浮舟の儀 其の四

 皇家の儀式は一般には公開されることはない。

 例外事項の多い今回の”浮舟の儀”も、この点に関してははこれまでの慣習に倣う形となった。


 栄島軍港の敷地内の至る所で近衛兵が目を光らせ、儀式の内容が外から見られることがないように幕が張られている。栄島基地所属の軍人といえども儀式の運営に関わる最低限の関係者でなければ幕の内側に入ることは許されない。


 その内側には新島首相夫妻をはじめとした灯華皇国閣僚の面々や宮廷の関係者、滝口少将ら灯華軍幹部、栄島基地の上層部の将官達の姿が貴賓席に見られた。


 今、来賓の目の前では儀式の演目の一つである、建国神話の一節を演じる舞踊が執り行われている。

来賓達は部隊を挟むように設置された貴賓席から面部を感激している。これが皇国劇場などで上演されている演劇であれは拍手や官製が上がりそうなものであるが、神聖な儀式の最中に複数人に聴こえるような音を出すものはいなかった。


 国父・燈火之守尊が弥生周辺にいたという”黒蛇”という名前の龍から後の国母となる日之華姫を救おうと戦いを挑む場面だ。


 燈火之守尊は黒蛇を冥府につながるとされる神洞島の洞穴に封じ、死後も魂となって冥府にてこの黒蛇が現世に逃げ出さないように今も戦っていると、灯華最古の歴史書『燈華国記』には記されている。


 ”浮舟の儀”とはいわば、冥府で戦っている燈火之守尊に血統が続いていること、国が今も繁栄していることを伝えに行くという儀式が皇族の成人の儀と混同されたものである。


 照良は宮廷の役人が長々と説明していた儀式のあらましを思い出しながら演目が終わる時を待っていた。貴賓席の賓客としてではない。この儀式に参加する側としてだ。


 照良と松山大佐は今回の儀式で竜胆殿下の案内役という大役を務めることになったのであった。


 この演舞が終了すると、竜胆殿下と近衛兵達は『祥風』に乗船される手はずとなっている。照良と松山大佐はこの後、『祥風』艦長に着任される竜胆新艦長をお迎えするというわけだ。


 照良と松山大佐は役人に呼ばれるのを待っていた。生まれながらに手汗の酷い照良の両の手は今しがた水に浸してきたかのようであった。


 緊張の余り足がふらつきそうになるが、腹に力を加えてぐっと堪える。此処で倒れたとなれば一生の笑い者だ。

 笑われるのが照良だけなら良い。松山大佐や『祥風』の乗組員まで被害が及ぶのはなんとしてでも避けなければ。腹にぐっと力を入れて姿勢を正す。


そうすると、はっきりと見えるわけだ。

 

 舞台を挟んで反対側に、灯華の伝統装束に見を包んだ一団がずらりと並んでいる。もはや儀式や催事の際にしかお目にかかれない烏帽子姿の人々の服の彩りが遠くからでも鮮やかだ。


 その集団の中央に五人、烏帽子姿ではない人影が並んでいるのが見える。


 両端の二人はそれぞれが旗を掲げている。灯華の国旗と皇家の家紋の旗であるはずだ。その隣に背筋を伸ばし睨みを聞かせている。照良の身につけている黒を基調としたものではなく白の軍服からして、近衛兵なのだろう。


 ならば、中央の一人。肩章の付いた灯華軍の将校用の礼服を着た人物が誰なのか。答えを聞かずともすぐに分かった。


 現灯華皇国皇王皇后両陛下の第二子にして第一皇女・長須院竜胆殿下その人である。


 そのことを意識すると、内臓が鳴くような音を立てて腹腔内をのたうつような感覚に陥った。照良は姿勢を伸ばしたまま、胃の痛みに耐え続けることになった。


 舞踊の伴奏が一際大きくなる。黒蛇が痙攣したような動きをして、地に臥した。


 この後、燈火之守尊が咒いを唱え黒蛇を封印したところで演舞は終わりを迎える。


 いよいよ照良達の出番が近づいてきた。

 握った量の手は汗で濡れている。腹も胃がねじ切れたのではと思うほどの激痛を感じる。


 苦悶する照良の視線の先で、竜胆殿下達の両脇にに控えていた烏帽子姿の人々が一斉に動き出す。あの格好では動きにくそうであるのに全員が優雅な動作をしている様に照良は感心した。


 半分くらいの烏帽子が動き出したところで旗持ちの近衛兵が前へ進む。その後ろに残りの烏帽子達が並び始める。


「戦艦『祥風』代表、副艦長・松山健一朗大佐及び『祥風』航空科長・朝倉照良大尉、両名前へ」


 進行役の宮廷の役人が声を上げる。


 来賓の視線が照良達に向けられる。

その多くは松山大佐にだ。先の戦争での活躍にも関わらず、軍内部の派閥関係、旧幕府派の下級士族出身などの理由で中央から遠ざけられ、出世の道を立たれた不遇の英雄。注目を集めないわけがなかった。それでも松山大佐は堂々とした態度を崩すことはなかった。


 一方の照良はというと緊張し固くなった表情の奥底、心の中で非常にげんなりとしていた。

 照良にも奇異の色を存分に含んだ視線が向けられていたからだ。その理由が面倒な自身の血筋のせいだろうと照良は考えた。


「気にすることはない。君の両親と知己に成れたことは、私の自慢だ。胸を張っていなさい」


 照良にだけ聴こえる声量で松山大佐は囁いた。

照良はほんの少しだけ松山大佐の方を向いた。


 さあ、行こうか。松山大佐が視線で照良に合図を送った。いよいよだ。


 後は野と成れ山と成れ。照良は背筋を正し舞台の上に登った。舞台の両側の貴賓席から賓客達の視線が二人に注がれる。こんな経験は士官学校の修了式で登壇したとき以来か。

 

 緊張で体が固くなるのを意識して照良は、貴賓席の存在を頭の中から追い出すために正面を視線を向けた。


 旗を持った近衛兵を先頭に烏帽子姿の二列縦隊が一歩ずつゆっくりと近づいてくる。その列の中央に竜胆殿下と護衛達の姿が見えた。


 この時点で、照良の二十二年の人生の中で最も緊張した瞬間は更新された。


 隊列は舞台の前まで来ると左右の列に別れて、舞台を取り囲むように並び直す。列の中央に居られた竜胆殿下と近衛兵達は舞台に上がる階段の前で立ち止まった。


 舞台を取り囲んだ烏帽子達が祝詞を唱え、舞台の周りをぐるぐると回りだす。竜胆殿下の後方に列んでいた烏帽子も加わり、声が幾重にも重なる。


 照良のほんの数歩手前に、この国で最も高貴な一族の血を継ぐ方が居られる。灯華国民の大半がそうであるはずだが、照良の人生でこれ程皇族の方に近づいた経験はなかった。ここで照良の緊張は頂点に達した。すると、どういう訳か幾分か心が落ち着いてきたのだ。


 少しばかり余裕のできた照良は周囲に気付かれないよう、目だけを動かして竜胆殿下のお姿をまじまじと見つめてみた。


 背は照良よりも拳二つ分ほど低いだろう。

 顔立ちはまだ幼さを残しており、どこか人懐っこい印象を受ける。


 肩首辺りで切り揃えられた黒髪は夏の光を浴びて、不思議なことに紫の光沢を放っている様に照良には見えた。


 その髪が右耳の前の一房だけが小さく編まれているのは、なにか意味でもあるのだろうか。


 そこまで考えた時、竜胆殿下の背後に控えていた背の高い女性の近衛兵に睨まれていることに気付いた。ジロジロと見すぎたかと思い、首を動かすことなく視線を正面に戻した。


「本日より、戦艦『祥風』の艦長を務めさせていただく、長須院竜胆特務大佐です。至らないことなど多々在りますが、ご指導のほど、よろしくお願いします」


 竜胆殿下の敬礼はお手本のように丁寧なものであったが、その表情には緊張と不安が隠しきれていない。身につけている灯華軍の礼服は真新しく、艷やかで、失礼であるが着こなせているとは到底言い難い。


 「この度、戦艦『祥風』副艦長を拝命致しました、松山健一朗大佐であります。長洲院竜胆殿下の”浮舟の儀”が恙無く執り行えるよう、尽力させていただきます」


 松山大佐の声に現実に引き戻された照良であったが、内心の焦りを周りに悟られること無く、事前に練習していた通りの台詞を暗唱する。


「戦艦『祥風』士官代表、航空科科長・朝倉照良大尉であります。この度の長須院竜胆特務大佐の艦長就任、『祥風』乗組員一同を代表し、心から御祝い申し上げます」


 棒読みにならなかった事を、照良は心の中で自らを褒めた。

       

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る