浮舟の儀・其の二
送迎の車など必要のないような距離であった。
照良と松山大佐は栄島基地第一庁舎の前に降り立った。第一庁舎の会議室で行われる”浮舟の儀”の行程の最終確認を関係者と行うためだ。
『祥風』が栄島基地に入港して以来、第一庁舎には”浮舟の儀”の打ち合わせで何度か訪れている。
その度に萩原基地庁舎の老朽ぶりを思い出し、照良はなんとも言えない気分になる。
いかんいかん。照良は気を取り直して正面玄関の両側にいる守衛に敬礼をとり、庁舎内に足を踏み入れた。
建設されてからまだ三年と経っていない真新しい庁舎のエントランスは装飾は少ないものの、素朴な色合いの石が使われた気品のある空間であった。行き交う人々が身につけている軍服の意匠は萩原基地に勤務している軍人と同じものであるはずだが、まるで別物だ。
尤も、そう見えるのは彼らの多くが照良よりも年上だからかもしれない。
照良の世代、つまりヴァスコニアとの戦争以降に士官となった世代、通称”青田組”の姿を栄島基地ではあまり見かけないのだ。栄島基地に配属される士官は基本的にどこかの地方基地で五年以上の勤務実績が必要ということになっているので、当然の話である。
なので、照良はここ栄島基地で非常に浮いた存在であった。将校士官の横を通れば不審がられ、下士官兵卒と出会せば奇異の目で見られる。照良一人で歩くのは大変心地が悪い。合鴨のごとく、松山大佐の後ろについていくのが無難であった。
地方艦隊勤務の松山大佐ではあったが、かの”穂先群島会戦”の英雄となれば、知らぬ者はいない。向けられる視線は敬意の色が濃いのがよく分かった。それに伴い、照良に向けられる視線にも若干の変化が見られ、羨望と嫉妬が加わる。これならば、萩原基地でもまれに感じるので、慣れている。
エントランスから続く大階段を登りきった所で、右側の通路から将校の一団がこちらに向かってくるのが見えた。一団の先頭にいる人物を見て、照良は驚いた。一方の松山大佐は通行の邪魔にならないよう壁際に移動して敬礼をとった。照良は慌てて松山大佐に倣った。
一団はそのまま照良達の前を通り過ぎると照良は思っていたが、照良の予想に反して彼らは二人の前で立ち止まった。正確には先頭の人物が松山大佐の前で止まったのだ。
「君が以前に軍務省に来た時以来か。久しいな。松山大佐」
さほど大きくない声であるはずなのに、照良には心の奥底に響くよう感じられた。さながら寺社の梵鐘の音のようであった。
「お久しぶりです。滝口少将」
にこやかに返事を返す松山大佐の隣で、照良は緊張で体が強張りながら松山大佐の正面にいる人物に視線を向けた。
峻険な山岳を思わせる風貌の大男であった。灯華人としては比較的背が高い部類の照良であるが、目線を上げなければ、首から上が視界に入らない。
首の革が張るか張らないかといった所まで顔を上げてみれば、岩石を削り作り上げたかのような厳しい顔貌が目に入る。白髪混じりの頭髪が山頂に積もった雪を思い出させた。
この人が、滝口靖彦少将。照良はその場にいるだけで口の中が乾いていくのを感じた。
「この度の”浮舟の儀”で私もいよいよ船から降りることになりました」
一方の松山大佐はというと、いつもと変わらずといった様子であった。何も知らなければ文系大学の教授と言っても納得されるような松山大佐が大山の化身の如くの滝口少将と並べると同じ組織に属する人間だとは思えない。
二人がどんな事を話すのかと、横で聞いていると突然、松山大佐の奥方の病状の話や松山大佐の趣味の話が出てきて、照良は驚いた。
この二人は、親しい間柄なのだろうか。
照良がそんな事を考えていると、滝口少将がじろりと視線を動かした。自身より背の低い相手と会話する時の癖なのか、顎を引く癖があるらしく、それが一層威圧的に感じられた。それだけで、照良は口の中が干上がり、萎縮してしまいそうだった。
しかし、いつまでも黙っている訳にはいかない。照良は意を決した。
「小官は『祥風』航空科科長、朝倉照良大尉であります」
僅かに、ほんの僅かに滝口少将の目が見開かれた様な気がした。
「そうか、時良の倅か」
照良は驚いた。何故、滝口少将が照良の父親、時良の事を知っているのだろう。松山大佐とも知り合いのようであったのだから、もしかすると、滝口少将と父は旧知の中だったのだろうか?
「邪魔をした。失礼する」
滝口少将はそう言い残すと、背後に控えていた将校一団と共に其の場を離れた。
もし、滝口少将に追従している一団から睨まれなければ、照良は父親のことを滝口少将に尋ねてしまったかもしれない。去っていく一団の後ろ姿を見送った照良は松山大佐に尋ねた。
「松山大佐と滝口少将は一体どの様なご関係なのですか?」
照良がそう尋ねると、松山大佐は一瞬不思議そうな顔をして、ああそうかと何かに納得したように呟いた。
「滝口少将とは、士官学校の同期でね。時良とも同じ実習班だった」
「そうなのですか」
「彼は任官して直に中央勤務になったから、萩原にはめったに来なかったから、君が知らなくても仕方がないね」
松山大佐はどこか懐かしむ様に滝口少将の後ろ姿を眺めていた。
「無愛想に思えるかもしれないけれど、情に厚い人間だよ、滝口少将は」
無愛想の一言で片付けるのはどうかと思った照良であったが、眉根を寄せるでけに留めておいた。
松山大佐は照良の様子に気付いているのかいないのか鼻で小さく息をついた。
「さて、私達も行こうか」
光良と松山大佐は再び会議室へと向かった。
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