浮舟の儀 其の三
まるで蛾の標本の様だ。
かつて同盟関係にあったグロリア連合王国の士官が灯華軍湾岸施設と停泊する灯華軍の艦隊を見て、そう表現した。
灯華軍の軍艦、とりわけ戦艦は船体に引けを取らない大きさの前翼とそれより小さな後翼を有しており、それが羽に見えたそうだ。
この認識は他の国でも共通しているらしい。先の戦争中、敵対していたヴァスコニア軍は灯華軍の軍艦を”ビッグモス”と呼んでいて、それらに搭乗していた灯華軍人を”モスマン”と呼んでいたそうだ。
なるほど、確かに蛾に見えなくもない。
灯華皇国近衛軍・高村彩子中尉は栄島基地第一庁舎にある特別室の窓からの景色を見下ろして、そう感じた。
第一庁舎は島の高台に建っているので、港側を向いている特別室からは皇都守護を司る栄島基地の港を一望する事ができる。
今でこそ港の済に追いやられている旗艦『晴天』をはじめとした皇都守備艦隊の艦船が堂々とした姿を見せている。
第一庁舎には儀式をご観覧される皇族方の他に、灯華政府高官や外国の大使が集められているという。
彩子は灯華軍上層部の灯華軍の偉容を国内外に見せ付けたいという思惑を感じずにはいられなかった。
自らのお使えする竜胆殿下の”浮舟の儀”を政治利用されている可能性に、彩子は苛立ちを感じていた。
「なにか見えましたか?」
背後から声をかけられて、はっとなった彩子が振り返ってみると、彩子がお仕えしている御方、長須院竜胆殿下の御姿がそこにあった。
普段の皇宮での生活で身につけられている衣服ではなく、灯華軍将校用の礼服に袖を通された御姿を目にして、彩子は新鮮な違和感を覚えた。
すぐさま頭を切り替えて、姿勢を正して灯華軍式の敬礼を取る。
「不審なものは見当たりませんでした」
すると、竜胆殿下は不思議そうな顔をされた。
「いえ、熱心に外を見ていたので、何か面白いものでもあったのかと思ったのですが、違いましたか?」
予想外のことを指摘され、彩子は眉を上げた。私はそんなに長い間窓の外を眺めていたのだろうか。そこまで考えて、彩子は御指摘を受けるほど長い時間、自らのお仕えする方に気付かなかったという事実に気がついた。
「申し訳ありませんでした」
彩子の謝罪に、竜胆殿下はお困りの様子をお見せになったものの、窓の外を見られると感嘆の声を上げられた。
「ここからだと、港が一望できるのですね」
「その様です。さすがは皇都守護の要、堂々たる姿です」
彩子は内心の軍上層部への苛立ちを隠しながら、客観的な感想を述べた。
竜胆殿下は港の施設や遠くの島々、そして停泊している艦船を楽しそうな御様子で眺められた。そして、とある戦艦に目が止まった。
「『祥風』も見えるのですね」
竜胆殿下の言葉を耳にして、彩子も同じ艦に視線を向ける。
戦艦『祥風』。灯華皇国において、護国三艦の一つとして名高い艦であり、竜胆殿下の”浮舟”だ。
「ええ。とても良く見えます」
そこで彩子は、『祥風』を”浮舟”に御指名になられたのは竜胆殿下だということを思い出した。
何か理由があるのですか。そう尋ねた際に殿下はどこか懐かしんでいる御様子であったのを、彩子は鮮明に記憶していた。理由は秘密だとはぐらかされてしまった。
「千鶴は大丈夫でしょうか」
窓の外に見える『祥風』を眺めながら、竜胆殿下は心配そうに呟いた。
”浮舟の儀”の航行には近衛兵だけではなく、竜胆殿下の身の回りのお世話をする者たちが同行することになっている。殿下付きの女官である長谷川千鶴殿をはじめ、多くのものは二日前に『祥風』に乗艦しているのだ。
「長谷川殿は何処にでも馴染める方です。殿下がご心配になるような事はないでしょう」
彩子は断言した。人に冷たい印象を与えてしまいがちな彩子とは異なり、長谷川殿の向日葵の大輪の様な笑顔と素直さがあれば、彼女のことを無下にする人間などそうそういないだろう。
「そうではないのです」
竜胆殿下は困った表情をされ、彩子の顔を見上げられた。
「そうではなく、船の中で迷って、乗組員の方ににご迷惑をお掛けになっていないかと、心配しているのです」
綾子は思わず喉が詰まったような声を出してしまった。長谷川殿の方向音痴っぷりは宮殿でも有名であった。彩子が長谷川殿と最初に出会った時も道に迷っていたのだ。
「…大丈夫でしょう。恐らく」
彩子の声は苦虫を噛み潰したようなものだった。
儀式の準備が整ったことを伝えにきた役人が訪れるまで、特別室の中には何とも言えない沈黙が漂っていた。
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