ユイ「変身」
ある朝、晃は何かに気圧される気分で目を覚ました。
いつもより早く起床したためなのか、眠気が発生した。さらには、立ちくらみさえもあった。気分が悪い。
それでも、常に学校へ行くことが義務であるということを金科玉条としているため、自分の部屋を後にした。
洗面台に到着して、鏡と対面してみると、いつになく自分の顔がぼやけて曖昧にしか見えなかった。大豆のような顔色は見えるのに、凸凹とした顔パーツ、それから顔の輪郭までもが明瞭に見えなかった。鏡を手で擦ってみても変化はなかった。顔を洗ってみても、いつもと変わらず、鼻口の手触りが残る。顔にも触られた感覚がある。ただいつもと異なるのは、鏡に見える自分の顔が曖昧だということだ。のっぺらぼうとは少し違うような、顔だけが霧に覆われているようにも、顔がわたあめに変身したようにも感じる。
鏡か自分の目のどちらかがおかしくなったのだろか。よく解らない。それほど考える必要のないような理由、たとえば起床したばかりか、あるいは気分が悪いからかもしれない。だが、なぜだかそのことについて、否応なしに考えてしまう気持ちなのだ。それでも、あまり考えないようにと意識したが、歯を磨くことでさえ、口元が見えないのだから奇妙な感覚だ。目を閉じながら歯を磨くことはできたが、やはり違和感がつきまとう。歯みがき粉のミントでさえもいつになく甘く感じる。
一連の朝のルーティーンを、不安の波に揺られながら終え、キッチンに向かった。
おはようと、後ろから母の声を聞いた。その明るい声色とは裏腹に、母は眉をひそめ、しばらく無言で晃の顔を見つめていた。晃はその微かな表情の変化を見逃さなかった。
「なに」
自分でも驚くほどに投げやりな口調だった。
「いや、なんでもない、顔洗ってくるね」
晃は母がどうやら、自分の顔を見て不思議に思ったのだと察し、自分以外にも、ぼやけた顔が見られることに驚いた。実際に母の視線が一体どこに向けられていたのかを把握することは、母に聞いてみることによって可能であったが、なんだか嫌なことのように思い、行動に移さなかった。
加えて、母はいつも通りの何の変哲もない顔に見えたのだがら、余計に気を悪くした。
なんで自分だけが、という自問をしても理解できずにいるだけで、むしろ気が滅入るだけだった。
このままでは外出することも億劫だから、いっそのこと学校を休むことにしよう。そう決意すると、尚更自分の顔のことが気になって仕方がない。
晃は部屋に戻り、現状のヒントを得ようと、パソコンを使ってインターネットで検索しようとした。すると、パソコン画面の暗黒にはいつもの自分の顔が写し出されていることに気がついた。通常から特別に変化したところのない自分の顔。いや、変化がないと断言できるほどに自身の顔をわかっていたのかも疑問だった。自分の顔は自分自身のモノのようでいて、それはあたかも断片的に触れられるモノでもあるが、全体を把握するのは他者を通じてでしかないのだから、それは近くにありながら距離ある対象のようにも感じてくる。
結局、鏡がおかしかったのかと呆れるような気持ちと、幾分か救われるようにも感じる気持ちが錯綜していた。
不可解なことに区切りをつけられたからなのかわからないが、ふと、今日の覚醒する直前まで見ていた夢を急に思い出したのだった。
晃は、流れ着く先が見えない川筋に沿って歩いていたが、対岸で自分と同じ方向を目指して歩いている人を見つけ、距離が長くというよりかは、むしろ大きく離れているがゆえに、些細な相違を気にせずに、行く先が同一だと信じることができて歩いていたが、その同人が急に走り出したかと思うと、川の終着点ではなく、街の匆々としている方向へと消えてしまい、それを凝視していると、深い川底から込み上げてくるような悲しみによって涙が滝のように流れ、次第に足元が水に変化したために溺れてしまい、水深に沈んでいくような気持ちであったにもかかわらず、なぜだか逆に浮かんでいくような気持ちになって視界に眩しさを感じたと思ったら目が覚めたのだった。
なぜ今にこの夢を思い出したのだろう。今日はなにかヘンな心持ちだ。
洗面台に戻って、今日の不安の原因であるモノに対立してみると、そこには、起床後すぐに見えなかった自分の顔を見ると同時に、今まで知りもしなかった鼻頭にある小さい出来物を見た。それは、妙に生々しく朱色に縁どられた白い光のように輝いて見えた。
晃はそれを摘まんで潰した。
清々しい痛みであった。
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