉じ、顔をあげると、目の前に白いワンピースを着た姉の姿が見えたような気がした。長い黒髪を揺らして。いつものあの柔らかい笑顔で姉は笑っていた。

 その後ろにはガラス細工のように美しく輝く海とどこまでも続く澄んだ青空が広がっていた。




                               2022年夏作品


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