紫蘭「夜明けの空にリコリスは咲く」
プロローグ
「お母様、あれはなんのお花?」
広い王宮の中庭を愛らしい少女が駆けていく。母親譲りのプラチナブロンドの髪はふわふわと風に靡き、上気した頬はピンク色に染まっている。
少女が指を指したのは広い中庭の一番端、人目につかないところに植えられた赤い花。華やかな他の花々とは異なり、物陰にひっそりと咲いたその花は、天に向かって真っすぐ、力強く咲き誇っていた。
「あれはね、リコリスというお花よ。神秘的で美しい、お母様の一番好きなお花」
「なんでこんな端っこに植えてあるの?好きなお花ならもっとみんなが見える所に植えた方がきっとこの子たちも喜ぶわ」
「そうね――、実はね、リコリスはこの国では罪の花と呼ばれているの」
「罪の、お花?」
「昔、この国は真っ白なリコリスが咲き誇る美しい国だったの。でもね戦争が起こって、あたり一面のリコリスが真っ赤な血で染まって――それ以来罪の花と呼ばれるようになったの。だから赤いリコリスは戦争の象徴。忌々しい記憶と同時に、忘れてはいけない記憶として王族だけが立ち入るこの庭の隅に植えられているのよ」
難しそうに首を傾げた少女に彼女は続けた。
「今はまだ難しいかもしれないけれど覚えておいてね。リコリスは私たちにとって輪決して忘れてはいけない、罪の証なのよ」
いつになく真剣な面持ちの母を見て少女はこくんと頷いた。
「でもね、お母様がリコリスを好きな理由は別にあるのよ」
「どんな理由?」
「大昔、この国を作った女王様は真っ白なリコリスがお好きだったの。災害で何もかもなくしたこの国に女王様は白いリコリスを植え、国を建てた。だから真っ白なリコリスは希望と再生の花と呼ばれていたの。希望と再生を司る花、お母様はそんなリコリスが大好きなの」
第一章 戦場に血の花びらは舞う
「王がお倒れになった!」
全ての始まりはこの一言からだった。
7人の皇子と1人の姫を持つこの国、クリスアル王国の王は後継者を指名することもなく、54歳という若さでこの世を去った。
死因は流行の熱病。鍛え抜かれたはずの身体は恐ろしいほどのスピードで弱り、周囲が慌てる間もなく息を引き取った、らしい。王の最後に立ち会ったのは懇意の医師と宰相、それから第3皇子のみ。4人いる王妃もそのほかの皇子も死に際に一目会うことすらできなかった。
急な崩御だったのにも関わらず、いつの間にか葬儀の準備は整い、あっという間に式は終わった。
その後、どうなったか。子供でも簡単に想像がつくだろう。葬儀から一週間もしないうちに後継者争いが始まった。
初めは王城の中で水面下に。誰がどの派閥につくのか、探り合いの末に誰の後ろ盾も得られなかった第4皇子とその母である第5王妃はいつの間にか王城から姿を消した。十中八九どこかで殺されたか、良くて命からがら辺境の地に逃げたか。後者の可能性は限りなく低い。
*
クリスアル王国は大海原にポツンと浮かぶ小さな島国である。
肥沃な大地と豊かな海を持ち、国民は自然の恩恵に預かりながら生活する全てを自国で賄っている国。技術はそれほど発達していないが、たまに流れついてくる漂着物から新しい技術を仕入れつつ、独自に必要なものだけを作っている。
他国との交通手段を持たないため、戦争や外交といった概念すらほとんど存在しない。この国の国民に幸せや不幸をもたらすのはあくまで自然であり、王や王家ですら自然の前では何の力も持たない一人の人間であるという考えなのだ。だから大きな内乱ですら過去一度しか起こったことのない平和な国であった。
そんな平和な島国で起こった二度目の内乱。それは国民も宰相ら政治を行う者らも、果ては王族すらも予想してないことであった。
まず、当たり前のように第1王妃は第1皇子が王位を継承するものだと主張し、その準備を始めた。成績もよくスポーツも万能。欠点という欠点がない、王になるためだけに教育されてきた彼は、自身が王になることを疑ってすらいなかった。
これに反対の声を上げたのが第2皇子を擁する派閥。第2皇子は成績こそ第1皇子に負けているが、剣術に長けており、実践では負けたことがない。明るく快活で多くの臣下に慕われており、野心家であることと周りからの期待も大きいこともあり、自ら王位継承に名乗りを上げた。
中立の立場を取ながら、静かに機会を伺っていたのが第3皇子である。剣術やスポーツは一切やらない彼は頭脳明晰で策略家として知られていた。欲しいものはどんなことをしても手に入れる狡猾さを秘めたある意味一番怖い男である。
戦場は徐々に王城から城下、国中へと広がり、あちこちで小競り合いが勃発するようになった。
国民の意見は二つに分かれた。大多数は優秀として知られる第1皇子を推した。第2皇子を推す国民は総数こそ少ないが、その誰もが熱狂的であり、勢いがあった。
次第に街のあちこちで小競り合いが勃発し、仲裁に入った王城の騎士団すら第1皇子派閥と第2皇子派閥に分かれて加勢するようになった。誰かが武器を持ちだし、血が流れだす。
後は、ボールが坂から転がり落ちるように、争いは加速し、戦争へと発展していった。
第2皇子の剣術の腕に憧れ、慕った者が多かった第2皇子派は倍以上の数を率いてきた第1皇子派の騎士や兵士を次々に倒していった。この戦いの中で第1皇子についていた第5皇子は命を落とした。
その後の戦いの記録はほとんど残っていない。
なぜなら、その戦いから帰還した者があまりにも少なすぎるからである。特に近衛騎士や指揮官など戦場全体を把握する立場の人間は誰一人として帰還しなかった。
それは第1皇子、第2皇子も含めてである。
わかっているのは王位継承第1位と第2位がいなくなったということ。つまりは第3位である第3皇子が繰り上がる。
どこからが第3皇子の策略なのか、はたまた偶然なのか。
王の葬儀の時のようにいつの間にか王位継承の準備は整い、国民への王位継承宣言がなされるかと思ったその日。第3皇子は王城内で刺されて亡くなった。
刺したのは日ごろから第3皇子に無能と呼ばれていた第6皇子。そんな彼も騎士団に首をはねられ亡くなった。何を思って兄を刺したのかはもう誰にもわからない。
ここまでのことが起こるのにわずか半年しかかからなかった。
第二章 忘れ去られた離宮にも戦火の足音が響く
小鳥のさえずる小さな庭園の木陰で一人の少女が本を読んでいる。
美しく手入れされたプラチナブロンドの髪は木漏れ日に照らされてキラキラと輝き、海のような深いブルーの瞳は熱心に手元の文字を追っている。
開かれているのはこの国の歴史書。1000ページを超える分厚い書物を彼女は興味深そうに捲っている。
「イネス様、またこんなところで本を読んでいると風邪をひきますよ。もうとっくに昼食の時間を過ぎているというのに」
「あら、ロアごめんなさい。気づかなかったわ」
歴史書をバタン、と閉じて少女、イネスは立ちあがった。
イネスに声をかけたのはイネスの乳母であるロア。柔らかい栗色の髪を一つに束ね、少し皴のある優しそうな顔は少々呆れた顔をしてイネスを見下ろしている。
ロアは生まれた時からイネスの傍にいる唯一の人物で、数少ないイネスの味方だ。
「読書に熱中するのもいいですけど、食事は忘れないでくださいね」
「……次から気を付けます」
「先週も同じ言葉を聞いた気がしますね」
ふっとロアは微笑んで歩き出す。
木々はそよ風に吹かれてさわさわと音楽を奏でそれに合わせて小鳥が歌う。
外界とは隔絶された静かで平穏な時間。
この建物は王城から少し離れたところに建つ小さな宮殿である。王城とは異なり華美な装飾は一切なく、白い壁とコバルトブルーの屋根が美しいシンプルで落ち着いた場所。
部屋数も決して多くはなく、木漏れ日の差す大きな窓のあるダイニングに、大きな書棚と木でできた温かみのある机とベッドが置かれたイネスの自室。何百年というこの国の歴史や文化、知識の詰まった図書室。滅多に来ることのないお客様を迎えるための応接室。乳母であるロアの部屋とその娘のレアの部屋。あとはキッチンやお風呂など生活に必要な部屋があるだけの本当に小さな離宮である。
その代わり庭園だけは広く、王城の中庭よりも広大で自然豊かな庭園が広がっている。離宮に一番近いよく手入れされた一角には真っ白なリコリスが植えられている。まだ、開花の時期には程遠いが秋には辺り一面真っ白に咲き誇るだろう。
イネス自身が球根から大切に育て上げた愛情の詰まった花だ。
リコリスが植えられた一角の脇には白いアンティーク調のガーデンテーブルと椅子。天気の良い日にはよくここで昼食をとる。
「今日はお庭に昼食を用意しましたよ。イネス様の好きなサンドウィッチとコンソメスープ、デザートにはプティングがありますから」
テーブルに並べられたのは美しい陶器の皿に入った透明なコンソメスープ。新鮮な野菜と卵、チキンなどが挟まれたサンドウィッチが数種類。
いつもと変わらない日常、のはずだった。
「イネス様! お母さん!」
叫びながら転がるように走りこんできたのはロアの一人娘であるレア。イネスの一つ下の女の子で母譲りの柔らかい栗色の髪のおさげが揺れている。
「レア、どうしたのそんな声を出して。いつも言っているでしょう。もっとおしとやかにしなさいと。少しはイネス様を見習って――」
「それどころじゃないの!」
ロアの小言を遮るようにしてレアは叫ぶ。
「門のところに騎士団長となんか偉い人たちがたくさん来てる! なんかイネス様に話があるとかで。今執事のトマさんが対応していて、急いでお母さんとイネス様を呼んでくるようにって」
息をつく間もなくレアは続ける。
「あと、それから、出来たらドレスを着てきた方がいいかもって。正装とまではいかなくてもいいけどある程度威厳? のある感じでって言ってた」
全部言い切ったかと思うと今度はロアが慌てて話し出す。
「イネス様。よくわかりませんがとにかくお部屋へ。確かブルーのドレスがあったはずです。それを着て、簡単にですが髪を結います。レア、あなたは洗面の所にある香油を持ってきて化粧道具を広げて頂戴。トマが対応しているなら15分は稼げます。その間になんとか王女様らしくしてみせますから」
まるで今の自分は王女らしくないという言動にイネスは若干ムッとしながらも、自身の着ているミントグリーンのシンプルなワンピースとモスグリーンのリボンタイを考え、確かにと心の中で頷いた。髪や肌の手入れは普段からロアが欠かさないため、太陽にあたって輝く髪と雪のように白い肌ではあるが、動きづらく派手なドレスは嫌いなためほとんど着ることはない。着るのは今のように動きやすいワンピースやブラウスにスカートなど、シンプルで飾りを少ないものを好んでいたら町娘よりは上品な、でも王族だとは思われないような仕上がりになってしまっている。
ロアの指示の下たった15分で王女らしく着飾られたイネスは鏡に映った自分を眺めた。
先ほどまでの気楽な恰好とは異なり、たっぷりとしたスカートのドレス。色は深いブルーで華美なものが好きではないイネスの好みに合わせて宝石などは使わず、繊細なレースとサテンのリボンで飾られ、髪はドレスと同じ深いブルーのリボンで美しく結い上げられている。
これが第1王女であるイネスの本来の姿。そうはわかっていながらも、どうしても先ほどまでの自分の方が好きなことにイネスは自身が如何に王族に向いていないかを再確認した。
レアから応接室で皆が待っている旨を聞き、応接室へとイネスは向かう。
普段訪れることのない客。しかもレア曰く偉そうな人たち。どことなく胸騒ぎがした。
すぅーっと大きくイネスは深呼吸をした。ここから先は第1王女としてのベールを被る。
応接室の重たい扉が開かれる。
ずらっと並んだのはいつか王城で見た騎士が数人とレアが偉い人と表したかすかに顔を知っている程度の人たち、そして
「――ヴィクトーおじ様?」
イネスがまだ王城に住んでいたころ、イネスに勉強を教えてくれていたイネスの師。イネスの祖父が玉座にいた頃のこの国の宰相だった人物。
「久しぶりだな。イネス、すっかり立派な女性になった。いくつになったかね」
イネスの記憶よりも髪は白くなったものの、それ以外全く変わらないヴィクトーは昔と変わらない調子でイネスに話しかけた。
「先日15歳になりました」
この国の成人は16歳。イネスは大人の階段を上る一歩手前まで来ていた。
「15か、ずいぶん大人になった。最後に会ったのはまだ7歳の頃だったな」
懐かしそうに目を細め、ヴィクトーはイネスを眺める。
「さて――実はいくつかの報告と大事な話があってきた」
優しそうな顔が急に厳しいものとなり応接室に流れる空気がピリッとひりつく。
「先ほど執事から聞いたが、ここへは外の情報がほとんど入っていないらしいな。半年ほど前に王、イネスの父君が亡くなったことは聞いているか」
「はい」
王の訃報はさすがに忘れ去られた離宮にも届いた。葬儀に参加することはなかったが死去から一カ月、離宮でも喪に服し、イネスも黒い服を纏っていた。
「あれから多くのことが起こった。
第1王女、イネス様にご報告申し上げます。王の死去に際し、王位継承争いが勃発し、今から五カ月前に弟君である第4皇子が、その一か月後に起こった戦いで第5皇子が、その後の戦争で兄君である第一皇子と第2皇子が戦死いたしました。王位継承は残された第3皇子かと思われましたが、その第3皇子も第6皇子に刺され死去、第6皇子は駆け付けた騎士に首をはねられ亡くなりました」
目の前に広げられた情報はイネスが想像していたよりも壮絶で、壮絶すぎて何の感情もわいてこなかった。元々、兄や弟といっても母親の違う兄弟。ほとんどか会話をしたことがないどころか、7歳で離宮に移されてから一度も顔を合わせていない。
それよりもイネスにとって衝撃だったのは、この離宮の外で戦争が起こっていたという事実。自分が何一つ変わらない日常を送っていたときに血を流している人がいたということが衝撃だった。
「――戦争の、被害は……? 国民は……?」
イネスが震える声でなんとか絞り出したのはそれだけだった。
「被害は大きいと言わざるを得ません。多くの民の血が流れ、そこから回復する手立ては現状無いと言えます。これが報告したいことでございます。もう一つ、大切なお話がございます。覚悟してお聞きください。イネス王女、王位継承者の死去によりあなた様の王位継承順位は1位となりました。他に代わるお方も残っておりません。
イネス王女、あなた様が次の王でございます」
第三章 引きこもりの少女はガラスの鎧を纏う
「王家断絶だなんて前代未聞だ。この国は終わってしまうのか――」
「王位継承争いで誰も残らないなんて、こんなの無駄死にだ!」
「第2皇子に着けばこの国はよりよくなると思っていたのに、このままでは廃れてしまうではないか」
「いや、王族がいなくなったらその権力を私たちが手に入れることもできるのでは――」
そんな言葉が飛び交い、混乱の真っただ中だった王城全体を鶴の一声で静まり返らせたのは、宰相でも権力を握っていた臣下でもない。すでに生きる伝説となっていた一人の老人だった。
「王族は残っておる。第1王女、イネス様だ。8年前病弱という理由で離宮に移されたが、現在も離宮で生きておられる。私はイネス様の即位を推す」
これは事実上、イネス即位の決定であった。
*
「私が……即位? 王、になる、ということですか……?」
「そうでございます。急なことで驚きだとは思いますがこの国にそれ以外の道は残されておりません。そこで、本日よりイネス様の身辺警護を強化させていただきます。こちらにいる騎士は戦争を生き抜いた者の中でも信頼がおける者たちです。どうか傍にお置きください。そしてこちらは生き残っている臣下の中で私が信用に足ると判断した者です。もう1つ大切なことがございます。ここにいる者と今までイネス様のお傍にいた数名以外は信用なさらないでください。この国はまだ混乱のさなかにいます。変な気を起こす者がいないとは限らない。その上イネス様は8年間姿を見せておらず、失礼ながら存在すら認識していなかった者もおります。身の回りには常に注意を図るようにお願いいたします。本日はここまでにします。数日中に王城へお引越し願うことになりますのでご準備をお願いいたします」
イネスが呆然としたまま、ヴィクトーの説明は終わり、やってきた人々は数名の騎士を残して帰って行った。
「――様、イネス様、イネス様!」
どこかへ行っていたイネスの意識を浮上させたのはロアの声だった。
「イネス様、大丈夫ですか?混乱していると思いますが、まずは深呼吸です」
ロアの声に合わせてイネスはすーはーすーはーと息をする。ゆっくりと脳みそに酸素が回り視界が鮮明となる。
「……ヴィクトーおじ様は私が王になるとおっしゃっていた? それ以外に道はないと」
「えぇ、おっしゃってました」
「そう……自室に戻るわ。しばらく一人にしてくれるかしら?」
イネスは大きく息をつき皴になりやすいドレスを着ていることも忘れベッドに倒れこんだ。
目の前で起こっている出来事が全部うすい靄を挟んだ向こうの出来事のようで現実味がない。
何の期待もされず、忘れ去られてこの離宮で暮らしていた日常がもうすでに恋しい。
王、王様。
イネスが知っている王という存在は父だけであった。
それも、わずか7歳までの断片的な記憶のみ。
イネスの父は王として可もなく不可もなくといったところであった。画期的な政策をするわけでも失策を連発するわけでもない。ただ前例にのっとり、確実に慎重に安全な道を行く。
その慎重な性格とは異なって女性関係だけは奔放だった。クリスアル王国の王族は重婚が認められている。
しかし、歴代に王族で3人以上の妻を迎えた者はおらず、基本的に1人か2人であった。
そんな中イネスの父は5人の王妃を持ち、7人の子を儲けた。
政治と異なり女性関係だけは何も気にせず自分の想いで行動できる。そんなことを言っていたらしい。その自由奔放な女性関係がこの国を転覆させかけることになるとは一ミリたりとも考えていなかったのだろう。
イネスは先ほどのヴィクトーの言葉を何度も頭の中で反復した。
そうしているうちに浮かんできたのは幼いころ、ヴィクトーに勉強を教えてもらっていたころの記憶だった。
「ヴィクトーおじさま。どうしてこんなにお勉強をしなくてはいけないの?レアは文字が書けただけで褒められているのに」
「イネス。あなたは女性で、兄君たちも大変優秀だ。だからイネスが表立って何かする日は来ないかもしれない。でも王族の一員であることに変わりない。王族というのは、この国と国民の命を背負っているのだよ。だから学ばなければならない。特に歴史は大切だ。歴史は過去の人物が現代に残してくれた遺産なのだから。そうして学んでいけば、この国のことも、国民のこともたくさん知れる。そうすれば自然と国民が何を必要としているかがわかるようになる。そうやってたくさん学んでいつか兄君たちを助けてあげられるようになりなさい」
あの日のヴィクトーは先ほどと同じように真剣な目でまっすぐイネスを見つめていた。
ヴィクトーが言ったようにイネスはたくさん学んだ。
離宮に移され、「兄君たちを助けてあげる」ことなんて訪れることはないと知った後も。
一晩、イネスはそのまま思考を続けた。
自分なんかが本当に王になるべきなのか。
王とはなんなのか。
今、クリスアル王国に、国民に必要なものはなんなのか。
頭の中に詰まっている過去の人物が現在に残してくれた遺産から、先ほど聞いたこの国の現状から、答えのない問いをひたすらに。
時計の針が何周もしたころ。
何かに呼ばれるようにしてイネスはベッドから降り、窓辺に向かった。
大きな窓を思いっきり開け放つ。
ふうっと早朝の澄んだ空気が部屋へと流れ込む。
考え続けて熱くなった脳を冷たい秋の風が冷やしていく。
その風の心地よさに身を任せていると次第に東の空が白み始めた。
その光は闇夜を照らし、どんよりとした思考の彼方にいたイネスまでも光の方へと引きずり出した。
イネスはその光を静かに見つめ続けた。
第四章 夜明けの空にリコリスは咲く
「イネス様。どのようなドレスにいたしましょう」
王城お抱えの行商人は煌びやかな布を何十種類も並べて言った。
ピンク、オレンジ、イエロー、グリーン、ブルー、ネイビー――そのどれもが民が何カ月も生活できるような贅沢品である。
「こちらの淡いピンク色などはイネス様の可憐さが映えるかと思いますし、こちらの美しい赤いベルベットはイネス様の華やかさや王族としての気品が際立つように思います」
初老に片足をかけている行商人は豊かに伸ばした白髪交じりの髭を触りながら続ける。
「イネス様のお好きな色などがございましたら他にもご用意できます」
行商人の後ろに控えている針子たちは目を見張るような布地にキラキラと目を輝かせている。
「華やかなものはいりません。この国は今、死の瀬戸際から生還したばかりです。豪華絢爛な衣装より必要なものはたくさんあるはずです」
イネスは椅子から立ち上がり布地を見て歩く。
「青い布地はありますか? この国の周りに広がる深く温かい海のような」
「ご、ございます」
「では、それで作ってもらいたいものがあります」
*
「イネス様。髪型はどうしましょう。編み込みも美しいですし、結い上げてティアラを載せるのもいいかと」
「ロア、緩く巻くだけでいいわ」
「ですが――わかりました」
わかっている。今日ぐらいは主に美しく着飾ってほしいというロアの気持ちは。でも、美しく着飾る余裕なんてない、あってはいけないのだ。
要望通り緩く巻かれた髪はせめてもの気持ちか薔薇の香油がつけられていた。
「ありがとう。ロア」
イネスはロアにそっと微笑む。
「いいえ、私にできることはこれくらいですから。イネス様のためにできることならなんでもいたします」
「なら――」
イネスは席を立ち、ロアに言った。
「ロア、ちょっとだけ見逃してくれる?」
イネスは一人、中庭に降り立った。
数少ない母との記憶が残った場所。この場所も随分様変わりした。記憶の中にある中庭と変わっていってしまうのが寂しいと思うこともあった。
それでも、変わって良かったと思えることが一つある。
お母様が好きだったリコリスが今は片隅ではなく中央に堂々と咲いていること。
罪の花である赤いリコリス。王城の中でも戦いが起こった影響でボロボロになった中庭の修繕を頼むときに唯一イネスが意見を出したことだった。
「今度こそ、二度とこの罪を忘れないように一番目立つところに赤いリコリスを」と。
真っ赤に咲き乱れるリコリスの中から特に大きく艶やかに咲き誇る一輪をそっと摘み取る。
ロアが美しく巻いてくれた髪にリコリスを挿す。
王家に代々伝わる格式のあるティアラなんかより、私にはこの真っ赤なリコリスの方がよく似合う。この、血にまみれた罪の花が。
即位式を国民の面前でやること、それを王位継承の条件としたとき臣下どころか乳母やレアにまで反対された。
民衆の怒りの矛先が向く可能性があると。
ロアに至っては「イネス様まで亡くしたくはないのです」と言って涙をこぼしていた。
それでもこれだけは譲れなかった。
王族が国民に生の声を伝えられる機会はそう多くない。自分の想いを伝えるならここしかないと思った。
そんな想いを知ってか、ヴィクトーだけはその条件を受け入れてくれた。
*
指先が震える。
自分で決めたこととはいえ、イネスは生まれてこの方、王族として国民の前に立ったことがなかった。
母である第三王妃が亡くなってからは、ほとんど人の目にさらされることもなく、離宮で静かに影のように生きた。それこそ存在自体を忘れられるほどに。
兄や弟の功績や失態が聞こえてくる度に、影である自分に感謝した。このまま何事もなく死ぬまで離宮で、本を読んで歌を歌って、自然と戯れて生きていくのだと思っていた。
でも、そんな未来はなかった。
影だった私に急に日が差し、光になることを求められた。
怖かった。
何もできない、使えない姫のままでいれば、あの離宮での生活に戻れるのかもしれないと何度も思った。
でも、民を見捨てることはできなかった。
私しかいないというのならば。私にできることをするしかない。
これはそのための第一歩。
ヴィクトーが横に立つ。
「イネス様。準備はよろしいですかな?」
震える指を隠してイネスは告げる。
イネスは大きく深呼吸をする。
「イネス様、私がイネス様に勉強を教えたのはたった一年にも満たない時でした。それでもイネス様が離宮に移られてから、時折執事のトマにイネス様の様子を尋ねるといつも決まってイネス様は読書に励んでおられると言っておりました。だから他の皇子たちが亡くなった時にイネス様なら、と思ったのです」
目を細めてふっと笑ってヴィクトーは続ける。
「イネス様が即位式を国民の前でやりたいとおっしゃったとき、それは間違いでなかったと思いました。昔見た小さな可愛らしいお姫様は立派な、強い女性になられたと。今日、イネス様が国民の前で何を告げるのか私は知りません。ですが、この国と国民のことを想い、学び続けるのであればこの不肖ヴィクトーはこの命の限り、イネス様をお助けいたします」
ヴィクトーの言葉によって冷え切っていたイネスの身体は自然と温まっていくようだった。
イネスはつっと前を向く。
「扉を――」
「私は今日、王位を継ぐためにここに立っているわけではありません」
国民が騒めく。それはそうだ。即位式でこんなことを言う王なんているわけがない。
イネスはすっと息を吸い込む。
「私は王家の血が流れている人間として、私利私欲のために民の血を流し、このクリスアル王国を荒廃させた罪を継ぐためにここへ立ちました」
王族らしい華やかなドレスではなく、真っ白なシンプルなドレスにクリスアル王国を象徴する海の色のようなブルーのジャケットを羽織ったイネスは堂々と国民を見つめて言った。
「私は王にはなりません。玉座には座りません。
民に、美しく豊かな自然あふれるクリスアル王国を返すために、血に染まった真っ赤なリコリスが咲く国ではなく、真っ白な希望のリコリスが咲き誇る国にするために私の人生をかけると、ここに、民衆の皆さんに誓います。
流した血の多さを、失った命の重さを私は忘れません。
この赤いリコリスを生涯忘れることなく、私はこの王家の血に流れる罪を継ぐ。
これを私、イネス・クリスアルの即位の言葉とします」
流れるような美しいプラチナブロンド髪に挿された真っ赤なリコリスが太陽に当たって燃えるように輝く。
そこには離宮で人の目から隠れて生きていた少女も、即位を告げられて呆然としていた少女もいなかった。
そこにいたのはイネス・クリスアルという美しく強い一人の女性だった。
エピローグ
王城から少し離れた自然豊かな街の外れに小さな丘と教会が建っている。
教会は小さいながら、繊細な彫刻とステンドグラスで美しく飾られ、どこか離宮を思い出す。
小さな丘の頂上には石造りのお墓。そこに眠るのはイネス・クリスアル。
この国の英雄であり、最も民に愛された人物。
イネスは即位の際に国民に誓った通り、最後まで玉座に着くことはなかった。一度も王冠を被ることもなく、自身を王と表すことも、国民や臣下に王と呼ばれることさえ嫌った。
その人生全てを国に捧げ、国民のために働き、亡くなった。
イネスは歴代の王族が眠る王城の立派な墓に眠ることすら拒んだ。
「私は王ではないから」と。
そんなイネスの想いを汲んで建てられたのがこの教会とお墓である。
イネスの好きだった自然あふれる場所で。イネスの愛した民がいつでも訪れることのできるこの場所で。
人々はイネスを敬愛の意を込めてこう呼んだ。
『レディ・クリスアル』
人々にとってイネスはこの国そのもの。美しく豊かなクリスアル王国を取り戻してくれた英雄、恩人。
イネスの墓にはこう刻まれている。
『レディ・クリスアルここに眠る。彼女の魂はリコリスと共に』
お墓の周囲は辺り一面、真っ白なリコリスが咲き誇っている。
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