浮舟の儀 其の一

 光陰矢の如し。


 墓前での松山大佐とのやり取りが遥か昔のことのように照良には感じられた。あれからまだ一月も経っていないという事が俄に信じられない。


 しかし、時間は待ってはくれない。矢どころか鉄砲玉の如く駆け抜けた月日の事を照良はしみじみと思い出した。思い出して、様々な方面から恨みをかっただけではないかと思い、胃の腑が重くなるだけであった。


「腹が痛い」


『祥風』内にある士官用談話室で照良はうなだれていた。身につけた装飾の多い式典用の軍服が、まるで鉛でも仕込んであるのかと疑いたくなる程重く感じられた。


何やってんだか。健介に呆れられたが、睨み返くらいしか余裕がない。腹が痛くて、何もできない。尤も、腹が痛いのは、恨まれ他事だけが原因ではない。


 儀式の予行練習の際に発覚した”とある役割”で照良は精神的重圧にさらされることとなった。


 やはり、鰻一杯では安かったと照良は痛感した。


 痛感し、弥生で一番とされる鰻屋で松山大佐に奢ってもらい、そして、”浮舟の儀”当日を迎えることとなった。


 当日に慣れば、腹も自然とくくれるかと考えていたが、そんな事はなかった。


 ”とある役割”の事を考えるだけで、胃がねじ切れそうになる。


「さ、覚悟を決めて行ってこい」


 健介に肩をばしばし叩かれたかと思うと、他の士官達に背中を押され、照良は談話室の外に追い出されてしまった。照良が恨みがましく振り返ると、部屋の中でニヤニヤと笑う士官達の顔が見えた。


 休暇を途中で切り上げて戻ってきた兵卒や下士官達の不満への対応の際、苦労させられた分の仕返しということなのだろうが、あんまりだ。照良はこれ以上ないしかめっ面をしながら、『祥風』の廊下を歩いた。 


           ※


 皇都・弥生を守護する、通称”弥生艦隊”の本拠地である栄島軍港。地方基地としては大きい部類に入る萩原基地の二倍近近い敷地面積を誇り、施設や人員、そして停泊している艦船の数も多い。弥生鑑艦隊に属する戦艦『青嵐あおあらし』や戦母『風雲ふううん』などの姿が見えるが、艦隊旗艦『晴天』の姿はどこにもない。『晴天』は現在、特別警備で栄島周囲を巡航している。


 ”浮舟の儀”には皇家にとって重要な儀式の一つであり、警備が厳重になるは当然である。しかし、わざわざ旗艦が出ていく必要はない。


 何故、艦隊旗艦である『晴天』が巡視艇が行うような任務をおこなっているのか。


 理由は単純。本来『晴天』が停泊している第一埠頭に『祥風』が停泊しているからだ。”浮舟の儀”を取り行うに際し、一番都合が良い停泊場所がその位置であったのだ。



 その事が弥生基地に務める人々には面白くないらしく、埠頭に降り立った松山大佐と照良に向けられる視線は刺々しいものがあった。


 ここまで照良達をここまで連れてきた内火艇はそそくさと『祥風』に戻っていく。まるで親を見つけて尻尾を降りながら駆け寄っていく子犬のようであった。

 

 遠ざかっていく内火艇を見ながら、照良は初めて弥生に足を踏み入れた時の心細さを思い出した。


「昨日はよく眠れたかい、朝倉大尉」


松山大佐はいつもの世間話のときのように照良に話しかけてきた。しかし、照良のことを朝倉大尉呼びである事から、照良に組織人としての行動を求めているのだと理解できた。


「大変よく眠れました。おかげで万全の態勢で、本日を迎えられました」


 嘘である。寝付けず、狭い寝台の上で何度も姿勢を変えた。その度に微睡みが遠のき、却って目が冴えてしまった。


「期待しているよ。私は全然眠れなかったからね」


 照良は驚いて松山大佐に顔を向けたが、松山大佐は帽子の位置を直している途中で、腕が顔に重なって表情が隠れてしまっていた。


先程の発言は松山大佐の冗談なのか本当の話なのか、照良が判断に困っていると、車のクラクションが鳴り響いた。視線を向けると、埠頭の入り口部分にヴォルケントゥルム製の乗用車が止まっていた。


「さてと、迎えが来たようだし、行こうか」


 松山大佐の一言で、照良は再び腹痛に見舞われる。蛙が踏まれた時に出す断末魔の叫びのような何かが喉元まで込み上げててきそうになる。頭の内側の方は熱いのに、帳面は氷のように冷たくなってくる。


 歯を食いしばり、口唇に力を込め、喉の筋肉を締め上げ、ぐっと堪える。両足に力を込めすぎて、却って震えだす終いだ。


 そんな照良の事など露知らずといった様子で松山大佐はすたすたと車の方へ歩いていった。


 捨てられた子犬とはこの様な気分なのだろうかと、照良は考えた。そうしている間に松山大佐の姿はどんどん小さくなっていく。


 いつまでも立ち止まっているわけにもいかない。照良は姿勢を正し、大きく息を吸い、同じ勢いで吐いた。両手で自分の頬を叩き、自身に喝を入れる。


「…行くか」


 行きたくねぇ。心の中から微かではあるが確かに聞こえた声に耳を塞ぎ、照良は歩き出した。


 


 

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